じめに かならずよんでね

Three Great Madness of Rev.(or Guru) Herbert Marshall McLuhan

解説:池田光穂 Mitsuho Ikeda

語を母語とする人達には、ブリタニカ百科事典(子 供版)のマーシャル・マクルーハン(Marshall McLuhan, 1911–1980)というサイトがある。

英語だからという意味ではないが、これが子供向けと は思えないぐらい簡潔なのだが適確で舌をまく。我が国の子供向けの紹介はおろか、おとな向けのウェブの百科事典でも、このような水準に達するものが少ない ので、我が身と、我が日本語話者として大いに恥じ入る次第である。

全文を厭わず(かなり意訳であるが)引用してみよう。http://kids.britannica.com/comptons/article-9275596/Marshall-McLuhan

The medium is the message.” This statement by Marshall McLuhan is one of the most thought-provoking, as well as memorable, assessments ever made about television. McLuhan was an investigator of modern culture who sought to discern the impact of technology—particularly electronic media—on shaping the way people think, work, and live. He believed that the electronic media were restructuring civilization and was fearful that people would fail to perceive how their lives were being influenced and changed by them.
「メディアはメッセージである」。マーシャル・マクルーハン さんによる この発言は、テレビにかんする評価のなかでは、よく覚えられているものであり、またいろんな考えをとっても刺激するものです。マクルーハンさんは、テクノ ロジー(=技術)のインパクトが、とりわけ電子メディアが、人々が考え、働き、そして生活に対してどんな影響を与えるのかについて考えた、現代 文化の研究者のひとりでした。彼は、電子メディアが文明を変えつつあるのですが、人々は電子メディアによって自分たちの生活がどのような影響を受け、また ど のように変化を被っているかについてよくわかっていないのだ、だから人々はそれを怖れているのだと考えていました。
McLuhan was born in Edmonton, Alta., on July 21, 1911. By 1921 his family had moved to Winnipeg, where he attended the University of Manitoba. His early goal was to become an engineer, but he soon turned to literature. After graduating in 1933 and receiving a master's degree in 1934, he studied intermittently at Cambridge University in England during the 1930s. By the time he earned his doctorate in 1942, he had begun teaching in the United States. After a year at the University of Wisconsin (1936–37), he went to St. Louis University (1937–44) before returning to Canada. After two years at Assumption College (now the University of Windsor), in Windsor, Ont., he went to the University of Toronto, where he remained until his death on Dec. 31, 1980. From 1963 McLuhan was director of the university's Centre for Culture and Technology.
マクルーハンさんは、カナダのアルバータ州エドモントンに 1911年7 月21日に生まれました。1921年には、ウィニペグに彼の家族は引っ越して、マニトバ大学で勉強をしました。彼の最初の目標は、エンジニア(工学技師) になることでしたが、すぐに文学研究に変更しました。1933年に大学を卒業し、1934年に文学の修士号を取りました。1930年代は今度はイギリス (英国)の ケンブリッジ大学でも留学しそこで勉強をしました。1942年に哲学博士号を得て、アメリカ合衆国の大学で先生として教えることになりました。 1944年にカナダに帰国する前に、ウィスコンシン大学に1936年から37年に、1937年から1944年はセントルイス大学にいました。カナダのオン タリオ州のウィンドソーにあるアサンプション・カレッジ(現在はウィンドソー大学)に2年勤めた後、トロント大学にいき、1980年12月31日に亡くな るまでそこで勤めて(=教えて)いました。1963年からは、トロント大学の文化とテクノロジー・センターの所長を務めていました。
In 1962 he published the first of his well-known books on media and society: The Gutenberg Galaxy: The Making of Typographic Man, won Canada's top literary prize, the Governor-General's award, in 1963. His next book, Understanding Media: The Extensions of Man (1964), is his best-known critical assessment of modern technology.
1962年にメディアと社会についてもっとも良く知られた書 物『グーテ ンベルグの銀河系(副題:活字型人間の形成)』を出版し、カナダの最高文学賞である総裁賞(the Governor-General's award)をその翌年の1936年に獲得しました。その次の本は、『メディアの理解(副題:人間の拡張)』は、彼の本で最も知られた現代テクノロジーの 批 判分析の本です。
His article “What TV Is Really Doing to Your Children,” appeared in 1967, the same year as his book The Medium Is the Massage, coauthored by Quentin Fiore. (The title is a pun on his earlier statement, “The medium is the message.”)
彼の「テレビがほんとうにあなたの子供たちにおこなっている こと」とい う論文は1967年に出版されましたが、それは、クエンティン・フィオーレさんとの共著である『メディアはマッサージ』であるという本の出版と同じ年でし た(「メディアはマッサージ」という題名は冒頭にあげた彼が最初のころに言った「メディアはメッセージである」という表現をもじって面白く言ったもの です)。

このブリタニカ百科事典驚くべきところは、ここから 子供たちが文献引用する際に、英米語話者の基本的な4つの文献引用方式、つまり1)MLA(Modern Language Association, 現代英語協会)、2)APA(American Psychological Association、アメリカ心理学会)、3)Harverd (Harvard Referencing, Harverd Style, Harvard citation style, ハーバード方式)、および4)Chicago Manual of Style (シカゴ・スタイル・マニュアル)方式の4つの方式をボタン形式で表示することができるのである。

インターネット・サイトからの引用では、これらのす べての方式に精通しているひとは、日本語どころか英米語の話者でも少ないはずなので、これも労を厭わず引用する。

1)MLA(Modern Language Association, 現代英語協会)

"McLuhan, Marshall." Compton's by Britannica. Britannica Online for Kids. Encyclopædia Britannica, Inc., 2017. Web. 9 Feb. 2017.

    <http://kids.britannica.com/comptons/article-9275596/Marshall-McLuhan>.

2)APA(American Psychological Association、アメリカ心理学会)

McLuhan, Marshall. (2017). In Compton's by Britannica. Retrieved from

http://kids.britannica.com/comptons/article-9275596/Marshall-McLuhan

3)Harverd (Harvard Referencing, Harverd Style, Harvard citation style, ハーバード方式)

Marshall McLuhan 2017. Britannica Online for Kids. Retrieved 9 February 2017, from

http://kids.britannica.com/comptons/article-9275596/Marshall-McLuhan

4)Chicago Manual of Style (シカゴ・スタイル・マニュアル)

Britannica Online for Kids, s.v. "McLuhan, Marshall," accessed February 9, 2017,

http://kids.britannica.com/comptons/article-9275596/Marshall-McLuhan.

素晴らしいことの極みである。

さて、メディア論ではない、英文学者のマクルーハンについて、なんと、ブラックフェミニストの理 論家であり教育者であるベル・フックスが、マクルーハンに言及している文章がある。視点の獲得を通して、人間を自由をもたらす文学の可能性を論じている。 [→「自分の経験していない経験を知ること」]

"I think that we cannot begin to talk about freedom and justice in any culture if we are not talking about mass based literacy movements. Because I think that literacy as we know from the work of Marshall McLuhan and many others that the degrees of literacy determine so often how we see what see, how we interpret it, what it means for our lives and that there's a way in which radical movements for freedom in the United States devalue the significance of literacy as a radical agenda for politicization." - bell hooks, BELL HOOKS—CULTURAL CRITISICM & TRANSFORMATION, 2005

☆マクルーハン拾遺

カトリックへの改宗
マニトバ大学在学中、マクルーハンは宗教との葛藤する関係を探求し、文 学に目を向けた。「真実と美に対する魂の飢えを満たすため」であったが[28]、後 にこの段階を不可知論と呼んでいる[29]。 ケンブリッジ大学でトリビウムを学んでいる間、彼は1937年にカトリックに改宗する第一歩を踏み出した。[30] これはG. K. チェスタートンの著作を読んだことがきっかけであった。[31] 1935年、彼は母親に手紙を書き、次のように述べている。

