現場力とコミュニケーション
《第4回》
タイプを打つこと:習慣化、馴染むこと
講義目的
1.タイプを打つことを記述した文章を読み、自分の場合はそれをどのようにしているのかを考え、議論する。その場合、必ずしもタイプを滑らかに打っている状態でなくとも、考えながら、文章を打ち込んでいく状態をイメージしてもよい。
2.タイプが打てるという身体の状態に「習慣」という言葉をあてるが、それがどのように成り立っているのかを、様々な角度から考える。
3.自分自身の経験において、見ること、感じること、考えること、動くことがどのように関連し合っているのかを考える。
講義内容
[検討対象]
「わたしがタイプの前に座る時、わたしの手の下に一つの運動空間が拡がり、その空間のなかで私は自分の読んだところをタイプに打ってゆく。読んだ語は視覚空間のひとつの転調であり、運動遂行は手の空間の一つの転調であって、その場合、どのようにして〈視覚的〉総体のある表情が運動によるある仕方の応答を喚起してくることができるのか、どのようにして各〈視覚構造〉がついにその運動的本質をあらわにし、しかもその際に、語を運動に翻訳するのになにも語や運動を一つひとつたどる必要がないのか」(メルロ=ポンティ『知覚の現象学1』みすず書房、1967年より)
[寄り道]
「こんなふうに彼(メルロ=ポンティ)はいう。我々が環境の中に住み込みそれを多面的に経験しうるのは、身体が潜在的に、また顕在的に、その手がかりとなる拠点となることではじめて可能だ、と。シモーヌ・ド・ボーヴォワールもいうように身体は精神や周囲の世界から切り離されてある一個のものではない。身体とは、世界と精神とを結びつけて一つの体系へと構成する諸関係の束のことだ。メルロ=ポンティはこれを説明するのに、“幻影脚”つまり切断された腕や脚がまだあるかのように感じられる現象をもち出して、こういっている。……切断手術の患者が失ったのは単に腕や足なのではない。その人と世界をつないでいた関係の環――その人の存在を世界の中に定着させていた錨――がひとつ失われてしまったのである。」
「歩ける者には歩けないということがどんなことかわからないというのは真理の一面にすぎません。その他面とは、歩ける者が実は歩けるということの本当の意味さえ理解しないという事態です」(ロバート・マーフィー『ボディ・サイレント』新宿書房、1997年)
注意:このページは西村ユミ先生が配布した資料をもとに、池田光穂がその授業内容をまとめたものです。
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