よい医療者を育てること
【事実関係】
(1)医学生は専門課程に進学する早い時期に「専門職集団」の成員としての自覚を身につけているようである。
(2)他方で医学教育の現場では、教官は医学生たちを一人前以前の徒弟として扱う傾向が強い。それゆえに医学部における教育は教官から学生 への極端な知識の一方通行に終わっている。この現象は生命科学の知識の増大という現象によってさらに拍車がかかっている。
(3)それに比べて他学部の学生は専門職集団の成員という自覚もなく、また他学部の教官は、学生を共同体の同僚としてみるか、あるいは教官 の共同体の外部者としてみる傾向がつよい。したがって教育の形態も知識の一方通行型のものからコミューンまがいのものまできわめて多様に分散している。
(4)これらの事実は医学生の勉強のスタイルと彼ら自身の行動の正当化の論理を、他の学部のそれと顕著に異なったものにしているように思え る。
【仮説】
医学生が専門職集団の成員としての自覚をもっていることが自明であったとしても、それは入学から卒業まで一定のものであるとは考えにく い。医学生の自己および自己の集団の独自性の意識(identity)は、医学部という社会的な時空間の中でさまざまな変容を受けるに違いない。
【問題点】
(a)その中で医学教育はどのような役割を果たしているのか?
(b)医学生が専門職意識を早い時期に獲得することは、彼らが卒業後もつ医療という社会的業務にとって好ましいものなのか?
(c)教育とはたんに知識を伝えることではなく、それを応用した技術さらにはイデオロギーを学ぶことでもあると言われているが、医学教育に おいてはこの指摘がもっともあてはまる。医学教育の実態を知るということは、伝達される知識の細目だけを知ることでなく、教育の現場で教育者と医学生の間 でどのような認知的な実践が行われているのか知ることが枢要となる。
【研究方法】
(1)医学教育に関する文献の批判的な再 読
米国の象徴的相互作用論者やグラウンディド・セオリストの間では、医学生の社会学的研究が早くから行われてきた。機能論であれ構築論であ れ、彼らの関心は医療者がどのように産出されていくのか、その独自性とはなにか、その社会的機能はどうか、という観点から研究がなされた。
他方、日本での医学教育の諸研究は、現状を仮説検証という問題意識をもって調査するのではなく、研究以前に強い道徳意識(「よい医者をど のようして育てるのか」)が先行しており、分析の過程からそのような功利主義的な態度が入り、満足のいく社会的な分析に至らないものがほとんどである。
これらの研究の他に第三世界での医療者の産出に関する調査報告が存在する。
我々の問題関心に全く沿うような先行文献は極めて少ないが、膨大に存在する上の文献を我々の問題関心に惹きつけて批判的に検討することに よって、諸研究の成果とその限界を明らかにできる。したがって、文献収集とその批判的な再読のための研究会の運営は不可欠である。
(2)参与観察
医学生の教育現場(実習と講義)に参加し、どのような情報が教師と学生の間に公刊されているのか、我々の仮説の検証の理念にもとづいて新 規に調査することが不可欠である。民族誌学的方法の他に、言説分析のための録音機やノンバーバル・コミュニケーションを知るためのビデオ撮影も補助的に用 いられる。
(3)インタビュー
参与観察をおこなう集団(教官と学生)に複数回にわたるインタビューをおこなう。これは、彼らの認知上の理解について、調査者とのインタ ビューを通して推測(解釈)する手続きである。
【期待できる効果】
近年、さまざまな大学で試行されている 医学教育の見直しのための基準となるような方法の開発への糸口になるだろう。具体的には次のような 検討課題に対して理論的な寄与が可能である。
——過去20年間に急速に普及した「医 学概論」等のオムニバスあるいは全体論的な講義科目の教育実践上の効果の検討。
——「よい医療者」という理念と現実の 教育の効果の検討。
——医学部教育の大学院化に関する基礎 資料の提出。
【よ い医療・ よい看護に伴う実践上のパラドックス】
医療者や看護者が「よい医療・よい看護」を行いたいと欲望している間は、実はそれらの医療者や看護者が未だ、その理想的状況 に到達していない渇望感を再燃させているか、その現実よりも「よりよい医療・よりよい看護」があるはずだと妄想している状態であるということができる。し たがって「よい医療・よい看護」を行っている理想の状態とは、その当事者である医療者や看護者が「よい医療・よい看護」をもはや希求しなくなることであ る。つまり「よい医療・よい看護」を忘れることである。だが現実問題としては「よい医療・よい看護」とは安定状態ではなく動的平衡状態のことであるから、 現場で働く医療者と看護者は、再び、ありもしない「よい医療・よい看護」を再び希求することになる。そのため「よい医療・よい看護」というのものは、結果 として判断されるもので、現在ならびに未来において「よい医療・よい看護」が到来することは、これまでもなかったし、またこれからもない。