ヘルスプロモーションとこれからの健康支援
Health Promotion and Our Primary Health Care
(Copyright,2002-2003)
まず準備運動から・・・<練習問題>
0. 講演の趣旨、と私の立場 1. 医療福祉職の奇妙な性格 2. プライマリヘルスケア論争にまつわる逸話 3. プロモーションの起源 4. プロモーションとアドボカシー *クレジット*:このレクチャーは、門司区役所保健福祉センター職場研修会 2002年3月1日14:00〜16:00 でおこなったものに加筆したものです
0. 講演の趣旨、と私の立場 [はじめにもどる]
私の講演は、医療と福祉の具体的な実践の場に対しては、それほど役に立たないかもしれませ
ん。その理由は次のようなものであります。
(1)我が国における医療と福祉の実践の場についての具体的な知識が私には乏しい。
(2)どのようなものでも得られた知識というものは、(経験的事実の)結果として、かな らずしも人間の生活に役立つとはかぎらない。
(3)医療の応用に関する人類学的研究が私の研究テーマですが、私の研究スタイルの中で
最も重きをおいているのが、いったいそのような現場で今何がおこっているのかを明らかにすることで、その結果、どのようにその研究資料を運用すべきかとい
うことについて、それほど深く研究していない。
にもかかわらず、今回のようなお誘いに賛同したのは、次のような理由からであります。
(4)実践的・道徳的立場がまったく異なっている我々を繋げる唯一の接点が「ヘルスプロ モーション」であり、これを考えたり・実践することの意味に両者とも関心があること。つまり、ヘルスプロモーションという考え方を通して繋がっていること
(5)私の専門分野を受け入れている職場では、私はもっぱら、文化人類学の考え方、知識
の使い方、使われ方について教えており、このことを知り、実践することはよいことであることを信じていること。そのために、この現場においてもそれらのこ
とを実践する必要性を感じていること。
このことを踏まえて全体のアウトラインを紹介します。
________________________________________________
________________________________________________
1. 医療職・福祉職という<呪われた仕事>
[はじめにもどる]
なぜ健康支援をおこなうのか?
これに答えられないと仕事が困難に陥った時にドロップアウトしやすくなる。
もっとも安易な処方箋は、人びとのためという宗教的熱情で説明すること。
だがこれは理由付けとしてもっとも説得力を欠くものだ。
もっとも簡単な理由付け=現在の自分の存在を徹底的に肯定することだ。
つまり、今の職業を選んで私は生活していかねばならない、だからこれに従事する。
だがこれは、格好悪い説明だ(特に子供たちから質問をされてこう答えるか?)。
だから人は外面的な理由付けをさがす、そして説教じみた宗教的熱情ではない。
そこで動員されるのが、私は「この仕事が好きなんだ」という、他人からはわからない個人的熱情で説明することである。
***
でも、本当にそうなのだろうか?
もっとも祝福されるべき仕事とは、もっとも呪われた仕事でもある。なぜなら、つねに、この仕 事の意味は何なのだろうかと、つねに繰り返し、繰り返し、我々の良心が問いかけるからである。
だから人びとは、この仕事を道徳的に宙づりになった状況のなかでおこなうのである。
ここまで自虐的にならなくても、医療や福祉の実践というのは奇妙なプログラムを内包してい る。
________________________________________________
________________________________________________
プライマリヘルスケアとはなにか?
