現場力とコミュニケーション
《第3回》
身体知:生きられた身体の知・自覚する手前の経験
講義目的
I.「現場」を問い直すときに、なぜ〈身体〉という言葉がかかわるのかについて考える。
II.〈身体〉という言葉が、いかなる問題提起をしているのかについて考える。
講義内容
1.「現場」についてのイメージ
(受講者各人が「現場」に対してどのようなイメージをもつのか考え、みんなにその考えをつたえ、ともに議論する)
2.具体的な現実はどのように成り立っているのか?
西村(2004-2005年)の調査により、グループインタビューの手法を使って得られた具体的な現場の声について、当人の語り口が記述されたAからDまでの4つのものを事例として検討する。
3.身体の二元的な理解
デカルト(1596-1650)に代表される精神と物体の二元論。
これに対するアンチテーゼ(メルロ=ポンティ、1908-1961)
例)ドアに手を挟まれて内出血を起こしたことを考えてみよう。
○ 精神に本質的な特徴――思う(意識する) 痛い! やっちゃった!
○ 物体に本質的な特徴――ひろがり(延長) 手が腫れ上がった、赤紫になった(=客観的に自分の身体を観察している自分がいる)
→上の両者の間に共通項、交叉点がない!
→世界を精神/物質という2つの領域に分けた場合、身体は物体に属するのか?
→人間は2つの全く異なった実体が共存している例外的な存在か?
※これらは、日常的な理解の仕方に[我々は]馴染んでいる一方、他方で日常的な言葉のなかに「身にしみる、身を焦がす、身を立てる」等々、こころや社会的地位を示す表現があり、それらが相互に影響を及ぼし合い、単純な心身二元論の世界に我々が生きていないことを示す実例になっている。
4.心身問題
○〈思うこと〉(意識すること)と〈ひろがり〉が相互に作用し合うことは、なぜ可能か?(未解決)
○身体とは、ひとつの物体なのだろうか?
○私たちの意識は、意識それ自体にいつも直接与えられているのに対して、意識の対象である外界の事物は、そのつど私たちが知覚のパースペクティブの中で一面的にしか現れない。
→意識/物との関係=知覚するもの/知覚されるもの=主体/客体
→身体は経験の客体の側に配分されてしまう。
5.具体的に生きられる身体
「われわれが物を手前に引き寄せるとき、あるいはどこかへ向かって歩きだすとき、われわれはそのために手足をどのように動かすかなどと考えはしない。われわれの意識は直接前方の物へと向かっているのであって、身体はいわば素通りされてことさら意識されることはない。ところが、疲労しているとき、あるいは病気になったりでもすれば、身体はにわかに腫れぼったい厚みをもったものとして浮き彫りになってくる。脚がこっているとき、胃が痛むときを思い出せばよい。そのときわれわれの意識は自分の身体のところで停滞してしまう。身体の存在は、このように濃密になったり希薄になったりする」(鷲田 1997)。
「われわれの身体はわれわわれの身体(=物体)を包み込んでいる皮膚という境界を越えて、伸びたり縮んだりもする。われわれが杖を使いはじめるとき、われわれはたしかに掌で杖の感触をあじわう。しかしいったん使い慣れたなら、われわれの感触は手から杖の先まで伸びていって、杖の先で物を感じるのではないだろうか。われわれが身につけているもの、たとえば靴のばあいもそうであって、感覚が身体(=物体)の表面で生じるのだとすれば、われわれはいつも足の裏が靴底に接触している面を感知するはずであるのに、じっさいには靴の裏で直接にアスファルトや芝やぬかるみの微細な感触を区別しているのではないだろうか。逆に怯えているとき、羞じらっているとき、どうしてわれわれはあのように身を縮こめるのか」(鷲田 1997)。
「通常、自分の身体はわれわれに意識されていない。なぜなら、日常的関心は世界のなかの個別的な事物に向かっているからである。そうしたばあい、われわれの存在と意識はかぎりなく一致している。ところが、たとえば、ある技能を身につけようとして身体を意図的に動かそうとするときなど、身体はわれわれの意識に登場する所有物となる。しかし、訓練をはじめたばかりのときには、しばしば意図から乖離する所有物となる――つまり、自分の身体が対象としての物に近いものになる――のである。したがって、人間は身体にかんしてつねに「存在」と「所有」のあいだを揺れ動いているといえる」(長滝 1999)。