もしチェスタートンに出会っていなかったら、少なくとも何年もの間、不可知論者であり続けていただろう。チェスタートンは私に宗教的信仰を納得させたわけ ではないが、絶望が習慣化したり、人間嫌いへと固まっていくのを防いでくれた。彼は私の目を開かせ、ヨーロッパ文化をより深く知るように促してくれた。そ して、私の中にあったのは単に盲目の怒りと不幸だったのだということを、その理由とともに教えてくれた。

1937年3月の終わりに、[b]マクルーハンは、ゆっくりではあるが完全な改宗プロセスを完了し、正式にカトリック教会に受け入れられた。牧師に相談し た後、父親は改宗の決断を受け入れた。しかし、彼の母親は息子の改宗がキャリアに悪影響を与えると感じ、悲嘆に暮れた。[33] マクルーハンは生涯を通じて敬虔な信者であったが、信仰はあくまで個人的な問題であった。[34] 彼は生涯を通じて「3」という数字に興味を持ち続け(例えば、三学、三位一体)、時には聖母マリアが自身の知的指導者であったと語った。[c] その後は、カトリック系の高等教育機関で教鞭をとった。
病気と障害
1979年9月、マクルーハンは脳卒中に見舞われ、言語能力に影響が出 るようになった。トロント大学の大学院研究科はその後間もなく彼の研究センターを閉 鎖しようとしたが、大規模な抗議活動により思いとどまった。マクルーハンは脳卒中から完全に回復することはなく、1980年12月31日に就寝中に死去し た。[45] 彼はカナダのオンタリオ州ソーンヒルにあるホーリークロス墓地に埋葬されている。[要出典]
ピエール・テイヤール・ド・シャルダン
1999年のフォーダム大学での講演で、トム・ウルフは、マクルーハン の作品に大きな影響を与えたにもかかわらず、あまり知られていない人物として、イエ ズス会の哲学者ピエール・テイヤール・ド・シャルダンを挙げた。シャルダンの考えは、特に人間の精神が「ノースフィア」へと進化するというマクルーハンの 考えを先取りしていた。実際、マクルーハンは、2冊目の著書『グーテンベルク・ギャラクシー』の序文で、シャルダンの観察を全面的に否定したり、無条件に 受け入れたりすることに警告を発している。

この感覚の外部化によって、ド・シャルダンが「ヌースフィア」と呼ぶもの、つまり世界のためのテクノロジーによる脳が生まれる。世界は膨大なアレクサンド リア図書館へと向かうのではなく、幼児向けのSF小説のように、コンピュータ、電子脳へと変化した。そして、私たちの感覚が外部へと向かう一方で、ビッグ ブラザーは内部へと向かう。したがって、このダイナミクスを認識しない限り、私たちはたちまちパニックに陥り、まさに部族の太鼓の音が鳴り響く小さな世 界、完全な相互依存、重なり合う共存にふさわしい恐怖の段階へと突入することになるだろう。

マクルーハンは私生活では、友人たちに次のように書いていた。「私はピエール・テイヤール・ド・シャルダンのファンではない。後から出てきたものの方が優 れているという考え方は、電子技術以前の技術から借用したものであることは明らかだ。」さらに、マクルーハンはカトリックの協力者に対して、「宇宙の推進 力が一方向に働くという考え方は...、進化という言葉によって生み出された最もお粗末な意味論的誤謬のひとつである。... その発展が何らかの方向性を持つなどということは、高度な識字能力を持つ社会を除いては考えられない。」と指摘している。[49]
クールとホットな社会
マクルーハンの主要な考えのいくつかは、おそらくより複雑な歴史的およ び心理的分析を伴う形で、エドワード・サピアやクロード・レヴィ=ストロースといっ た人類学者の影響を受けたり、彼らによって先取りされていたりした。[50] 広範囲にわたるコミュニケーション技術による西洋社会の再原始化という考え、社会における芸術家の機能に関する見解、 鉄道や飛行機などの交通手段をコミュニケーションの手段として特徴づけるという考え方は、1933年にサピアが『社会科学百科事典』に発表したコミュニ ケーションに関する論文で予見されているが[51]、「ホット」メディアと「クール」メディアの区別は、レヴィ=ストロースによる「ホットな社会」と 「クールな社会」の区別から着想を得たものである[52][53]。

機械の花嫁
マクルーハンの最初の著書『機械の花嫁:産業人のフォークロア』 (1951年)は、現在では大衆文化として知られる分野における先駆的な研究である。この 本の中で、マクルーハンは現代の大衆文化における説得の数多くの例を分析し、論評することに注目した。これは、説得を目的とした古典的な三学問における弁 証法と修辞学としての彼の初期の研究から自然に導かれたものである。この時点で、彼の関心は劇的に変化し、内容とは無関係なコミュニケーション・メディア の影響を研究する内省的なものへと転換した。彼の有名な格言「メディアはメッセージである」(『メディア論:人間拡張の諸相』1964年で詳述)は、コ ミュニケーション・メディアの本質的な効果に注目している。

大衆文化の批判的研究に対する彼の関心は、1933年に出版されたF. R. レヴィスとデニス・トンプソンの著書『文化と環境』の影響を受けている。また、『機械の花嫁』というタイトルは、ダダイズムの芸術家マルセル・デュシャン の作品から取られたものである。

『機械の花嫁』は59の短いエッセイから構成されており[55]、どの順番で読んでもよい。これは、彼が「モザイク的アプローチ」と呼ぶ本の書き方であ る。各エッセイは新聞や雑誌の記事、あるいは広告から始まり、それに続くのがマクルーハンの分析である。分析は、イメージやテキストの背後にある含意だけ でなく、審美的な考察にも及んでいる。マクルーハンは、これらの広告や記事を、その象徴性や、それらを作成し普及させた企業体への含意に注目させるためだ けでなく、そうした広告が対象とするより広い社会について、それが何を暗示しているかを熟考させるために選んだ。ロラン・バルトの1957年のエッセイ 『神話』は、マクルーハンの『機械の花嫁』と同様に、大衆的な大衆文化(広告、新聞記事、写真など)を一連の展示品として記号論的に分析している。 [56][57]
グーテンベルグの銀河系
1961年に執筆され、トロント大学出版局から初版が出版された『グーテンベルク・ギャラクシー:タイポグラフィック・マンの誕生』(1962年)は、口 承文化、印刷文化、カルチュラル・スタディーズ、メディア生態学の分野における先駆的な研究である。

マクルーハンは、この本の中で、コミュニケーション技術(すなわち、アルファベット文字、印刷機、電子メディア)が認知の組織にどのような影響を与えるか を明らかにしようと試みている。そして、それは社会組織に重大な影響を及ぼす。

新しいテクノロジーが、私たちの感覚のひとつまたは複数を、私たち自身から社会へと拡張するならば、その特定の文化において、私たちの感覚のすべてにわ たって新しい比率が生じるだろう。それは、メロディに新しい音が加わったときに起こることに似ている。そして、感覚の比率が文化の中で変化するとき、それ まで明晰に見えていたものが突如として不透明になり、曖昧であったり不透明であったものが半透明になる。
活字
マクルーハンのエピソード的な歴史は、読者をアルファベット以前の部族 的な人類から電子時代へと導く。マクルーハンによれば、活字印刷の発明は、アルファ ベットの発明と実用化以来すでに起こり始めていた文化と認識の変化を、大幅に加速し、強化し、最終的に可能にした。マクルーハンが言うアルファベットと は、音素表記を意味する。(マクルーハンは、エジプトの象形文字や表意文字のような表語文字や表語文字体系と表音文字を区別するよう注意している。)

