イライザあるいはヴァーチャル・オードリー物語(2008年版)
Senyorita Eliza y/o Audrey virtual con sus padres
【テーマと素材】
ディスコミュニケーションの理論の物語には2人のイライザという娘が登場する。
1人目は1964年に公開されたハリウッド映画『マイ・フェア・レディ』の登場人物、イライザ・ドゥリトル(Eliza Doolittle)である。原作はバーナード・ショーの『ピグマリオン』だが、言語学者ヒギンズ博士(レックス・ハリソン)がイライザ(オードリー・ ヘップバーン)を、言語の矯正を通して淑女に仕立てあげてゆく物語である。見方によっては、社会言語学的応用の悪夢を描いた映画とも、あるいは、人間の外 面と内面のパラドクスを描く象徴的相互作用論の教材のようにも捉えられるものである。
ハリウッド映画公開の2年後にMITのジョセフ・ワイゼンバウムは、簡単だが、極めて興味深い簡単なコンピュータプログラムを作った。それ が女性の名前をもつイライザ(ELIZA)である。——もっともイライザの開発は1964年から始まり、また彼女のネーミングも映画の主人公に由来するの で、この2人の女性は双子の異母姉妹かもしれない。
イライザは現在でも稼働[=生きており?——プログラムは不死である]しており、女性にかつては年齢の話は禁句だったが、今は([現在の西 暦]マイナス1966)歳である。彼女の使用言語は英語である。
イライザ[→外部リンク]は、私たちと英語をつかえば「立派に」 会話することができる。例えばこうである[実際の通信記録]。
ELIZA - a friend you could never have before
You: i am anthropologist.
Eliza: How long have you been anthropologist?
You: well I have been anthro for over 20 years
Eliza: Can you elaborate on that?
You: Not so much, the way is very long
Eliza: Please go on.
You: It is very difficult to tearch anthropology
Eliza: Please go on.
You: Especially I do not know how to tearch the definition of culture
Eliza: Why do you not know what to tearch the definition of culture?
You: There are so many definitions of culture depending on students
Eliza: Would you like it if they were not so many definitions of culture depending on students?
You: No I would not, but I want to do something
Eliza: You are being a bit negative.
……てな具合である。イライザは感情をもった存在ではなく、ただのコンピュータプログラムである。彼女[=それ]は、私が入力した文章から パターンを見つけだし、それにふさわしい反応をしているだけである。イライザは意味不明な場合は、Please go on. という。彼女は自動詞構文を見つけると、それはいつから起こったのかを聞くことがことがある。
プログラム上はイライザは、思考をして返事をしているのではない。返事をされた方[=人間]が、イライザに反応して真剣に答えてしまうので ある。
イライザと対話した多くの人は、イライザとの議論を真剣におこなったために、深い議論をしたと感じたり、場合によってはイライザにカウンセ リングをしてもらっているような気持ちになる。
しかし、イライザを部下との電子メールのチャットとして間違って彼[=彼女=イライザ]仕事の会話として使った場合があるそうだ[ノーマン 2004:255-257]。しかし、悲惨なことに、部下と話した上司は議論が迅速に進まないために、最後には激高してしまったというのだ。
ここから言えることはさまざまだが、おそらく少なくともこう言えるのではないだろうか。
人間は、知的にみえるコミュニケーションには、相手がなんであれ、知的に振る舞うということだ。
【問題】
【1】人工知能研究などでは、このような対話の対象を知的なものとして取り扱うことを「擬人化 personification」と呼んでいるが、これは皆さんが使う言葉の意味において適切と言えるだろうか。皆さんが抱く、そう/いいえ/どちらでも ない、というすべての答えに、擬人化をどう理解し、どのように定義するかという問題が絡むはずだ。