●PHCとその起源
PHCは、1978年にWHOとユニセフによるアルマ・アタ宣言によって保健施策上の理念と
して採択された。これが以前の公衆衛生施策と異なる画期的な点は、健康の達成には、(1)政治経済の安定や、(2)住民の自助努力が不可欠としたことにあ
る。実践面では「保健上の問題を克服する教育とその問題を予防しコントロールする方法、食糧供給と適正な栄養の増進、安全な水と基本的な衛生の適切な供
給、家族計画を含む母子保健、主要な感染症に対する免疫付与、局地的な流行病の予防とコントロール、通常の傷病への適切な治療、基本医薬品の支給」(宣言
文)が目標とされ、おびただしいマニュアルが公的、私的保健セクターから出版された。このあらゆる角度からの、しかし漠然とした当初からの政策を、包括的
(comprehensive)PHCと呼ぶことができる。
この理念がどのような過程を経て生まれたのかは明らかにされていない。中国の文化大革命期に制度化され、村落の衛生状態を改善したといわれる赤脚医生
(はだしの医者)をモデルにしたとか、六九年から十年間に経験した、蚊の撲滅を目的とした対マラリア戦略の失敗の教訓などが背景にあると言われる。だが、
より広い文脈では七〇年代中頃から国連経済特別総会やユネスコを中心に提唱された「内発的発展」やシュマッハーらの代替技術論などと共通点が見られ、
PHCがその当時の「開発をめぐる」社会的文脈を抜きに発案されたとは言えないだろう。
【特別コラム】プライマリヘルスケア論争
●選択的戦略(選択的プライマリヘルスケア)
宣言の翌年、ロックフェラー財団のワルシュとワレンは包括的PHCの実施の非現実性を批判し
て、選択的(selective)PHCを提唱した。この戦略は包括的PHCへの暫定的な戦略として、より具体的に効率良く保健衛生の状態を改善するため
に特定の保健政策を選択的に行う。つまり、地域の死亡率を著しく下げる乳幼児死亡対策(麻疹、およびジフテリア・百日咳・破傷風の三種混合ワクチン接種、
下痢に対する経口補水療法)、効果が顕著に現われるといわれているマラリア対策、母親への破傷風ワクチン接種や母乳推奨などからなる(2)。彼らはその理
念の遂行に際して、効果性を重視し、技術が確立されたものから着手すべきであると主張する。選択的PHCは技術的立場からの批判であるとされるゆえんであ
る。
●政策をめぐる論争
提唱から六年後に「包括的PHCと選択的PHC」をめぐる国際会議がベルギーのアントワープ
で開催され、八八年に『社会科学と医療』誌の特集として公刊された(3)。選択的的PHC側のワレンは、ユニセフがとったPHC戦略、コスタリカや中国な
どの事例の検討を通して選択的PHCの成功を宣言する(4)。他方、包括的PHCによる選択的PHCへの批判はより政治経済的色彩がつよい。すなわち、選
択的な戦術への偏重は、政府あるいは援助機関から住民への医療の主導権の移行を実現させず、工業医薬品、医療産業などへの依存という医療化を押し進めると
言うのである。現実の医療体制とPHCの関係の中でも選択的PHCは批判される。スミスらは、医療システムを下部構造という枠組みにおける時間的な変遷の
中で考察した。それによると選択的PHCを実施する際に、母子保健、マラリア対策などの縦割の専門業務集団に分れる傾向があり、それらは国家レベルでは協
調関係にあるものの、地方や共同体のレベルになるとバラバラになり、横の連携がとれていないという欠陥があるという(5)。
●折衷的見解
この選択的および包括的PHCが相互に排除的に批判することに対して、中間的な道を提示する
議論もある。モスレイの主張によると、重要なことは特定の疾病対策ではなく、存在する問題全体にアプローチすることであるという(6)。選択的PHCが成
功を収めるには、包括的で社会変化を巻き込むことが不可欠だという。アフリカのザイールやマリの事例研究においても、選択的PHCの有効性を評価する一方
で、国家と共同体の利益誘導の相違などによるマイナスの効果も指摘され、包括的PHCが理想とする統合の問題に深い関心が寄せられている(以上同誌か
ら)。
論争から学ぶべきこと
●根底的PHC批判
しかしPHCに対するもっと手厳しい批判もある。カメルーンにおける実態を検討したバン・デ
ル・ゲーストは、中央政府、制度的医療の推進者、および住民の三つの次元を通して、はからずも生物医学が中心を占め、PHC政策は理念とは裏腹に歪んで運
用され、否定的機能すらみられることを描写する(7)。政治的安定や経済的発展は健康に寄与するという論法をPHCが採るならば、第一に解決しなければな
らないのは政治だ、と彼はいう。
●経済効果のなかの健康
選択的PHCを提唱したワルシュとワレンの論文の冒頭には、当時の世界銀行総裁のマクナマラ