15世紀半ばにグーテンベルクが印刷機を発明したことにより印刷文化が発展し、視覚が聴覚/口頭よりも文化的に優位に立つようになった。ウィリアム・アイ ヴィンズ著『印刷物と視覚コミュニケーション』から印刷された文字の性質に関する観察を引用し(承認の意を表して)、マクルーハンは次のように述べてい る。

この文章で、[アイヴィンスは]直線的、連続的な習慣が根付いていることを指摘しているだけでなく、さらに重要なこととして、活字文化における視覚的な経 験の均質化、そして聴覚やその他の感覚的な複雑性の背景への追いやりを指摘している。

タイポグラフィの技術と社会的影響は、私たちが内面と外面の両方において、相互作用や、いわば「形式的な」因果関係を指摘することを控えさせる傾向にあ る。印刷物は機能の静的な分離によって存在し、分離や区分、専門家の見解以外のものに徐々に抵抗するメンタリティを育む。

メディアはマッサージである
マクルーハンの主張の主な概念(後に『メディアはマッサージである』で さらに詳しく説明されている)は、新しいテクノロジー(例えば、アルファベット、印 刷機、さらには音声)が認知に引力のような影響を及ぼし、それが社会組織に影響を与えるというものである。印刷技術は、私たちの知覚の習慣、「視覚的な経 験の均質化」を変え、それが社会的な相互作用に影響を与える。「専門家の見解以外には徐々に抵抗する考え方を助長する」のである。マクルーハンによれば、 印刷技術の進歩は西洋世界における近代の顕著な傾向のほとんどに貢献し、それを可能にした。すなわち、個人主義、民主主義、プロテスタンティズム、資本主 義、そしてナショナリズムである。マクルーハンにとって、これらの傾向はすべて印刷技術の原則である「行動と機能の細分化と視覚的数値化の原則」と共鳴し ている。[60][検証が必要]

1967年に出版された『メディアはマッサージである:効果の目録』は、マクルーハンのベストセラーとなり[18]、「最終的に世界中で100万部近くを 売り上げた」[84]。クエンティン・フィオーレが発案した[85]この本で、マクルーハンは「マッサージ」という用語を採用し、各メディアが人間の感覚 に与える影響を意味するものとした。また、数多くのメディアが感覚を「マッサージ」する方法という観点から、それらの「効果」を一覧化した[i]。

当時著名なグラフィックデザイナーであり、コミュニケーションコンサルタントでもあったフィオーレは、ジェローム・エイジェルがまとめたこれらの効果の視 覚的図解の作成に取り掛かった。本の冒頭近くで、フィオーレはメディア効果を示すイメージを、その対向ページにテキストの要約を添えて提示するというパ ターンを採用した。読者は、タイポグラフィの活字を「読む」ことから写真の複製を「スキャン」するといったように、分析のレベルを繰り返し変えることを経 験する。これは、各メディアが人間の感覚に対して異なる「メッセージ」や「効果」を生み出すという、この本におけるマクルーハンの包括的な主張を補強する ものである。

『メディアはマッサージである』では、マクルーハンは、1962年の『グーテンベルク・ギャラクシー』の序文で初めて提示した、すべてのメディアは人間の 感覚、身体、精神の「拡張」であるという主張を繰り返している。

最後に、マクルーハンは、人間が世界をどのように見てきたか、そして新しいメディアの採用によってそれらの見方がどのように変化したかという変化の要点を 説明した。「固定された視点と観点の採用によってもたらされた活版印刷術による『19世紀の発明の技術』に対し、」ラジオ、映画、テレビの詩的表現能力に よってもたらされた「判断保留の技術は20世紀の発見である」[87]。

過去はそうだった。まったく新しい状況に直面したとき、私たちはつねに、最も最近の過去の事物や雰囲気に固執しがちである。私たちは現在をバックミラー越 しに眺めている。私たちは未来に向かって後退しながら進む。郊外は想像力豊かに『ボナンザ』の世界に生きている。

マクルーハンの有名な著作の音声録音版がコロンビア・レコードによって制作された。録音は、マクルーハンによる発言のパッチワークで構成されており、他の 話し手による発言が挿入されている。その中には、さまざまな音声やファルセットで話す人々、不協和音、1960年代のBGMなどが含まれており、これは、 テレビで断片的に見られるイメージを音声フォーマットに変換しようとする意図的な試みであると考えられ、結果として、意識的な思考の流れが途切れることに なる。話し言葉、文学的な話し言葉、電子音声メディアの特性の関係性を示すために、さまざまな録音技術や発言が用いられている。マクルーハン伝記作家の フィリップ・マーチャンドは、この録音を「1967年のマクルーハン・ビデオ」と呼んだ。

「私は生きた芸術作品と一緒に死ぬつもりはない。」—「老人」のセリフ 「このごまかしをやめて、正直に話せ。」—「中年男性」のセリフ
地球村
1960年代初頭、マクルーハンは、視覚的で個人主義的な活字文化は、 電子メディアが視覚文化を聴覚・口承文化に置き換える「電子相互依存」によって、間 もなく終焉を迎えるだろうと書いた。この新しい時代において、人類は個人主義と断片化から「部族的基盤」を持つ集団的アイデンティティへと移行するだろ う。マクルーハンがこの新しい社会組織に与えた造語は「グローバル・ヴィレッジ」である。

この用語は『グーテンベルク・ギャラクシー』では否定的な意味合いで説明されているが、マクルーハンは価値判断を下すのではなく、その影響を探求すること に関心を持っていた。[48]

世界は膨大なアレクサンドリア図書館に向かうのではなく、コンピュータ、電子頭脳となった。まさに幼児向けのSF小説の通りだ。そして、私たちの感覚が外 に向かうにつれ、ビッグブラザーは内に向かう。したがって、この力学を認識しない限り、私たちはたちまちパニックに陥るだろう。それはまさに、部族の太鼓 の音が鳴り響き、完全に相互依存し、重なり合う共存が繰り広げられる小さな世界にふさわしい恐怖である。恐怖は、口承社会における通常の状態である。なぜ なら、そこではすべてが常にすべてに影響を及ぼすからだ。

西洋世界が感覚、思考、感情の統一性を回復しようと長い間努力してきた中で、私たちは、活字文化による人間の精神の断片化に備える以上に、そのような統一 性から生じる部族的帰結を受け入れる準備ができていなかった。

テクノロジーと自己
マクルーハンの主張の要点は、テクノロジーそれ自体には道徳的な傾向はないという考え方である。テクノロジーは、個人、ひいては社会の自己概念と自己実現 を形作るツールである。

テクノロジーの観点から道徳的な立場を取らないとしても、常に十分な道徳的な問題があることは明らかではないだろうか?
印刷とウェブ
印刷は、まず第一に、人間を部族化または集団化から解放するアルファ ベット文化の極限的な段階である。印刷は、アルファベットの視覚的特徴を最大限に明確 にする。したがって、印刷は、音声アルファベットの個別化能力を、手書き文化がこれまでなし得たことよりもはるかに遠くまで運ぶ。印刷は個人主義の技術で ある。人間がこの視覚的技術を電気技術によって修正することを決めた場合、個人主義も修正されるだろう。これについて道徳的な不満を述べるのは、指を切り 落とすための電動のこぎりをののしるようなものだ。しかし、誰かが言うように、「私たちはそれが起こるとは知らなかった」のだ。しかし、無知でさえも道徳 的な問題ではない。それは問題ではあるが、道徳的な問題ではない。そして、私たちの技術を取り巻く道徳的な霧を晴らすことは素晴らしいことだ。それは道徳 にとって良いことだろう。