6.物(対象)でも意識でもない、あるいはいずれもでもある身体
○ 物としての身体は、第一義的なものではない。
身体は対象というあり方とは全く異なった相貌、違った存在次元を示す。
○ 現象学では、身体は世界が現れる場(媒介)として主題化される。
「わたくしが物をみるのであって、脳や大脳が見るのではない。わたくしがこの街にいるのであって、身体がこの街にいるのではない。身体の問題は、わたしのこの見るという〈経験〉、わたしのこの〈存在〉の身体性というかたちで、われわれの世界とそのつどのかかわりという場面で問われるべきことがらである」(鷲田 1997)。
「主体/客体、精神/物体、心的なもの/生理的なもの……といった二項対立のあいだ、あるいはむしろその手前に身体固有の存在次元を取り戻すことが問題なのだ。世界にはたらきかけ、はたらきかけられるといったわれわれと世界の交わりのなかで、つまりはそういった実践的な現場で、身体の生き生きとしたはたらきをとらえることが求められているのだ。わたくしの前に対象としてある身体ではなく、世界とのかかわりのなかでいつもわたくしとともにある身体、それを考察する必要があるのだ」(鷲田 1997)。
7.習慣と感覚(始原的、地平という意味での)
○ 方向付けられた空間――〈世界に身を挺している主体〉であるからこそ、まわりの世界が上下。左右、前後、高低という意味をもつ。
○ 習慣としての身体 「からだで知っている」「からだで憶えている」
○ 図式としての身体の組み換え・更新「身体の了解」「習慣の獲得」
「スポーツでも楽器の演奏でも、……試みるたびにうまくなり、理解が進むのは当然として、あるとき突然身の動きが自由になり、頭が晴れる思いをすることがあるのではないでしょうか。あたかもそれまで無かった網目が突然身のうちに張りめぐらされたように。経験は身のうちに沈殿し、くりかえしは、自分では気づかない小さな発見と創造によって、まだ不確定な網目のを潜在的に身のうちにつむぎ出しているのではないでしょうか」(市川 1993)。
○ 視覚的・聴覚的・触覚的・運動的等々の諸側面の含みあい、「共感覚」
「われわれはガラスの固さともろさを見るのであり、それが透明な音とともに割れるときには、この音も目に見えるガラスによって担われるのだ」(出典?)。
○ 感覚=世界との「共存」「交換」
「色とそれを支えるわたくしのまなざしとの交換、対象のかたちとそれを支えるわたしの手の運動との交換」(出典?)。
例)ハサミの使い方は、どのようにして憶えるのか?
○ 物とまじわる視覚(感覚)
「視覚(あるいは感覚)は、われわれのこの器官としての身体のどこかの部分で起こる刺激―興奮なのではなくて、むしろ物へ向かう運動であり、行為」(出典?)。
8.両義性
○ 物体としての身体をあらわす「身体」という言葉との区別 → 「身体性」
○ 主観/客観(主体/客体)心身の二元論の乗り越え → 主体でも客体でもない、心でも物でもないという両義性
9.まとめ―〈身体〉から問われること
・視点の変換、そのための一歩後退:現象学的還元(反省)という議論の中で
・人間と世界とはその「事実性」から出発するのでなければ了解できない → 「おのれ自身の端緒がつねに更新されていく経験」、その「経験からこそ、出発すべき」
・自分自身の(経験の)「捉えなおし」のすすめ
引用・参考文献
メルロ=ポンティ『知覚の現象学1,2』みすず書房、1967年、1974年
鷲田清一『メルロ=ポンティ―可逆性』講談社、1997年
長滝祥司「身体の世紀に向けて」『月刊言語』28(9):94-99、1999年
長滝祥司『知覚とことば』ナカニシヤ書店、1999年
市川浩『精神としての身体』講談社、1992年
市川浩『〈身〉の構造』講談社、1993年
西村ユミ「〈動くこと〉としての〈見ること〉」石川准編『身体をめぐるレッスン3:脈打つ身体』Pp.127-152、岩波書店、2007年
注意:このページは西村ユミ先生が配布した資料をもとに、池田光穂がその授業内容をまとめたものです。
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