ディスコミュニケーションの理論と実践
2007年度 第1学期
〈身体〉とディスコミュニケーション(2)
西村 ユミ
■講義内容および目標
1 人前に立つと緊張したり赤面したりするのはどのような経験かを、からだを動かしながら考えることができる。
2 目標1をもとに、私たちの〈身体〉が,他者とのコミュニケーション/ディスコミュニケーションを、どのように成り立たせているのかを考える。
■復習(前回の発表内容)[前回の授業]
1 「身体」と「こころ」とは分けられるか?
「身体」は意識に支配されているのか?
2 身体の存在は、コミュニケーションといかに成り立たせたり困難にしたりしているか?
3 植物状態患者の存在は、見る側の受け止め方によって変わってしまうのか?
ついつい触れたり近づいてしまうのは?
4 人前に立つと緊張したり赤面したりするのはどのような経験か?
(自分なりに納得してから発表するとあがらない、という人もいる)
5 身体のふるまいに親しみを覚えたり、不気味さを感じた。
■「〈身〉の構造」(市川浩,1993年)からの抜粋をもとに,「身体」とコミュニケーションについて考える1 身の拡がり(p.21)
1)物とのかかわりで拡大する身体
(1)車を運転する人
「車を運転する人は、カーブに入ると遠心力がはたらき、それに抵抗して逆の方向に身を傾けているのに気づきます。カーブに入ればそうなるのは当然ですが、カーブにさしかかると、すでにそういう態勢をとっている。つまりわれわれの生き身は、カーブにさしかかる前からカーブまで伸びているわけです。」(p.21)
「このようにわれわれが主体的に生きている身体(主体身体)は、決して皮膚の内側に閉じ込められているわけではありません。皮膚の外まで拡がり、世界の事物と入り交っています。」(p.22)
(2)道具を使う場合
「道具を使う場合、われわれのからだは、道具を身のうちに組み込み、道具の中にまで拡がっていきます。たとえばわれわれは靴をはいています。触覚の生理学からいえば、われわれは足の裏で靴の内側を感じているはずです。ところが実際に歩いているときにはどんな風かは感じない。道路のでこぼこ、コンクリート舗装の頭にひびく堅さ、落葉がつもった山道のふかふか、芝生の快さ、泥のなかへ踏み込んだときのグニャッとした嫌な感じ、それらすべてを靴の裏で感じています。われわれの生き身は靴を身のうちに組みこみ、靴の裏まで伸びているのです。」(p.22)
2)他者とのかかわりで拡大する身体
(3)4つ座席(あるいは2人席)
「4つ座席があって、たとえばこちらが左側に座っているとしますと、相手の人は斜め右の席に座る。正面には絶対に座らない。また横にも座らない。つまり、こっちは私空間、そっちはあなたの空間というわけで、ちゃんと分けているのです。ただ2人席のときは非常に具合が悪い。互いに斜めに身を構えて、視線を外し、身の拡がりが交叉しないよう私空間をつくるわけです。そして目が合いそうになるとパッと行きすぎて見の拡がりの衝突をさける。」(p.23−24)
(4)新聞をのぞかれる
「電車の中でも、日本人は何か読んでいるか、眠っているかのどちらかですね。読んでいると、のぞきこむ人がいる。そうすると、のぞかれないように新聞を傾けている人があります。あれは、自分が買った新聞だから、人に読まれると損をするということではない。視線が自分のからだの領分へ侵入してくるような落着かなさを感ずるのでしょう。」(p.25)
2 〈身〉のことば(p.32)
1)相手がにっこりする
「相手がにっこりすると思わず私もにっこりします。これは相手がほほ笑んでいるから、こちらもほほ笑みかえさなければ礼儀上悪いと思ってにっこりするわけではありません。相手のほほ笑みを見ると、こっちも思わずほほ笑んでしまう。逆に相手の顔がこわばっていると、自然に私の顔もこわばってしまう。つまり他者の身体というのは、決して科学が扱うような客体的身体ではなく、表情をもった身体であり、私の身体もまた気づかぬうちに表情や身ぶりでそれに応じています。つまり身体的レヴェルでの他者の主観性の把握と、私の応答があるのです。」(p.32)
■「身体」に関するグループワーク
課題1)市川浩の身体に関する記述を参考にしながら、人前に立つと緊張したり赤面したりするのはどのような経験なのかを、自分自身の具体的な経験をもとに考える。
2)課題1をもとに、私たちの〈身体〉が,他者とのコミュニケーション/ディスコミュニケーションを、どのように成り立たせているのかを考える。
時間 16:55〜17:30:グループワーク
17:30〜17:50:発表とまとめ
グループ:4〜5名/グループ
司会と発表者を決める
■参考資料
3 手を見つめる(p.27)
1) 赤ん坊が自分の手を見つめる
「赤ん坊がまじまじと自分の手を見つめながら、手を開いたり閉じたりしていることがあります。あたかも不思議なものを見るかのように、あきずにくりかえしている。(略)赤ん坊は、何か物を取ろうとしても、なかなかうまく手を届かせることができません。対象としての自分の手と内側から感じている自分の手がまだうまく統合されていないのでしょう。考えてみれば、対象として見えている手が、同時に主体として感じている手でもあるということは、不思議なことですね。赤ん坊は、そういう不思議さを自分の手を動かして見ながら感じているのでしょう。」(p.27)
「手そのものを見て遊ぶ赤ん坊の手遊びは、身が身へ折り返す二重化のはじまりであり、もっとも原初的な自意識の萌芽ではないでしょうか。自分の自分に対する関係が反省ですが、身体的レベルでの反省ともいうべきものが、この二重感覚にはあるわけです。」(p.28)
2) 人にくすぐられる
「自分で自分をくすぐってもくすぐったくない。ところが人にくすぐられると非常にくすぐったい。生理的な触覚としては、ほとんど同じ刺激を与えることができるはずです。ところが一方はくすぐったくないのに、他方はくすぐったい。つまり、触覚のような非常に原始的な感覚の中にも、すでに他であるものの直覚的な把握があります。これがただちに他者の把握といえるかどうかはわかりませんが、他者把握のはじまりにはちがいないでしょう。」(p.29)
3)他者から見られた身体―恥ずかしさ
「・・・そのような他者との関係においてある私の身体(対他身体)というものがあります。そして他者から見られた身体、他人によってとらえられた身体の存在の把握があります。人見知りや照れや恥ずかしさは他人に見られているわが身(自分)について照れたり、恥ずかしがっているであり、そこに他者の把握があるのはあきらかでしょう。恥ずかしさは次第に抽象的な自己を恥じるレヴェルにまで達するとしても、まず自分が見える(見られる)ものであるからこそ恥ずかしいのです。もし私が見えないものであったとすれば、人にたいする恥ずかしさは生まれなかったでしょう。それは反省が抽象的な自己にたいする反省のレヴェルにまでいたるとしても、まず見える自己にたいする身の折り返しからはじまるのと同じです。こうして子どもが恥ずかしいと感ずるようになったということは、他者をとられるようになったと同時に、自己を把握するようになったということでもあるわけです。」(p.29-30)
クレジット:2007年6月28日(木) ディスコミュニケーションの理論と実践(11) 担当:西村ユミ〈身体〉とディスコミュニケーション(2)
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