による七八年次報告からの引用があり、その理念の影響はその論文にも色濃く表れている。ケネディ政権下の国防長官であり、米国の多角的な核戦略論の構想者
であるロバート・マクナマラは、同時に肥大化する軍事財政を「計画的科学的に管理し、合理的
かつ効果的に予算編成する」手法をペンタゴンに導入したことでも知られている(8)。技術論的批判としての選択的PHCのいう保健施策の「効率」とは、死
亡率で代表される指標の変化で表現されるものに他ならない。投資の効果が見合わないと政策は失敗とされるが、それは投資効果の理論において投下資本がいか
に多くの「健康」を引き出すかという技術論であったのだ。
PHCは二十一世紀までに世界の全ての人々に健康をといった。だが、保健施策を通して 具体化される「健康」とは決して一様なものではない。それは、健康そのものが社会的な起源をもつからであり、健康の概念の相対化を抜きにして、新しい PHC論争の進展は求められないだろう(9)。
【註】
ヘルスプロモーションは、1986年のWHOのオタワ会議(オタワはカナダの首都)によって 採択された、健康達成運動のモデルである。
ヘルスプロモーションは、1978年のWHOとユニセフによるアルマアタ宣言で謳われた プライマリヘルスケア戦略の延長上にある、戦術レベルでの具体的方針ないしは、その行使のためのモデルであるということができます。
→ オタワ会議という名前で呼ばれるものには、1932年世界恐慌で疲弊したイギリス帝 国の経済会議があり、一般に歴史家によく知られています。(この会議では、帝国特恵関税協定が成立し、これは後の世界経済ブロック政策の先進例とされてい ます)
【ご注意】これ以下の部分は講演のための準備ノートで、講演の中では、フランス革命後の医療 政策と医療の眼差しの質的な変化(お馴染みのフーコー『臨床医学の誕生』の冒頭の部分)について、平易に話すように努めました。(実際に上手くいったかど うかは??)
病いの第三次空間化(M・フーコー)
第一次空間化:分類学的医学
第二次空間化:肉体の地理の中で表象される(神谷訳、p.28)
第三次空間化
「病人は、たしかに、働くことはできない。しかし入院させられれば、病人は社会にとっ て、二重の負担となる。彼がうける扶助は、彼にしか及ばないから、彼の家族は放っておかれて、今度は家族が貧窮と病のおそれにさらされる。施療院=病院 ho^pital は、閉ざされた、伝染性の領域をつくることによって病を生み出すが、それが置かれている社会空間の中で、もうひとたび病の創造者となる。病人を保護する目 的で行われた隔離は、かえって病をうつし、病を無限に増殖させる。これに反し、もし病が、その誕生と成長の自由な領域に放置されれば、病はいつまでも、自 ら以上のものには決してならないであろう。それは現れ出たときと同じような工合(=具合)に消え去るであろう。その上、家庭において公的扶助を支給すれ ば、病がひきおこす貧窮のうめあわせとなろう。周囲の者が自発的に保証する看護は、だれにも一文もかからないであろう。また病人に支給される補助金は家庭 の利益となろう」(神谷訳、pp.38-9)。
「病人のために、一つの分化した、明確な空間をつくることを断念し、あいまいな、不器用
なやりかたで、病気を保護し、かつ病気から予防するための空間をつくることを断念すれば、「病の病」という連鎖と、貧困のたえざる貧困化という連鎖は、こ
のようにして断ち切られるのである」(神谷訳、p.39)。
ここには、<医療が福祉として脱皮する瞬間>、つまり医療の社会化は、古典的な医療 がもつ病人へのまなざしから、社会へのまなざしをつくりだし、それが結果的に医療とはまったくカテゴリの<独自の社会的業務>をつくりだす瞬間がみられ る。
これらについては池田(2001)を
参照にしてください。(会場では説明します)
プロモーションは、アドボカシーよりも応用人類学において遙か昔に登場したもので、現地の 人びとを開発に向かわしめる主体を外部から成型するという戦略的概念である。人類学者は、それまで学んだ土着の知識を活用して、西洋の開発の思想を翻訳 し、それを伝えるだけでなく、啓蒙活動を通して開発に呼応する主体を住民の中に作りあげることを理想としてきた。現地人が、そのような主体の成型以前に、 どのような主体をもつのか、もたないのかについて明らかにするために、現地人の文化を理解する統治術が考案された。主体の成型には文化の理解を通した言説 の作用が大きく働く。プロモーションは、帝国植民地における臣民の形成の技術と歴史的に通底する。今日的な意味でのプロモーションの立場、最も代表的なも のはアルマアタ宣言とその後の一〇年間のプライマリヘルスケアにあると私は考える。第二章は、医療人類学にまつわる歴史のほとんどはプロモーションの時代 であったと捉え、援助される主体がどのように構築されてきたかについて考察した。
