医療現場のコミュニケーション(3)
西村 ユミ
2007年7月3日(火)
■授業目標
1 何が、植物状態患者との「交流」を成り立たせているのかを考える。
2 コミュニケーションを考える出発点をどこに置くかを考える。
■遷延性植物状態患者のVTR鑑賞とグループワークの議論の復習
□ 授業目標
1 医療現場におけるコミュニケーションの一例として、遷延性植物状態患者の援助をしている看護場面(VTR)を取りあげ、ここでいかなるコミュニケーションが行われているのか(行われている可能性があるのか)を検討する。
2 遷延性植物状態を患う患者の“存在”から、どのような問いかけを読み取ることができるのかを考える。
□ 問い
・コミュニケーションは、一方が他方に、言語的・非言語的に[問いかけそれに応じる]というスタイルでだけ行われているか?
・コミュニケーションは、[うまくできる/できない]という次元のみで行われているのか?
・経験の次元において、[自己/他者]は明確に分離されているか?
□グループのまとめ
(どのようなコミュニケーションが行われているか?)
ボディタッチ(触れること→反応を作り出す、)、カーテンをオープンにすること(環境)、付き合うこと、
名前を呼ぶこと、手をとって歌うこと、身体をさすること、質問に対して指を動かす、食事を手伝うこと、
雰囲気を感じる/作る、人として人間的に接する、伝えようとする、
愛情、生きる意志、心と心・・・。
(コミュニケーションは成り立っているか)
・コミュニケーションをとろうと思うこと自体、相手に積極的にかかわることがすでにコミュニケーション。
(見え方は一方的だが、心の中の反応に注目)
・一瞬でも、「伝わった」と思うことができればコミュニケーション。
・気持ちが通じ合っていれば(そのように受け止められれば)コミュニケーションになる。
・反応が返ればコミュニケーションになる。
・「思いこみ」、主観的、自己満足。
・身ぶり、手ぶりでリアクションをすることは、意見の交流になっている。
・コミュニケーションができない、と感じることも、他者に関心を持っていることからコミュニケーションではないか。
・コミュニケーションはプロセス、過程。(コミュニケーションだけを切り離して考えることは難しい)
・私たちの普通のコミュニケーションの延長でもある。
(コミュニケーションの把握の仕方の問題)
・コミュニケーションが取れているかどうかを第三者が客観的に見て判断することは難しい。
/第三者でも判断できる。
・VTRを見てコミュニケーションのあり/なしを判断することは難しい。
・主観的に感じられればコミュニケーション/主観的、思い込みであれば個人に完結してしまう。
(新たな問い)
・「思い込み」は、コミュニケーションなのか? コミュニケーションの要素なのか?(池田)
→「思い込み」はコミュニケーションのプロセスの中に入っている。
(その他)
・意識障害の人と接するとき反応の少なさに戸惑うことがある。その相手の反応で支えられている。
■経験の中から問いを立ち上げる
□植物状態患者の定義と実際に接しする中で経験すること
・一見、意識が清明であるように開眼するが、外的刺激に対する反応あるいは認識などの精神活動が認められず、外界とのコミュニケーションをはかることができない。(Jennett & Plum, 1972)
・実際に患者たちと直に接している看護師や医師の多くは、この定義からは理解できないようなかかわりの「手ごたえ」を経験することがある(いつもではなく、ある瞬間に)。しかし、それがどのような経験であるのかをはっきり説明することは難しい。
・はっきりとは説明できないが、確かに何らかの交流ができているという「関わりの手ごたえ」とは?
果たして看護師や医師の思い込み(主観)なのか?
患者の側に未だ見いだされていない力が備わっているのか?
□遷延性植物状態患者を取り巻く問題系
.
[医学的な定義] ↓↓ ・精神(意識障害)/身体(物体として生きている) ・見る主体(看護師等)/見られる客体(植物状態患者) |
*
.