マクルーハンにとって、テクノロジーが認知に及ぼす影響の道徳的価値は、視点の問題である。例えば、マクルーハンは、17世紀後半に書籍の量が増加したこ とによって引き起こされた大きな不安や嫌悪感と、現代における「本の終焉」への懸念とを対比させている。テクノロジーに対する普遍的な道徳的判断を下すこ とはできないが、マクルーハンは「テクノロジーに内在する因果関係や影響に対する認識の欠如から生じる災厄だけは避けられない」と考えている。[63]

マクルーハンは『グーテンベルク・ギャラクシー』を世に送り出してからほぼ30年、彼が亡くなってから10年後にWWWが発明されたが、マクルーハンは 1962年にはすでに今日のウェブテクノロジーを予言していた。[64]
テレビとザッピングとサーフィン
次のメディアは、それが何であれ、意識の拡張であるかもしれないが、コ ンテンツとしてテレビを含み、環境としてテレビを含まない。そして、テレビを芸術の 形に変えるだろう。研究および通信機器としてのコンピュータは、検索を向上させ、大量の図書館の整理を時代遅れにし、個人の百科事典的な機能を回復させ、 販売可能な種類のデータを迅速にカスタマイズするプライベート回線に切り替えることができる。

さらに、マクルーハンは、異質な文書や知識の集合体を高速かつ不規則に、多方向に移動することを指す「サーフィン」という用語を考案し、広く普及させた。 例えば、「ハイデガーは、デカルトが機械の波に乗ったように、電子の波に乗って堂々とサーフボードに乗っている」というような表現である。ポール・レビン ソン(Paul Levinson)の1999年の著書『デジタル・マクルーハン』では、デジタル革命のレンズを通してマクルーハンの著作をより深く理解する方法が探求さ れている。[14]
メディア論
マクルーハンの最も有名な著作『メディア論:人間拡張の諸相』 (1964年)は、メディア論における画期的な研究である。マクルーハンは、人々がテレビな どの新しいメディアに接し、利用する方法に驚き、現代社会では「私たちは神話的かつ統合的に生きているが、電気の発明以前の古い、断片的な空間と時間パ ターンで思考し続けている」と主張したことで有名である。

マクルーハンは、研究の対象はメディア自体であり、そのメディアが伝えるコンテンツではないと提唱した。これは一般的に「メディアはメッセージである」と いう言葉で引用されている。彼の洞察は、メディアはそれが果たす役割において、そのメディアが伝えるコンテンツではなく、そのメディア自体の特性によって 社会に影響を与えるというものである。マクルーハンは、このことを明確に示している例として電球を挙げている。電球には、新聞の記事やテレビの番組のよう なコンテンツはないが、社会に影響を与えるメディアである。つまり、電球は、暗闇に包まれてしまう夜の空間を人々が作り出すことを可能にする。彼は、電球 をコンテンツを持たないメディアと表現している。マクルーハンは「電球は、その存在だけで環境を作り出す」と書いている。[70] さらに物議を醸す主張として、マクルーハンは、コンテンツが社会に与える影響は少ないと仮定している。例えば、テレビが子供向け番組を放送しようが暴力的 な番組を放送しようが、社会に対する影響は 同一である」と主張している。[71] 彼は、すべてのメディアには視聴者を異なる方法で引き込む特性があることを指摘している。例えば、本の1つの章は自由に読み返すことができるが、映画のど の部分を研究する場合でも、映画全体をもう一度最初から最後まで上映しなければならない。
ホットなメディア、クールなメディア
『メディア論』の冒頭で、マクルーハンは、メディアを消費する人々は、 そのメディアによって異なる程度の参加を求められると書いている。フランスの人類学 者クロード・レヴィ=ストロースによる「ホットな社会」と「クールな社会」の区別から派生した用語を使用して、マクルーハンは、クールなメディアは記述が 減少するため、より深い関与が必要であるが、ホットなメディアは逆で、関与が減少し、記述が増加すると論じている。言い換えれば、ストリーミング・コンテ ンツに積極的に参加しているように見えても、そのツールの効果を考慮していない社会では、「自己の拡張」は実現されていないのである。[72] 映画は「高解像度」であり、視聴者の注意を必要とする。また、漫画は 「クールなメディアよりもホットなメディアの方が、参加の度合いが少ない。講義はセミナーよりも、本は対話よりも参加の度合いが少ない」[74]

映画などの一部のメディアはホットである。つまり、視覚という一つの感覚を強化し、詳細な動画像を認識するために、人は多くの努力を必要としない。ホット メディアは、必ずしもそうとは限らないが、通常はかなりの刺激とともに完全な没入感を提供する。これに対し、「クール」な印刷物は、視覚領域を占め、視覚 感覚を利用するが、読者を没頭させるには集中力と理解力が必要となる。ホットメディアの制作は、通常、連続的、直線的、論理的であるため、分析的精度、量 的分析、順序付けを好む。また、他の感覚よりも特定の感覚(例えば視覚や聴覚)を強調する。このため、ホットメディアには映画(特にサイレント映画)、ラ ジオ、講演、写真などが含まれる。

マクルーハンは、ホットメディアとクールメディアを対比させている。具体的には、テレビ(1960年代の、つまり小さな白黒画面のテレビ)は、視聴者が意 味を理解するのにより多くの努力を必要とするとしている。また、漫画は視覚的な詳細が最小限に抑えられているため、漫画家が表現しようとしたであろう詳細 を補うのに高度な努力が必要である。クールメディアは、必ずしもそうとは限らないが、通常、実質的な刺激への関与が少ないものを指す。抽象的なパターン認 識や、すべての部分の同時理解など、ユーザーのより積極的な参加を必要とする。したがって、テレビに加えて、クールメディアにはセミナーや漫画などが含ま れる。マクルーハンは、クールメディアという用語を、ジャズやポピュラー音楽から生まれたものとして説明している。この文脈では、「クール」とは「距離を 置いた」という意味である。[75]

これはメディアを二元的なカテゴリーに分類することを強いるように見えるが、マクルーハンのいうホットとクールは連続体上に存在する。つまり、二項対立的 な用語としてよりも、尺度によってより正確に測定されるべきものである。

グローバル・ヴィレッジの戦争と平和
グローバル・ヴィレッジの戦争と平和』において、マクルーハンは、歴史上の戦争研究のインスピレーションとなったジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ ウェイク』を、将来の戦争のあり方を示す指標として用いた。

ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』は、その「十の雷」を通して人類の歴史の循環的パターンを明らかにする巨大な暗号文であると主張されている。以下に 示すそれぞれの「雷」は、他の単語を組み合わせた100文字の混成語であり、マクルーハンはこれを、それぞれの技術が導入された社会に与える影響に例えて いる。各々の内容を最大限に理解するためには、読者はこれらの混成語を個々の単語に分解し(これらの多くは、英語以外の複数の言語から取られた単語の混成 語である)、それぞれの単語の口語的な効果を理解するために、それらの単語を声に出して発音する必要がある。各々の混成語が実際に何を意味するのかについ ては、多くの論争がある。

マクルーハンは、『覚醒』の「十の雷鳴」が人類の歴史における異なる段階を表していると主張している。

雷1:旧石器時代から新石器時代。 言語。 東西の分裂。 家畜化から動物利用へ。
雷2:武器としての衣服。 私的部位の囲い込み。 最初の社会的攻撃。
雷3:専門化。 車輪、輸送、都市による中央集権:市民生活。
雷4:市場と家庭菜園。 強欲と権力に従属する自然のパターン。
雷鳴5:印刷。人間のパターンや姿勢、牧師の歪曲と翻訳。
雷鳴6:産業革命。印刷プロセスと個人主義の極端な発展。
雷鳴7:再び部族の人間。すべてのキャラクターは、最終的には別々の個人主義的な人間になる。コーラスの復活。
雷鳴8:映画。部族のラジオを通じたポップアート、ポップカルチャー。視覚と音の融合。
雷9:車と飛行機。集中化と分散化が同時に起こり、危機的な都市が生まれる。スピードと死。
雷10:テレビ。部族の気分と泥沼への関わりに戻る。最後の雷は、激動の泥の航跡であり、視覚的でない、触覚的な人間の濁りである。
クリシェからアーキタイプへ
1970年の『クリシェからアーキタイプへ』で、マクルーハンはカナダ の詩人ウィルフレッド・ワトソンと共同作業を行い、言語上のクリシェとアーキタイプ のさまざまな含意にアプローチした。この本で紹介されたマクルーハンの全体的な枠組みの中で、あまり注目されていないものの重要な側面は、グローバル・ ヴィレッジに実際に取って代わる新しい用語、すなわちグローバル・シアターの概念である。

