アドボカシー
advocacy
アドボカシーが保健と福祉の領域で盛んに言われるようになったのは1990年代以降のことである。
福祉領域においてアドボカシー概念は、それに先行するノーマライゼーションの思潮と深く関わる。ノーマ ライゼーションの発想は、障害者の社会参画を、健常者とまったく区別のない社会への復帰過程としてとらえる。障害者をノーマルなものとして受け入れるため に変化しなければならないのは社会の側であり、ノーマルなものとして再登場するための前提をつくりあげると理解する。
他方で、ノーマルな障害者の参画過程には、障害者自身が独立した主体として登場し、自己の権利を主張し なければならない。ところが、参画者を受け入れる側に障害者の権利主張を主体として受け入れる社会的制度が十分に整備されていないために、それに代わって 権利主張をおこなう弁護者が必要になる。アドボカシーは、彼/彼女らに代わって権利主張を代弁し(represent)また弁護しなければならない。なぜ なら障害者は自己の権利主張を十分におこなえる社会制度が十全に整備されていないからである[あるいはその社会状況をそのように行為者が定義している]。
またアドボカシーは、理念や制度の成立よりも、個々人の主体としての権利主張とそれらが充足されている かどうかを個々の実践者のレベルからとらえようとする。そのためにアドボカシーの議論は、他者を表象・代弁する権利の可能性や手続きの正当性をめぐって、 将来、深刻な論争がおこる可能性がある。
アドボカシーとプロモーションの関係は以下のごとくである
■ノーマライゼーション異説(2016年4月3日)
ノーマライゼーションを推進されたのも、健常者が不具者を前に盲目になることを強制=矯正するシステムではないかということがわかる。
つまり、ノーマライゼーション過程においては、人はあらゆる差異、あらゆる「ハンディ」を克服して健常人として振る舞うことが強制=矯正されている社会で
あることだ。もちろん不具と正常を峻別する国境は厳然としてある——オリンピックとパラリンピックのように、ただしこの両者のカテゴリーの「選手」たち
は、ともに正常ではなく異常(=標準偏差の外側にいる)な人たちである。さて、議論をもどし、ノーマライゼーションは、不具者を健常者の世界に「正常に復
帰」させる圧力ではなく、健常者は不具者の延長にあるという発想でしょう。つまり、正常発達という概念に対するリヴァースエンジニアリングの結果、正常発
達は、ただひとつの理念的な唯一性に支えられているのではなく、つまりそれはロラン・バルト流の「神話」にすぎず、たんなる凡庸な傾向性や代表性にすぎな
い(=カンギレムやダゴニエが指摘したポイント)ということだ。社会運動としてのノーマライゼーション過程はよく研究されているけど、思想史やエピステモ
ロジーとしてのノーマライゼーションについては、もう少し慎重に再検討する必要がある。なお、マイノリティや異常なものを称揚する後期近代の特徴を指摘し
たのは、アーレントの「全体主義の起源」における《天才》の議論からヒントを得ている。
◆ 医療人類学辞典
Copyright 2000-2016, Mitsuho Ikeda
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