他方、アドボカシーは、他者の主体を成型するというモーメントを欠いた戦術的概念である。 というのは、アドボカシーにおいては、呼びかける他者の主体はすでに存在するものであり、その実定性を疑う動機を欠いている。そこで重要なのは、彼(女) らの要求がいかなるもので、いかなる働きかけを彼(女)らの発話を代弁しつつ外部世界に求めていくのかということである。ここでの文化の理解という作業 は、彼(女)らの要求を直接討議の場に持ち込み同時に代弁するときに必要となる弁論術であり、彼(女)らの主体を成型するためのものではない。なぜなら、 彼ら/彼女はそこにいるからであり、共通の目的を遂行するための主体という意味で、研究者と対等な存在であるからだ。プロモーションが他者を表象する際に 権力を発動させるものだとすれば、アドボカシーは他者表象の操作を通して権力の配置を変えることにほかならない。アドボカシー概念は、相手との対話と交渉 なくしては存立しえない。そこから帰結するのは契約の概念であり、インフォームド・コンセントである。そのため、当事者と研究者という二つの主体の間での 対話と交渉が成立しない事態(意識混濁、精神障害、あるいは意識的な拒否)が生じた際には、その戦術の遂行は(パターナリズムという権力を動員しない限り は)困難となる。
■ 福祉とアドボカシーの関係については、こちらを
参照にしてください
5. 練習問題 praxis [はじめにもどる]
氏名(ペンネーム)
現在の職種
次の4つの質問にこたえてください(所要時間5分)
(1)あなたが理解する/したヘルスプロモーションとはなんですか? 具体例をひとつあ げて説明しなさい。
(2)そのなかで、実践者のあなたがとる(べき)もっとも重要な行動原則とは何ですか?
(3)一般的な傾向として、これからの健康支援はどのような方向にすすんでいくと思われ ますか?
(4)それは、あなたにとって好ましいことでしょうか、それとも憂慮すべきことがらで しょうか? 感想や心証でかまいませんので、それについて記してください。
門司区役所の藤吉さん、川中さん、講演の機会を与えてくださっただけでなく、当日たいへんお世話 になりました。
M・フーコー、1969『臨床医学の誕生』神谷美恵子訳、東京:みすず書房。
リンク:健康の政治学
池田光穂、2001『実践の医療人 類学—中央アメリカ・ヘルスケアシステムにおける医療の地政学的展開—』、京都:世界思想社
ミニ用語集 [はじめにも どる]
医療援助におけるプロモーションの考え方は、すでに第二次大戦以前からあったが、本格化したの
は冷戦が本格化する1950年代に入ってからである。プロモーションの理念を具体的なドクトリンの形になったのは1978年のアルマアタ宣言(WHOと
UNICEFが採択)以降である。以下の参考文献参照
・池田光穂、ヘルス・プロモーションとヘルス・イデオロギー—中央アメリカ村落の事例による検証,日本保健医療行動科学会年報
1990,Vol.5,pp.185-201,1990年6月
・池田光穂、「健康の開発」史——医療援助と応用人類学,文学部論叢(地域科学編),第49号,pp.41-72, 熊本大学文学会,1996年2月
アドボカシーが保健と福祉の領域で盛んに言われるようになったのは1990年代以降のことであ る。福祉領域においてアドボカシー概念は、それに先行するノーマライゼーションの思潮と深く関わる。ノーマライゼーションの発想は、障害者の社会参画を、 健常者とまったく区別のない社会への復帰過程としてとらえる。障害者をノーマルなものとして受け入れるために変化しなければならないのは社会の側であり、 ノーマルなものとして再登場するための前提をつくりあげると理解する。他方で、ノーマルな障害者の参画過程には、障害者自身が独立した主体として登場し、 自己の権利を主張しなければならない。ところが、参画者を受け入れる側に障害者の権利主張を主体として受け入れる社会的制度が十分に整備されていないため に、それに代わって権利主張をおこなう弁護者が必要になる。アドボカシーは、彼/彼女らに代わって権利主張を代弁し(represent)また弁護しなけ ればならない。なぜなら障害者は自己の権利主張を十分におこなえる社会制度が十全に整備されていないからである。またアドボカシーは、理念や制度の成立よ りも、個々人の主体としての権利主張とそれらが充足されているかどうかを個々の実践者のレベルからとらえようとする。そのためにアドボカシーの議論は、他 者を表象・代弁する権利の可能性や手続きの正当性をめぐって、将来的にはより深刻な論争がおこる可能性がある