パブロ・エスコバルとホアキン・エル・チャポ・グスマン
Pablo Emilio Escobar Gaviria (1949-1993) y Joaquín Archivaldo
Guzmán Loera (1957- )
Pablo Emilio Escobar Gaviria (1949-1993) | Joaquín Archivaldo Guzmán Loera (1957- ), or Joaquín
"El Chapo" Guzmán |
1949 12月1日 リオネグロで生まれる 1962 ごろ墓石を盗んで墓碑名を消して転売したのを皮切りに高校を中退 1980s メデジン・カルテルは販売ルートを拡大して、ペルーとボリビアから持ち込んだ良質のコカインをメキシコ、プエルトリコ、ドミニカに売り込んだ 1982 1982年には与党・コロンビア自由党に所属する上院議員 1983 上院議員辞職 1985 左派ゲリラによるコロンビア最高裁占拠事件はエスコバルの関与 1989 メデジン・カルテルは、ルイス・カルロス・ガラン・サルミエントら大統領候補者3人の暗殺、アビアンカ航空機203便の爆破、ボゴタの治安ビル の爆破などのテロ行為を実行 1990 セサル・ガビリアが大統領に就任。彼は大統領候補時代に暗殺されかけた事から、エスコバルを恐れ、そして屈服 1991 エスコバルは5年の服役とアメリカへの引渡忌避を条件にコロンビア政府と合意すると、「ラ・カテドラル(La Catedral、教会や大聖堂[1]の意)」または「オテル(ホテル)・エスコバル」と称されるエスコバル個人用の豪華な設備を備えた刑務所(この施設 自体がエスコバルによって建設されたものだった)に収監 1992 エスコバルが刑務所内で2件の殺人事件を起こし(殺された2人の内、1人はエスコバルの幼馴染だった。幼馴染の友人は、囚人の前で幼馴染である エスコバルに気安い態度を取り、それに激昂したエスコバルが男性を射殺した) 1992 7月22日移管の日、エスコバルは刑務官の前を堂々と歩いて刑務所を出ると、移管先の刑務所に向かわず、そのままメデジン市中に姿を隠した 1993 12月2日、コロンビア国家警察直下のコロンビア治安部隊の電波調査斑が、メデジンの中産階級住宅街の隠れ家から息子と携帯電話で通話するエス コバルの居場所を突き止め、治安部隊の特捜チームが突入して屋根の上に逃れたエスコバルに一斉射撃を加えて殺害した。44歳で死去 |
1957 4月4日La Tuna, Badiraguato
Municipality, Sinaloa,で生まれる 1970s Miguel Ángel Félix Gallardoがボスを務めるグアダラハラ・カルテルに所属し、後のシナロア・カルテルのボスとなるHéctor Luis Palma Salazar の下で働く 1980 シナロア・カルテルのボスHéctor Luis Palma Salazar専属運転手。グアダラハラ・カルテルは1970年代後半から1980年代初頭にかけてコロンビアとアメリ カーメキシコ国境を結ぶコカインの仲介業者として活動するとともに、カリブ海やフロリダ半島を結ぶ麻薬の輸送ルートを新たに開拓して組織を巨大化 ca.1985 コロンビアマフィアが得ていた権益をメキシコマフィアが引き継ぎ、さらに組織は巨大化 1984 DEA(Drug Enforcement Administration)エージェント、キキ・カマレナ(Kiki Camarena, 1947-1985)はガジャルドを含むボスとも繋がりを持つようになり、やがてカマレナから情報提供を受けたメキシコ軍が1984年11月にグアダラハ ラ・カルテルが所有する1000ヘクタールもの広さをもつ大規模なマリファナ畑に奇襲をかけ、80億ドルもの損害を組織に与えた 1985 Miguel Ángel Félix Gallardo、キキ・カマレナ(Kiki Camarena, 1947-1985)白昼堂々彼を拉致し、残忍な拷問にかけて殺害した。この事態にアメリカ政府は激怒し、メキシコ当局はカマレナ殺害犯を逮捕すべく大規模な捜査を行う 1987 アメリカ当局がグスマンの捜査を初めて行い、法廷で証言者が語ったところによるとグスマンがシナロア・カルテルの事実上のボスであり、1987 年9月19日から1990年5月18日までの間に2トンのマリファナ及び4.7トンのコカインをアメリカに密輸し、約15億ドルの利益を上げていたことが 判明 1989 Miguel Ángel Félix Gallardo、キキ・カマレナ(Kiki Camarena, 1947-1985)殺害容疑で逮捕。 1989 Miguel Ángel Félix Gallardo、刑務所から使者を通して幹部をアカプルコに招集させ、グスマンを含む幹部達はカルテルを3つ(ティフアナ・カルテル、フアレス・カルテル、シナロア・カルテル)に分割することを決定。 1993 グアテマラで逮捕され、殺人及び麻薬密輸の罪で20年の刑を受け刑務所に収監されていたが、2001年1月に清掃作業車(洗濯物用カート)に隠れて脱獄に成功。 2003 ライバルであるGulf CartelのボスであるOsiel Cárdenas Guillénが逮捕されてから急速に勢力を拡大させ、アメリカ合衆国財務省はグスマンを「世界最大の麻薬組織のボス」と推測 2008 12月元婚約者殺害される。 ※2008年当時のコカインの消費ルート 2009-2011 フォーブス誌ではグスマンを世界でも有数の影響力を持つ人物として認定しており(3年間の順位は41位、60位、55位) 2013 シカゴ当局が「アル・カポネ以来、最大の社会の敵」だとコメント 2014 2月22日、メキシコ軍とアメリカ捜査当局(アメリカ麻薬取締局、アメリカ国土安全保障省など)の合同作戦により、メキシコシナロア州マサトランの高層マンションで身柄を拘束された 2015 7月11日厳戒レベルの警備で知られるエル・アルティプラーノ刑務所より、地下トンネルを用いた2度目の脱獄 2015 9月28日以降「ショーン・ペンが語る:麻薬王エル・チャポとの会談(前半)」(Kate del Castillo, 1972- のとりなし) 2016 1月8日、故郷であるメキシコ中西部シナロア州で通報を受けて駆けつけた当局との銃撃戦の末、グスマンの身柄が確保される。グスマン自身はこの現場からは車で逃れたが、その後すぐに捕まった。 2017 1月19日にグスマンはアメリカに飛行機で移送 2018 11月5日、グスマンの公判がニューヨークのブルックリン地区連邦裁判所で開始 2019 2月12日、ニューヨークの連邦地裁の陪審はグスマンに対する米国への麻薬密売など10の罪に対して、すべての罪状で有罪評決 2019 7月17日、連邦地裁はグスマンに対し、仮釈放なしの終身刑を言い渡し、罰金126億ドル(当時レートで約1兆3600億円)の支払いを命じた 2019 7月19日にコロラド州フローレンスにあるADXフローレンス刑務所に収監 |
出典:「パブロ・エスコバル」 |
出典:「ホアキン・グスマン」 |
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