マクルーハンによれば、クリシェとは「通常」の行動や言い回しなどであり、あまりにも頻繁に使用されるため、その影響に対して「麻痺」してしまうものであ る。マクルーハンは、ユージン・イヨネスコの戯曲『はげソプラノ』を例に挙げている。この戯曲の台詞は、すべてイヨネスコが『アッシミラー』という言語学 習書から引用したフレーズで構成されている。「イヨネスコは、これらの慣用句的な英語の決まり文句をすべて文学的なフランス語に置き換えた。これにより、 英語は可能な限り最も不条理な様相を呈することになった」[92]

マクルーハンのアーキタイプとは、「引用された拡張、媒体、技術、環境」である。環境には、それによって人々にもたらされる「気づき」や認識の変化も含ま れる。それは、カール・ユングが説明した心理的背景とまったく異ならない。

また、マクルーハンは、決まり文句と原型の間に相互作用の要素、すなわち「二重性」があるとも主張している。

決まり文句から原型への逆説的な転換を理解する上で役立つ『ウェイク』[『フィネガンズ・ウェイク』]のもう一つのテーマは、「過ぎ去った時間は娯楽であ る」というものである。ある時代の支配的なテクノロジーは、後の時代のゲームや娯楽となる。20世紀には、同時に利用可能な「過ぎ去った時間」の数が膨大 になり、文化的な無政府状態が生み出された。世界のあらゆる文化が同時に存在する現在、形を解明する芸術家の仕事は、新たな広がりと新たな緊急性を帯びて いる。ほとんどの人間が芸術家の役割を担わされているのだ。芸術家は「二重性」や「相互作用」の原則を無視することはできない。なぜなら、この種のヘン ディアディスの対話は、意識、認識、そして自律性の構造そのものに不可欠だからだ。

マクルーハンは、陳腐な表現から原型へのプロセスを不条理劇と関連付けている。

17世紀のパスカルは、心には頭が知らない多くの理由がある、と語っている。不条理劇の本質は、心にある沈黙の言語のいくつかを、頭に伝えることである。 この言語は、2、3百年もの間、すべてを忘れるように試みられてきた。17世紀の世界では、支配的な印刷の決まり文句によって、心の言語は無意識の領域へ と押しやられていた。

マクルーハンが「口承文化」と定義した「心の言語」は、印刷機によって原型が作られ、陳腐なものとなった。

マクルーハンによると、衛星メディアは地球を人工的な環境で囲い込み、「『自然』を終わらせ、地球をプログラム可能なレパートリーシアターに変える」 [95]。 これまでのあらゆる環境(書籍、新聞、ラジオなど)とその人工物は、この状況下で回収される(「過去の時代は娯楽」)。 マクルーハンは、これを「グローバルシアター」という用語に組み込んだ。これは、彼自身の定義によれば、グローバル・ヴィレッジという概念を更新するもの であり、グローバル・シアターの全体的な状況に包含されるものであると言える。

グローバル・ヴィレッジ(1989年)
マクルーハンは、ブルース・R・パワーズとの共著『グローバル・ヴィ レッジ:21世紀の世界生活とメディアの変容』(1989年)という死後に出版された 著書で、世界的な電子ネットワークの台頭に伴う技術的進歩の文化的影響を理解するための強力な概念的枠組みを提供している。これは、マクルーハンの主要な 著作であり、音響空間に関する彼の概念を最も広範に展開したものであり、シャノン=ウィーバーモデルのような20世紀の標準的なコミュニケーションモデル の批判を提供している。

マクルーハンは、既存の視覚的空間(直線的、量的、古典的幾何学モデル)と音響的空間(全体的、質的、複雑かつ逆説的なトポロジー)を区別している。「音 響的空間は、焦点または中心が同時にあらゆる場所であり、境界がどこにもない球の基本的な性質を持つ」[96]。視覚的空間から音響的空間への移行は、グ ローバルネットワークの出現によって自動的に起こるものではなく、意識的なプロジェクトとして取り組む必要がある。「同時進行の電子の流れの普遍的環境」 [97] は、本質的に右脳の音響空間を好むが、私たちは固定観念に固執する習慣によって妨げられている。音には境界がない。私たちはあらゆる方向から同時に音を聞 く。しかし、音響空間と視覚空間は切り離せない。共鳴音程は、視覚空間と音響空間の間の見えない境界線である。これは、アポロ8号の宇宙飛行士たちが月を 周回した後、地球に焦点を合わせたテレビカメラのようだ。

マクルーハンは、ジャック・ルセイランの自伝『そして、光があった』[98] を引用し、音響空間の中で存在する感覚を説明している。ルセイランは幼少時に事故で失明し、その自伝では、彼の感覚生活と知覚がどのように再編されたかが 説明されている。

私は、ある近代思想家の客観性の神話に出くわしたとき、怒りを覚えた。 彼らにとって世界はただ一つであり、それは誰にとっても同じだった。 そして、それ以外の世界はすべて、過去から残された幻想として数えられるべきものだった。 あるいは、それを幻覚と呼んでもいいだろう。私は、それがいかに間違っているかを身をもって学んだ。自分の経験から、ある記憶や連想を奪うだけで、聴覚や 視覚を奪うだけで、世界は即座に変容し、まったく異なるが、まったく首尾一貫した別の世界が生まれることを私はよく知っていた。別の世界? そうではない。同じ世界だが、別の角度から見られ、まったく新しい尺度で計られているのだ。こうなると、彼らが客観的と呼んでいたすべてのヒエラルキーは ひっくり返り、四方八方に散らばり、理論ですらない気まぐれのようなものになる。

読み書きやヒエラルキーの順序付けは、左脳と視覚空間に関連しており、直線的な時間概念や音声識字も同様である。左脳は分析、分類、合理性の中心である。 右脳と音響空間は、空間、触覚、音楽の中心である。「包括的な認識」は、脳の両側が真のバランスを保っているときに生じる。視覚空間は、ユークリッド幾何 学の単純化された世界観、建築物の設計や土地の測量に役立つ直感的な三次元と関連している。直線的な合理性があり、音響の把握はできない。音響空間は多感 覚的である。マクルーハンは、日本の禅仏教の文脈におけるロボット主義について、それがテクノロジーに関する新しい考え方を私たちに提供できる可能性につ いて書いている。西洋のテクノロジーに対する考え方は、左脳に偏りすぎており、合理的かつ直線的な思考に重点が置かれている。マクルーハンが「ロボット主 義」と呼んだものは、映画『ブレードランナー』やフィリップ・K・ディックの小説に登場する「アンドロイド」と呼ぶ方がふさわしいかもしれない。ロボット 主義・アンドロイド主義は、右脳のさらなる発達、創造性、時空との新たな関係性から生まれるものである(ほとんどの人間は、17世紀の古典的なニュートン 物理学の時空に今も生きている)。ロボットやアンドロイドは、心と身体の両面において、これまで人間が持っていたものよりもはるかに高い柔軟性を持つこと になるだろう。ロボットやアンドロイドは、人類にこの新しい柔軟性を教えてくれるだろう。そして、アンドロイドの持つこの柔軟性(マクルーハンがロボット 主義と呼ぶもの)は、日本文化や日本人の生活と強い親和性を持っている。マクルーハンは、1946年に発表された日本文化の文化人類学的研究であるルー ス・ベネディクト著『菊と刀』から次のように引用している。