【2】ここにみられるのは、コミュニケーションそれともディスコミュニケーションなのだろうか。機械や無生物とのコミュニケーションがそも そも可能であるかということを明らかにしてからでないと、この議論は堂々巡りをする。こういってよいだろうか。それとも、そのような議論を打ち壊す方途は あるだろうか。
【解説】
イライザとの対話を、昔から哲学者や思索する人と滑稽に表現して、哲学者(思索者)が一人でぶつぶつ言うことと類比してみたくなる。イライ ザによって誰もが哲学することができるようになったと言うことができるだろうか。
しかしながら、イライザの産みの親である、ワイゼンバウム博士はもっと悲観的である。彼女が生まれてから10歳目の年すなわち1976年 に、父親である彼は『コンピュータ・パワーと人間の理性』(邦題は「コンピュータ・パワー」)という本を書いて、イライザとのコミュニケーションは底が浅 く、人間社会にとって有害だと批判している。
しかしさらに30年以上たった現在、ロボット研究などでは、イライザを信じてしまうことを前提にした研究が盛んである。まさに、邦訳のタイ トルのように、コンピュータ・パワーがどんどん肥大化し、人間の理性は以前と同じままか、衰退していると危惧する人もいる。
ゲーム脳というほとんど意味不明の非科学的な論難は別として、結局このようなコミュニケーション不全の生起と、身体を介した対人コミュニ ケーションである臨 床コミュニケーションの議論が重要視され、[内容の品質には優劣があるにせよ]その研究が今求められているのである。しかし、この人気は内発的な ものというよりも、「イライザ問題」というものが、対人コミュニケーション研究では十分に議論してこなかったことに起因する(cf. サイボーグとの臨床コミュニケーション)。仮想の[つまりイライザと同じような熱いまなざしで]ブレイクかもしれないことに、我々はまだ十分に自覚的では ないのだ。
【文献】
ノーマン、ドナルド・A.『エモーショナル・デザイン』岡本明ほか訳、新曜社、2004年
ワイゼンバウム、ジョセフ『コンピュータ・パワー:人工知能と人間の理性』秋葉忠利訳、1979年(Weizenbaum, J., 1976. Computer power and human reason: from judgemento to calculation. San Francisco: W.H.Freeman.)
2回目
【私の教訓——前回の授業のコメント】
【1】
擬人化と表象するには、まずコミュニケーション能力に着目した「人間の定義」をおこなわないと、議論がぶれてしまう、という学生ならびに、 コメントをいただいた伊藤京子先生に感謝します。たしかにそうでした。それぞれの議論をやっている人が、コミュニケーションにおける人間的要素をどのよう な点に求めるのかで、擬人化のイメージは大幅にぶれます。擬人化の定義の前に、人間の定義でしょうという指摘は正しいと私は思います。また、現在のマン・ マシン・インターフェイスの研究領域では、そもそも擬人化の議論そのものを考えることがなく、ヒトの機械とのチューニングプロセスそのものの解析が中心化 しているので、それが擬人化かそうでないかという問題を考えることの重要性が感じられないという批判も傾聴に値します。もちろん、だからといってやる意義 がまったくないとは思えませんが。
それからパーソナル・コンピュータに名前(とくに人名)をつける初期のユーザーの話も面白かったです。私はすべてのコンピュータに名前をつ けていますが、現在では[ネットワークで繋げる作業を除いては]しばしば忘れるほど、その名前をもつ意義を感じてはいません。
【2】
こちらも結局のところ、コミュニケーションの定義に帰着してゆくのでしょうね。イライザとの対話[授業ではウェブでの事例を使いました]を コミュニケーションとするか、そうでないかは、誰がそう判断するかということと深く関わり、それにより、何をコミュニケーションと考えるているのか、ない しは、なにをコミュニケーションの問題として焦点化しているかということが重要になります。こちらも至極当然。
伊藤さんと別の研究のことで後日議論しましたが、「ヒトは自分の見たいところしか見ていない」という経験的事実は、我々の議論をより開かれ たものとするためには、克服しなければならないコミュニケーションの技術的な意味でのアポリア(難問)だと思います。もちろん決して認識論的なアポリアで も、絶対に解法できないアポリアでもありません。経験的には克服可能な希望を持てる事実がたくさんあります。「ヒトは自分の見たいところしか見ていない」 という教訓は、まず、授業において対話を基調とする教師がまず、授業をはじめる前にたたき込んでおかねばならない、認識論的前提ですし、むしろ、そのこと が、対話を通してそこからの脱出を保証する契機になるということです。
【イライザとの対話編】
W(オンナである私)「男ってみんな同じや」
——E(イライザ)「どんなふうに?」
W「男って、いつもあれせー、これせーって、うるさいんやもん」
——E「何か特別な例をあげてぇーなぁ」
W「そやね、男友達が来い、って言うてん」
——E「男友達があんたを、ここにこさせた」