二項対立の図式 ↓↓ 植物状態 = 意識障害 = 動かぬ客体(物体) ⇒ 交流不可能(dis-communication) |
□植物状態患者との交流を何によって確認するか。
1) 測定と観察によって検証されるという意味での客観性――「法則性」(因果関係)
例)まばたきの意味(瞬目/返事)
2) 多の人が共通して経験しているという意味での客観性――「共通性」
例〉意識障害の見方(見るものが意識障害者であることを押し付ける)
→いずれも、あらかじめ客観的な事実があることを前提としている。
→客観的な事実があるというよりも、その事実がどのように成り立っているのかを考えることを優先。
□経験に手がかりを求める
▼現象学/メルロ=ポンティ(Merleau-Ponty)の身体論の視点
・記述することが問題であって、説明したり分析したりすることは問題ではない。…(略)…私が世界について知っている一切のことは、たとえそれが科学によって知られたものであっても、まず私の視界から、つまり世界経験から出発して私はそれを知る。(メルロ=ポンティ, 1967, p.3)
・事象そのものへとたち帰るとは、認識がいつもそれについて語っているあの認識以前の世界へとたち帰ることである…。(p.4)
▼現象学の視点が拓く植物状態患者との交流の可能性
・「世界を見ることを学び直す」―「植物状態患者」というレッテルを取り払う。
・「現象学では、知覚された経験をそれ自体として存在するものではなくて、それを思ったり感じたりする人間の側の志向との関係の中で現象することとして捉える」(鷲田)
・知覚経験は、関係が第一次的であり、関係の極である知覚する主体およびその対象の存在は、関係の成立を前提としているという意味で第二次的なもの。
―― 植物状態患者が他者と関係をもてるか否か、看護師の知覚が客観的な根拠をもっているか否かは第一次的な問題にはならない。
.
看護師にとっての現われそれ自体(経験)が意味をもつ ↓ 生きられた経験世界の出発点(媒体)となる両義的な〈身体〉 |
・精神と身体/見る者と見られる者、主体と客体という二項対立の克服
■具体的な経験例
□視線が絡む(西村, 2001)
「…目と目が合ってもなんか、私は目を合わすんです。覗き込むんだけれども、なぜかピッと合ってくるものがない気がした。すごい抽象的だけれども……。こうある動きの中でも瞬時で、なんかこう、やっぱり『視線がピッと絡む』みたいなところはあるような気がする。…そういう視線が絡むような瞬間が、瞬間として捉えられる。プライマリーだから捉えられるのかもしれない。」=【感覚の未分化な経験がかかわりの根拠となっている、存在に促される】
□タイミングが合う
「瞬目(声かけに対して返されるまばたき)が。あと、手を握ってくるというのがあったので、こうピッてして(Uさんの手の中に自分の手を入れる真似をする)、「手力入れて」って言ったらキュイ、「離して」キュイ、「合ってるかな」って感じ? 不随意でたまたま言葉かけに合っていたのかなとか、私がその不随意な動きに無意識に言葉だけ合わせてた可能性ってあると思うんですよ。」=【問いかけのなかに応答がはさみこまれる】
□患者さんの理解
「Sさんの眼を見て話しているうちに、自然にSさんの理解力に合わせた表現や速さで、できるだけ分かりやすく理解しやすい言葉で話すことができるようになったんですよ。」(がんの告知や手術の説明等に際して)=【私の行為が患者の状態を表現している】
【引用・参考文献】
Jennett, B & Plum, F., Persistent Vegetative State after Brain Damage; A syndrome in search of a name. The Lancet, April 1, 1997, 734-737.
M・メルロ=ポンティ『知覚の現象学1,2』みすず書房、1967年; 1974年 西村ユミ『語りかける身体』ゆみる出版、2001年
クレジット:2007年7月3日(火) 臨床コミュニケーション I 担当:西村ユミ
● 【臨床コミュニケーション1】にもどる