西洋人は、日本人が精神的な負担なしに、ある行動から別の行動へと容易に切り替える能力を持っているとは信じがたい。このような極端な可能性は、我々の経 験には含まれていない。しかし、日本人の生活においては、我々には矛盾と見えるものが、彼らの人生観においては、我々における均一性と同じくらい深く根付 いている。
シン・コミュニケーションモデル
「西洋の科学的なコミュニケーションモデルはすべて、シャノン=ウィー バーモデルのように、直線的、逐次的、論理的であり、これはギリシャの効率的因果関 係の概念を重視した中世末期の反映である」[101] マクルーハンとパワーズは、シャノン=ウィーバーのコミュニケーションモデルを、左半球の偏りや直線性を象徴するものとして批判している。これは、活字時 代の歪みから生まれたもので、アリストテレスの効率的因果関係の概念に由来する。

マクルーハンとパワーズが詳しく論じているグローバル・ビレッジの第三の要素は「四象限」である。マクルーハンは1974年にはすでに四象限の研究を始め ていた。[102] 四象限とは、類似した、同時進行する、4つのパターンによる変容である。「四象限が完全に成熟すると、人工物の隠喩的な構造が、2つの図と2つの地が互い に動的かつ類似した関係にあるものとして明らかになる」[103] アポロ8号の宇宙飛行士が地球にカメラを向けたように、四象限は図(月)と地(地球)を同時に明らかにする。右脳的な思考は、同時に多くの場所に存在でき る能力である。電気は音響である。それは同時にあらゆる場所にある。4つのメビウスの位相構造(強化、反転、検索、陳腐化)を持つ4象限は、マクルーハン とパワーズによって、現金、コンパス、コンピュータ、データベース、衛星、グローバルなメディアネットワークといったメディアや技術的発明を明らかにする ために活用されている。
メディア効果の四象限
マクルーハンは、息子のエリックによって死後に出版された『メディアの 法則』(1988年)の中で、メディアに関する自身の考えを簡潔なメディア効果の四 象限にまとめている。四象限とは、あらゆるテクノロジー(すなわち、あらゆるメディア)が社会に与える影響を検証する手段であり、その影響を4つのカテゴ リーに分けて同時に表示するものである。マクルーハンは、この四象限図表を教育的なツールとして考案し、あらゆるメディアについて考察するための質問とし て、彼の法則を次のように表現した。

メディアは何かを増幅させるか?
メディアは何かを時代遅れにするか?
メディアは何かを、以前に時代遅れになったものから取り戻すか?
メディアは極限まで追い込まれたときに何に変化するか?
四象限の法則は同時に存在し、連続的または時系列的に存在するものではなく、質問者はメディアの「言語」の「文法と構文」を探求することができる。マク ルーハンは、メディアが極端な状態にまで至ると「過熱」し、または反対の形に逆転するという考えを、師であるハロルド・イニスから引き継いでいる。

視覚的には、4象限は4つのダイヤモンドがX字形を形成し、その中心にメディアの名称が置かれる形で表される。4象限の左側の2つのダイヤモンドは、メ ディアの「拡張」と「挽回」の性質であり、どちらも「図」の性質である。4象限の右側の2つのダイヤモンドは、「陳腐化(退化)」と「逆転」の性質であ り、どちらも「地」の性質である。


空白の四象限ダイアグラム

ラジオを例にすると、

強化(図):メディアが拡大または強化するもの。ラジオは音を通じてニュースや音楽を増幅する。
陳腐化(地):メディアが目立たなくさせるもの。ラジオは印刷物や視覚の重要性を低下させる。
回復(図):メディアが以前に失われたものを回復するもの。ラジオは音声による言葉を前面に押し出す。
反転(地):メディアが限界に達したときに起こる現象。音響ラジオはオーディオビジュアルテレビへと変化する。
図と地(Figure and ground)
マクルーハンは、「メディアはメッセージである」という意味を支えるゲ シュタルト心理学の「図と地」の概念を応用した。彼は、この概念を用いて、コミュニ ケーション技術の形態であるメディア、すなわち「図」が、必然的にその文脈、すなわち「地」を通じて機能する方法を説明した。

マクルーハンは、新しいテクノロジーの影響を完全に理解するためには、図(メディア)と地(コンテクスト)を一緒に検討しなければならないと信じていた。 なぜなら、どちらか一方だけでは完全に理解できないからである。マクルーハンは、メディアは歴史的なコンテクストの中で、特に先行するテクノロジーとの関 連で研究されなければならないと主張した。現在の環境は、それ自体が過去のテクノロジーの影響で構成されており、それが新たなテクノロジーを生み出し、そ れがさらに社会や個人に影響を与えるのである。

すべてのテクノロジーには、時間と空間に関する独自の前提が組み込まれている。メディアが伝えるメッセージは、メディアと、そのメディアが使用される環境 (同時に、メディアが効果的に作り出す環境)を同時に分析することではじめて理解できる。彼は、図と地の関係を分析することで、文化と社会に関する重要な 論評を提供できると信じていた。

視覚と触覚の知覚の対立
マクルーハン(およびハーレー・パーカー)の著作では、電気メディアは 触覚と聴覚の知覚と親和性があり、機械メディアは視覚の知覚と親和性がある。この視 覚と触覚の対立は、美術史家のアロイス・リーグルが1901年の著書『後期ローマ時代の芸術産業』で、またエルヴィン・パノフスキーが1927年の著書 『象徴形態としての遠近法』で、すでに理論化していた。

ウォルター・ベンヤミンは著書『複製技術時代の芸術作品』(1935年)の中で、19世紀頃から近代西洋文化の認識において視覚から触覚へのシフトが始 まったことを観察している。[105] このシフトは、マクルーハンが電子時代の到来に帰する、マクルーハンの著作における主な繰り返しテーマのひとつである。

https://en.wikipedia.org/wiki/Marshall_McLuhan
想像の共同体と、複数形の再部族化
https://navymule9.sakura.ne.jp/media-ethics03.html

このセクションの文献

Marshall McLuhan の生涯

Herbert Marshall McLuhan CC (/məˈkluːən/, mə-KLOO-ən; July 21, 1911 – December 31, 1980) was a Canadian philosopher whose work is among the cornerstones of the study of media theory.[7][8][9][10] He studied at the University of Manitoba and the University of Cambridge. He began his teaching career as a professor of English at several universities in the United States and Canada before moving to the University of Toronto in 1946, where he remained for the rest of his life. He is known as the "father of media studies".[11][12]

McLuhan coined the expression "the medium is the message"[13] (in the first chapter of his Understanding Media: The Extensions of Man)[14], as well as the term global village. He predicted the World Wide Web almost 30 years before it was invented.[15] He was a fixture in media discourse in the late 1960s, though his influence began to wane in the early 1970s.[16] In the years following his death, he continued to be a controversial figure in academic circles.[17] However, with the arrival of the Internet and the World Wide Web, interest was renewed in his work and perspectives.[18][19][20]
ハーバート・マーシャル・マクルーハン(Herbert Marshall McLuhan CC, /mə-ˈ, mə-KLOO-ən; 1911年7月21日 - 1980年12月31日)はカナダの哲学者で、その業績はメディア論研究の礎石のひとつとなっている[7][8][9][10]。1946年にトロント大 学に移るまで、アメリカやカナダのいくつかの大学で英語教授として教鞭を執り、生涯をそこで過ごした。彼は「メディア研究の父」として知られている [11][12]。

