全世界の若(馬鹿)者よ! 団結せよ!
世の大人どもがステレオタイプする馬鹿者としての若者のイメージについて山形浩生『新教養主義宣言』(1999:87)は次の3点にまとめ ている。多くのおっさん・おばさんが同意する点であるので、あげておこう。
【1】言われるまで何もしない(できない)
【2】情報交換の手段でない、のべつまくなしに「おしゃべり」すること
【3】基本的な躾ができない傍若無人さ
このような程度のことであれば、あるいは、この程度のことで目くじらたてるのであれば、[外見上]我々は馬鹿から立ち直ることは、比較的容易で ある。
【1】言われる前に何かする外面上の人格形成
【2】情報交換以外のおしゃべりに自分の時間を投入しないライフスタイルの確立
【3】基本的な躾について知り、馬鹿とみられないようにするような行為を通してみたカモフ ラージュ
ということである。要するに、大人たちが馬鹿者=若者に怒り狂っているのは、馬鹿のコンテンツではなく、大人とのつきあい方や若者の[馬鹿に見 える]振るまいであるということである。
ここから言えることは、ただ一つ。馬鹿は真の馬鹿ライフをエンジョイするためには、馬鹿を弾圧する大人に対して、外面に現れる馬鹿さを制御すれ ば、あとは、自分たちの馬鹿さ加減を容認してくれるということなのだ。
これからの馬鹿者つまり若者は、大人が若者に要求するスタイルと、自分にとっての欲望の充足するライフスタイルという2つのスタイルを、場所と 時間と状況に応じて演じればよいということになる。
世の中の馬鹿者には、そのような「社会に埋め込まれた真の馬鹿」と「自らの行為実践を誤り大人から不当に弾圧される薄っぺらい馬鹿」の2種類の ものが横溢することになろう。
言われるまでもなく、真の馬鹿は若者の特権ではなく、人間に備わる天賦の才能であり、誰もがもつことができるものだ。
馬鹿者のみんな! 真の馬鹿になろう! そのための必須条件は、真の馬鹿をやるためには、大人の前で馬鹿さ加減を曝してはならぬという基本的な 原則の保持だけなのだ。
万国の馬鹿者団結せよ!
参考文献
若者よ理趣経を詠もう!