アリストテレスはソクラテス的対話ができたのか?
Could Aristoteles practice Socrateic dialogue ?
アリストテレスはソクラテス的対話ができたのか?
この問いはいっけん奇妙な設問である。なぜなら次のような反論がきそうだから。
「アリストテレス[前384-322]はプラトン[前427-347]の弟子で、プラトンの先生はご存じソクラテス[前470?469- 399]なんだからできたのは当たり前じゃん!」
ギリシャ哲学における論理構成は(プラトンを通して)ソクラテスが編み出した知的産物である。したがってアリストテレスが、プラトン流の対話編 を残さなかったからといって、アリストテレスのソクラテス的対話能力がなかったというのは、とうてい考えることができない。実際には最初期に『エウデモ ス』という対話編をのこしているという(「断片集」『全集17巻』)。
もし、こういう連中がいたら、森をみて、それぞれの木は同じものからできていると結論しているのでないかと言いたくなる。
ソクラテスに同時代の哲学者に比べて極めてオリジナリティがあり、それが必然として対話編の形として残ったのかという議論はきわめて乱暴だ。も ちろん、対話編のなかにみられるソクラテスやプラトンあるいは、彼らのまわりにいた連中にいろいろな魅力を感じたとしてもである。
表題の質問は同じような設問の技巧を使って、じゃあ、なんでプラトンはアリストテレスのように書けなかったのか?という不遜な質問をすることが できる。
「いや〜、スタイルの違いだけじゃよ」、とプラトンとアリストテレスの違いをその次元に留めておくことができる。
プラトンの著作のもどかしさは、今日において議論をひつこく展開するアリストテレス的論理展開のパターンで書かれていないことである。
そうすると、アリストテレスが複数いたとか、写本につぐ写本で、オリジナルは再現できぬという文献考証学的な蘊蓄は横にどけると、アリストテレ スないしはアリストテレス的論述のユニークさは、特筆すべきものであることがわかる。
もちろん、アリストテレスのテキストの記述における論理展開は我々の考え方にぴったりとフィットするものではないし、呪文とも、譫言(うわご と)のような議論もある。後世の哲学者がそのような譫言を救済しようとして、いろいろ蘊蓄を傾けるのも傾聴に値するが、ときに「そりゃ著者の真意というよ りも、あんたの解釈じゃないの?」とつっこみたくなるような解釈も多い。
ここで、ソクラテス的な対話の復権という大事業に棹さすのは、いささか抵抗はあるが、他人とのバトル的議論をして、論理を引き出そうとするソク ラテスの技法を、自分との対話で、モノローグにおいても、対話以上の論理的生産性をつくりあげたアリストテレスの偉大さを強調したくなる。
アリストテレスは弁舌さわやかだったという格言(flumen orationis aureum funden Aristoteles :キケロ)すらあるくらいだから、彼がソクラテス的対話が——すくなくともプラトン以上に——難なくこなせたことは想像に難くない。
もちろん、このようなアリストテレス偉大説を過度に強調する必要はない。なぜならイスラム経由でアリストテレスが再発見されて、キリスト教神学 のなかで、見事に花開く、真理の教説の元祖としての持ち上げと同じじゃねえかと、歴史を逆行させることになる。
てなことは、さておき、アリストテレスは本当にソクラテス的対話をやったのか?——対話が重要ではなく、対話が齎すものが重要という考え方もあ る。その意味においてソクラテスもプラトンも彼らの哲学者としての成長の時期において、必ずしも対話上手だったという判断は(仮に連中が虚構的存在であっ たとしても)言えないのだ[デイビッドソン 2010:411]。
人間だからアリストテレスだって対話ぐらいできたじゃろう? というのは答えにならない。なぜなら、ソクラテス的対話とは、やはり、具体的な話 を素材にしてねちっこく議論をひねりだす達人の技であるからだ。
アリストテレスはアレキサンダー大王の家庭教師だったことがあるぐらいだが、その対話編の存在というのも聞いたことがない。
西洋哲学のはじまりは、ソクラテス的対話からではなく、アリストテレス的著述[=観察と思索をもとにするエクリチュールを通しての観想活動]か らであったのではないかと、私は主張したい。
そして、もっともこういう名言を引くこともできる。「ソクラテスの対話を読んでいると、なんという時間のむだかと感じる」(ウィトゲンシュタイ ン)。
● ソクラテス的対話
文献
資料
「アリストテレスはこの時代(=彼のアカデメイア時代:引用者註)に、内容的にも形式的にもプラトンの模作して、いくつかの対話編を書き、 それらを自ら公刊した。先に述べたディオゲネスの著作目録の最初に掲げられている『正義論』以下の19篇がそれである。しかるにいわゆる「アリストテレス 著作集」(Corpus Aristotelicum)が紀元前1世紀の末葉、ロードスのアンドロニコスによって刊行されるまで、アリストテレスが一般に知られていたのは、主とし て「公開的著作」たるこれらの対話篇によってであったと思われる。しかしこれらはすべて散佚し、現在では古代の著作家たちの引用によって、僅かにその断簡 を窺いうるに過ぎない。こうした事情は、プラトンの対話篇が完全に保存され、逆に彼のアカデメイアでの講義の筆録がほとんど失われてしまったことと不思議 な対立をなしている、とも言えるであろう」(藤井 1959:21)。
「アリストテレスが前360年頃、おそらく25歳頃に書いたとみられる習作的対話編『グリュロス』は、アカデメイアとイソクラテス学徒との 弁論・修辞術を中心とする対立を背景として成ったものと考えられるが……遅くともプラトンの晩年の前350年代の初めには、アリストテレスは弁論・修辞術 の講義を開始していたと推定されている。……キケロもピロデモスもともに彼(=アリストテレス)の弁論・修辞術研究の動機について、アリストテレスがイソ クラテス学校の盛況ぶりに大いに刺激を受けて、従来の批判をやめ、エウリピデスの悲劇『ピロクテテス』の言葉をもじって「イソクラテスに語らせておいて、 こちらが黙っているのは恥さらしなこと」といって弁論・修辞術をむしろ積極的に講義したことを証言している」(廣川 2005:237-238)。
「道はエクリチュール、エクリチュールは肉体、単一の肉体は複数の肉体(木立ち)だ。意味とは、あたかも終着点、道の終わるところのことで あるかのように——我々が到着するが早いか終わりでなくなってしまう終着点、我々が口にするが早いか霧散してしまう「終着点」のことだ。エクリチュールを 超えたところに姿をあらわす。それと同様、肉体はどこからみても同 じように見え、同じように手のくだしようのない十全たるひとつの総体として現れる。肉体とは、実のところ、いわゆる肉体を超えたものだ」——オクタビオ・ パス『大いなる文法学者の猿』清水憲男訳、訳文は一部変えました。
El camino es escritura y la
escritura
es cuerpo y el cuerpo es cuerpos (arboleda). Del mismo modo que el
sentido aparece más allá de la escritura como si fuese el punto de
llegada, el fin del camino (un fin que deja de serlo apenas llegamos,
un sentido que se evapora apenas 10 enunciamos), el cuerpo se ofrece
como una totalidad plenaria, igualmente a la vista e igualmente
intocable: el cuerpo es siempre un más allá del cuerpo. - Octavio
Paz, El Mono gramático, p.114, Barcelona; Galaxia Gutenberg, 1998,
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