マクルーハンは「メディアはメッセージである」という表現[13](『Understanding Media: The Extensions of Man』の第1章にある)[14]や、地球村という言葉を生み出した。彼はワールド・ワイド・ウェブが発明されるほぼ30年前に予言していた[15]。 1960年代後半にはメディア言説の中心的存在であったが、その影響力は1970年代前半に衰え始めた[16]。 マクルーハンの死後数年間、彼は学界で物議を醸し続ける人物であった[17]。 しかし、インターネットとワールド・ワイド・ウェブの到来とともに、彼の仕事と視点に対する関心が再び高まった[18][19][20]。
Life and career
McLuhan was born on July 21, 1911, in Edmonton, Alberta, and was named "Marshall" from his maternal grandmother's surname. His brother, Maurice, was born two years later. His parents were both also born in Canada: his mother, Elsie Naomi (née Hall), was a Baptist school teacher who later became an actress; and his father, Herbert Ernest McLuhan, was a Methodist with a real-estate business in Edmonton. When the business failed at the start of World War I, McLuhan's father enlisted in the Canadian Army. After a year of service, he contracted influenza and remained in Canada, away from the front lines. After Herbert's discharge from the army in 1915, the McLuhan family moved to Winnipeg, Manitoba, where Marshall grew up and went to school, attending Kelvin Technical School before enrolling in the University of Manitoba in 1928.[21]

Undergraduate education
After studying for one year as an engineering student, he changed majors and earned a Bachelor of Arts degree (1933), winning a University Gold Medal in Arts and Sciences.[22] He went on to receive a Master of Arts degree (1934) in English from the university as well. He had long desired to pursue graduate studies in England and was accepted by Trinity Hall, Cambridge, having failed to secure a Rhodes Scholarship to study at Oxford.[23]

Though having already earned his BA and MA in Manitoba, Cambridge required him to enroll as an undergraduate "affiliated" student, with one year's credit towards a three-year bachelor's degree, before entering any doctoral studies.[a][25] He went up to Cambridge in the autumn of 1934, studied under I. A. Richards and F. R. Leavis, and was influenced by New Criticism.[23] Years afterward, upon reflection, he credited the faculty there with influencing the direction of his later work because of their emphasis on the "training of perception", as well as such concepts as Richards' notion of "feedforward".[26] These studies formed an important precursor to his later ideas on technological forms.[27] He received the required bachelor's degree from Cambridge in 1936[28] and entered their graduate program.


生涯とキャリア
マクルーハンは1911年7月21日にアルバータ州エドモントンで生まれ、母方の祖母の姓から「マーシャル」と名付けられた。2年後に弟のモーリスが生ま れた。母のエルシー・ナオミ(旧姓ホール)はバプティスト派の学校教師で後に女優となり、父のハーバート・アーネスト・マクルーハンはメソジスト派でエド モントンで不動産業を営んでいた。第一次世界大戦が始まると、マクルーハンの父はカナダ陸軍に入隊した。1年間の従軍後、彼はインフルエンザにかかり、前 線から離れたカナダに留まった。1915年にハーバートが除隊した後、マクルーハン一家はマニトバ州ウィニペグに移り住み、そこでマーシャルは成長し、学 校に通い、ケルビン・テクニカル・スクールに通った後、1928年にマニトバ大学に入学した[21]。

学部教育
工学部の学生として1年間学んだ後、専攻を変更して文学士号(1933年)を取得し、芸術と科学の分野で大学ゴールドメダルを受賞した[22]。かねてか らイギリスでの大学院留学を希望していた彼は、ローズ奨学金を得てオックスフォード大学に留学することは叶わなかったが、ケンブリッジのトリニティ・ホー ルに入学を許可された[23]。

すでにマニトバで学士号と修士号を取得していたが、ケンブリッジ大学は博士課程に進学する前に学部の「提携」学生として入学し、3年間の学士号取得に必要 な1年間の単位を取得することを要求した[a][25]。1934年秋にケンブリッジ大学に進学し、I・A・リチャーズとF・R・リーヴィスの下で学び、 新批評主義の影響を受けた。 [23]その後、数年経って振り返ってみると、リチャーズの「フィードフォワード」という概念と同様に、「知覚の訓練」に重点を置いていたことから、後の 彼の研究の方向性に影響を与えたと彼はそこの教授陣を評価している[26]。これらの研究は、後の彼の技術的形態に関する考え方の重要な前兆を形成してい た[27]。

Conversion to Catholicism
At the University of Manitoba, McLuhan explored his conflicted relationship with religion and turned to literature to "gratify his soul's hunger for truth and beauty,"[29] later referring to this stage as agnosticism.[30] While studying the trivium at Cambridge, he took the first steps toward his eventual conversion to Catholicism in 1937,[31] founded on his reading of G. K. Chesterton.[32] In 1935, he wrote to his mother:[33]

Had I not encountered Chesterton I would have remained agnostic for many years at least. Chesterton did not convince me of religious faith, but he prevented my despair from becoming a habit or hardening into misanthropy. He opened my eyes to European culture and encouraged me to know it more closely. He taught me the reasons for all that in me was simply blind anger and misery.

At the end of March 1937,[b] McLuhan completed what was a slow but total conversion process, when he was formally received into the Catholic Church. After consulting a minister, his father accepted the decision to convert. His mother, however, felt that his conversion would hurt his career and was inconsolable.[34] McLuhan was devout throughout his life, but his religion remained a private matter.[35] He had a lifelong interest in the number three[36] (e.g., the trivium, the Trinity) and sometimes said that the Virgin Mary provided intellectual guidance for him.[c] For the rest of his career, he taught in Catholic institutions of higher education.


カトリックへの改宗
マニトバ大学では、マクルーハンは宗教との葛藤を模索し、「真理と美に対する魂の飢えを満たす」ために文学に傾倒し[29]、のちにこの段階を不可知論と呼ぶようになる[30]。ケンブリッジ大学で三科を学ぶかたわら、G・K・チェスタートン[32]を読んで、1937年に最終的なカトリックへの改宗への第一歩を踏み出す。

チェスタートンに出会わなければ、私は少なくとも何年もの間、不可知論者のままだっただ ろう。チェスタートンは私に信仰を確信させることはしなかったが、私の絶望が習慣になったり、人間嫌いに固まったりするのを防いでくれた。彼はヨーロッパ 文化に目を開かせてくれ、それをもっとよく知るよう促してくれた。彼は、私の中で単なる盲目的な怒りと惨めさであったすべてのものの理由を教えてくれた。

1937年3月末[b]、マクルーハンはカトリック教会に正式に入信し、ゆっくりではあったが完全な改宗のプロセスを完了した。牧師に相談した後、父親は 改宗の決断を受け入れた。しかし母親は、彼の改宗が彼のキャリアを傷つけると感じ、悲嘆に暮れた[34]。マクルーハンは生涯を通じて敬虔であったが、彼 の宗教は私的な問題であった[35]。彼は生涯にわたって数字の3[36](例:三位一体)に関心を持ち、聖母マリアが彼に知的な導きを与えてくれたと語 ることもあった。

Early career, marriage, and doctorate

McLuhan at Cambridge, c. 1940
Unable to find a suitable job in Canada, he went to the United States to take a job as a teaching assistant at the University of Wisconsin–Madison for the 1936–37 academic year.[38] From 1937 to 1944, he taught English at Saint Louis University (with an interruption from 1939 to 1940 when he returned to Cambridge). There he taught courses on Shakespeare,[39] eventually tutoring and befriending Walter J. Ong, who would write his doctoral dissertation on a topic that McLuhan had called to his attention, as well as become a well-known authority on communication and technology.[citation needed][40]

