臨床知・臨床の知
Rinshochi, Rinsho no Chi (in Japanese)
解説:池田光穂
中村雄二郎『臨床の知とはなにか』(1992) において展開した人間身体と精神の〈ある状態〉のこと。〈科学の知〉に対抗し、それに換わる〈臨床の知〉の可能性を説いた。〈臨床の知〉とは、人間どうし が、相互作用のうちに読みとる、諸感覚(=五感)を協働させる共通感覚と実践感覚が、不可分になった状態をそう呼ぶ。[→「現場力」]
このことを理解するためには、まず中村が〈臨床の知〉に対して〈科学の知〉への批判をおこなっており、後者の知のあり方をまず理解することがよ いであろう。中村が想定する科学はヨーロッパの17世紀の(歴史事象としての)科学革命のなかで、科学の知が、普遍性・論理性・客観性をとおして、知のあ り方を独善的に決定してきたことに対する批判から出発する。
中村は東京大卒業後、民間ラジオ局である文化放送で働いていた経験があり、明治大学での教員時代には専門のフランス哲学(『共通感覚論』 1979)のほかに長く演劇に関する造詣が深かった。また、山口昌男、大江健三郎、磯崎新、大岡信などと岩波書店『へるめす』誌の編集同人を務めた (1984-94)が、この時期に山口らの案内でバリ島に訪れており『魔女ランダ考』(1983)という論評を発表し、そこで「演劇的知」を提唱し、それ が近代知——この頃は1970年代の時代状況をも反映し西洋近代の知的枠組みが彼の批判の対象になっていた——を乗り越える契機になるという自説を展開し ている。
このような伏線上に登場するのが1992年の臨床の知の概念である。先に触れたように〈科学の知〉がもつ普遍性・論理性・客観性に、中村はコス モロジー・シンボリズム・パフォーマンスという対抗軸を掲げるが、それらは、科学の知の3つの属性に対応するものではない。さりとて完全に無関係とは言え ず、それぞれコスモロジーはものごとのあり方を示すコスモスに由来し、世界を(科学の知のように)抽象的なものとしてとらえるのではなく、具体的な意味の ある世界(空間)としてみる見方、シンボリズムは(科学の知のように)有用性や実用性の観点からだけみるのではなく、多義的な象徴(シンボル)として見る 態度、そして、パフォーマンスは事物を(科学の知のように)客観的な対象として見るのではなく、事物と人間のあいだの相互作用や働きかけとして具体的に実 践するという相の中にみようとしている。
この見方は90年代に〈臨床の知〉という用語と概念で提示されるようになるが、1976年に山口昌男との対談のなかで、すでに、コスモロジー・ シンボリズム・パフォーマンスの3セットの用語として登場しており、山口のトリックスター論と関連性づけて論じられている。
しかしながら、『臨床の知とはなにか』における中村の〈臨床の知〉の説明は、他の著作と同様、説明を抽象化する傾向がつよく、演劇における (?)フェルデンクライス・レッスンなどが挙げられているものの、その具体的な説明は抽象化するための素材として使われている感が否めない。
これは、臨床知・臨床の知を論じる時にしばしば起こるアイロニーとしてはかなり強烈な反省材料ではある[→臨床概念の誕生]。
中村雄二郎『共通感覚論』では、ヨーロッパ中世では、もっとも洗練された感覚は「聴覚」であり、視覚は、触覚の次の3番目の地位にすぎなかったが、近代のはじめに、視覚優位の大逆転がおこり、視覚が専制支配のための感覚になったという。中村があげる、ミッシェル・フーコーの「パノプティコン」その代表である(中村 1979:51-54)。
リンク
文献
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099
La Giocondaさんの臨床の知「痛ないでぇ、みんなも受けやぁ〜♪ --そゃあけど接種後の経過観察も怠ったらあかんでぇ。接種後の不調は必ず相談しいや」