W「彼は、私がいっつも、ふさぎ込んでるって言うねん」
——E「ふさぎ込んでるってちゅうのは、お気のどくですねぇ」
W「そやけど、ほんとうやねん。私、ほんまに幸せちゃうわ〜」
——E「ここに来はったことで、不幸せから逃れるための、助けが得られると思いはりますか?」
W「何か助けがほしいことは言えるわ。それだけは確か」
——E「助けがいるちゅうことは、あなたにとってどんな意味がありますか?」
W「たぶん、お母ちゃんとの折り合いがよくなるんちゃうかな」
——E「あなたの家族について、もっとしゃべってください」
W「お母ちゃんは私のことを心配してくれるねん」
——E「お母ちゃんのほかに、誰があんたのことを心配しはりますか?」
W「お父ちゃん」
——E「父親ですね」
W「なんか、あんたはうちのお父ちゃんに似てるわぁ」
——E「どういうふうに似てるのん?」
W「それほど積極的やない、ということかなぁ。そやけど、そのことに私に気づいてほしないと思います」
——E「どうして、私が積極的でないと思うの?」
W「私に議論しかけへんからや」
——E「私があなたに議論しかけへんちゅうのは、なんでと思いますか?」
W「私が恐いからやろ」
——E「私があんたを恐いと思う、それで満足ですか?」
W「お父ちゃんは誰でも恐いねん」
——E「お父ちゃんのことを考える時、他にどんなことを思いはりますか?」
W「弱い者いじめ」
——E「それとあんたの男友達が、あんたをここに来させたことと、何か関連性がありますか?」
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出典:(ワイゼンバウム 1979:3-4)ただし文章は変えた。
【今日の問題】
イライザの産みの親であるワイゼンバウムは、初期のイライザのユーザーや一部の精神科医が、これを対話による創造の可能性や治療手段として の有効性を示唆した時に、激怒したといいます。みなさんは、なぜ、この頑固親父[=ワイゼンバウム]がユーザーによるイライザ待望論に対して反発したので しょうか?
ふつう発明者や制作者は、自分のソフトが他の人たちから誉められると喜ぶものですが、ワイゼンバウムは喜ばなかった。彼の怒りの理由には、 こんな薄っぺらいコミュニケーションで喜ぶものは、たかが知れている。人間にはもっと重要なコミュニケーションがあるはずだという趣旨のものでした。
ワイゼンバウムは、いったい、なんで、こんなことで怒っているのでしょう。より具体的な彼の怒りの理由を考えてください。これが、今回の ディスカッションのテーマです。
【補足説明】
もちろんこの授業の講師は、ワイゼンバウム[風]の怒りを、それらしく腹話術風に述べる——それも解釈のひとつです——こともできますが、 それは授業のおしまいに披瀝することにしましょう。
当日、皆さんの爆笑を誘った頑固親父のブーイングは、ワイゼンバウム(1976:5-7)にあります。この本は絶版ですので、図書館で チェックしてください。今でも笑えます。またロジャー派の精神医学へのおちょくりは、同書のp.3にあります。
さて、人工知能批判派やインターネット批判をする懐疑派の紋切り型の批判の典型は、ドレイファス(2002)に代表されます。授業のコメン トで申し上げましたが、この一派は相も変わらず「身体論」で勝負を制しようとします。
彼の主張は、【身体】=【不確実性】=【責任ある関与的な行為】の三位一体の一種の神学的な議論をおこないます。つまり、メルロ=ポンティ の身体と知性の不可分性で身体の固有性やフレキシビリティさらには固有性を主張します。これは、身体を牢獄と見るプラトン(およびキリスト教)以来の西洋 の哲学のベースに対する根本的な批判を形成します。次に、責任ある関与的行為(コミットメント)をあげて、責任ある行為は、固有名ならびに具体的身体をも つ近代的な主体においてはじめて可能になると説明します。そして、この不確実性については、私はクリアに説明するのに自信がないのですが、奇妙なことに 19世紀初頭に登場する新聞により匿名性をおびた公共/公衆の概念が登場することに対して懐疑的なキルケゴールの所説を使います。たぶん人間の身体や感情 に強く関わる「絶望」などの概念を人間らしさの根拠にしてつかいます。これらの3すくみの概念装置で、非身体的で、責任性の所在が見えてこず、また失敗を 犯さない自動機械は、知性など持ち得ないことを主張します。
このことについて授業終了後に院生の質問がありました。それは、ドレイファスなどは認知科学の進歩についてどう考えているのか?——私は不 確かながら、それらの研究に対してこれらの一派は全然興味をもっておらず、せいぜい人工知能の隣接領域科学ぐらいしか考えていないのではないかという憶見 を述べました。
【文献】
【このページのパイロットモデル】
-池田光穂「イライザあるいはヴァーチャル・オードリー物語」 (URL: http://cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/070517disCO.html)
-池田光穂「イライザの父の 怒り」