McLuhan met Corinne Lewis in St. Louis,[41] a teacher and aspiring actress from Fort Worth, Texas, whom he married on August 4, 1939. They spent 1939–40 in Cambridge, where he completed his master's degree (awarded in January 1940)[28] and began to work on his doctoral dissertation on Thomas Nashe and the verbal arts. While the McLuhans were in England, World War II had erupted in Europe. For this reason, he obtained permission to complete and submit his dissertation from the United States, without having to return to Cambridge for an oral defence. In 1940, the McLuhans returned to Saint Louis University, where they started a family as he continued teaching. He was awarded a Doctor of Philosophy degree in December 1943.[42]

He next taught at Assumption College in Windsor, Ontario, from 1944 to 1946, then moved to Toronto in 1946 where he joined the faculty of St. Michael's College, a Catholic college of the University of Toronto, where Hugh Kenner would be one of his students. Canadian economist and communications scholar Harold Innis was a university colleague who had a strong influence on his work. McLuhan wrote in 1964: "I am pleased to think of my own book The Gutenberg Galaxy as a footnote to the observations of Innis on the subject of the psychic and social consequences, first of writing then of printing."[43]
初期のキャリア、結婚、博士号

ケンブリッジでのマクルーハン、1940年頃
1937年から1944年までセントルイス大学で英語を教える(1939年から1940年まではケンブリッジに戻るため中断)。そこで彼はシェイクスピア の講義を教え、[39]最終的にはウォルター・J・オングを個人指導し、親交を深めた。オングはマクルーハンが注目するように呼びかけたトピックについて 博士論文を書くことになり、またコミュニケーションとテクノロジーに関する有名な権威となった[要出典][40]。

マクルーハンはセントルイスで、テキサス州フォートワース出身の教師で女優志望のコリーヌ・ルイスと出会い[41]、1939年8月4日に結婚した。二人 は1939年から40年にかけてケンブリッジで過ごし、そこで修士号(1940年1月に授与)を取得し[28]、トマス・ナーシェと言語芸術に関する博士 論文の執筆を始めた。マクルーハン夫妻がイギリスに滞在していたとき、ヨーロッパでは第二次世界大戦が勃発していた。そのため、口述弁明のためにケンブ リッジに戻ることなく、アメリカから論文を完成させて提出する許可を得た。1940年、マクルーハン夫妻はセントルイス大学に戻り、マクルーハンが教鞭を とるかたわら、家庭を築いた。彼は1943年12月に哲学博士号を授与された[42]。

その後、1944年から1946年までオンタリオ州ウィンザーのアサンプション・カレッジで教鞭をとり、1946年にトロントに移り、トロント大学のカト リック・カレッジであるセント・マイケルズ・カレッジの教員となった。カナダの経済学者でコミュニケーション学者のハロルド・イニスは、彼の仕事に強い影 響を与えた大学の同僚だった。マクルーハンは1964年にこう書いている: 自著『グーテンベルクの銀河系』を、まず書くこと、次に印刷することが心理的・社会的にもたらす影響という主題に関するイニスの観察の脚注として考えるこ とができるのは喜ばしいことだ」[43]。
Later career and reputation

McLuhan with a television showing his own image, 1967
In the early 1950s, McLuhan began the Communication and Culture seminars at the University of Toronto, funded by the Ford Foundation. As his reputation grew, he received a growing number of offers from other universities.[27] During this period, he published his first major work, The Mechanical Bride (1951), in which he examines the effect of advertising on society and culture. Throughout the 1950s, he and Edmund Carpenter also produced an important academic journal called Explorations.[44] McLuhan and Carpenter have been characterized as the Toronto School of communication theory, together with Harold Innis, Eric A. Havelock, and Northrop Frye. During this time, McLuhan supervised the doctoral thesis of modernist writer Sheila Watson on the subject of Wyndham Lewis. Hoping to keep him from moving to another institute, the University of Toronto created the Centre for Culture and Technology (CCT) in 1963.[27]

From 1967 to 1968, McLuhan was named the Albert Schweitzer Chair in Humanities at Fordham University in the Bronx.[d] While at Fordham, he was diagnosed with a benign brain tumor, which was treated successfully. He returned to Toronto where he taught at the University of Toronto for the rest of his life and lived in Wychwood Park, a bucolic enclave on a hill overlooking the downtown where Anatol Rapoport was his neighbour.[citation needed]

In 1970, he was made a Companion of the Order of Canada.[45] In 1975, the University of Dallas hosted him from April to May, appointing him to the McDermott Chair.[46] Marshall and Corinne McLuhan had six children: Eric, twins Mary and Teresa, Stephanie, Elizabeth, and Michael. The associated costs of a large family eventually drove him to advertising work and accepting frequent consulting and speaking engagements for large corporations, including IBM and AT&T.[27]
その後のキャリアと評価

自身の姿を映したテレビとマクルーハン(1967年
1950年代初頭、マクルーハンはフォード財団の資金援助を受けて、トロント大学でコミュニケーションと文化のセミナーを始めた。評判が高まるにつれ、他 大学からのオファーも増えていった[27]。この時期、彼は最初の主要著作『機械仕掛けの花嫁』(The Mechanical Bride、1951年)を出版し、広告が社会や文化に与える影響を考察した。マクルーハンとカーペンターは、ハロルド・イニス、エリック・A・ハヴロッ ク、ノースロップ・フライとともに、コミュニケーション理論のトロント学派と呼ばれている。この時期、マクルーハンはモダニズム作家シーラ・ワトソンの ウィンダム・ルイスに関する博士論文を指導した。彼が他の研究所に移らないようにと、トロント大学は1963年に文化技術センター(CCT)を設立した [27]。

1967年から1968年にかけて、マクルーハンはブロンクスのフォーダム大学で人文学のアルバート・シュヴァイツァー講座に任命された[d]。フォーダ ム大学在学中に良性の脳腫瘍と診断されたが、治療は成功した。その後、トロントに戻り、トロント大学で教鞭を執りながら、ダウンタウンを見下ろす丘の上に あるウィッチウッド・パークという、アナトール・ラポポートが隣人だった牧歌的な場所に住んだ[要出典]。

1970年、彼はカナダ勲章のコンパニオンに選ばれた[45]。1975年、ダラス大学は彼を4月から5月まで受け入れ、マクダーモット講座に任命した [46]。マーシャルとコリンヌ・マクルーハンには6人の子供がいた: エリック、双子のメアリーとテレサ、ステファニー、エリザベス、マイケルである。大家族に関連する費用は、最終的に彼を広告の仕事に駆り立て、IBMや AT&Tを含む大企業のコンサルティングや講演の仕事を頻繁に引き受けた[27]。
Death
In September 1979, McLuhan suffered a stroke which affected his ability to speak. The University of Toronto's School of Graduate Studies tried to close his research center shortly thereafter, but was deterred by substantial protests. McLuhan never fully recovered from the stroke and died in his sleep on December 31, 1980.[47] He is buried at Holy Cross Cemetery in Thornhill, Ontario, Canada.[citation needed]

1979年9月、マクルーハンは脳卒中で倒れ、話すことができなくなった。その直後、トロント大学大学院はマクルーハンの研究センターを閉鎖しようとした が、多くの抗議によって阻止された。マクルーハンは脳卒中から完全に回復することなく、1980年12月31日に眠るように息を引き取った[47]。カナ ダ、オンタリオ州ソーンヒルのホーリークロス墓地に埋葬されている[要出典]。
https://en.wikipedia.org/wiki/Marshall_McLuhan


◎ミレニアム以降のマクルーハン

■マクルーハン用語集(→「マクルーハンの理論」を参照)

リンク


Herbert Marshall McLuhan CC (July 21, 1911 – December 31, 1980) /Norbert Wiener (November 26, 1894 – March 18, 1964)

文献:

Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099


わかりやすい文化表象学

Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099