レトリック
2008年度 第1学期
ディスコミュニケーションの理論と実践
22008/05/29 第7回 ディスコミュニケーションの理論と実践 (担当:西川勝)
★テーマ:【レトリック】
★参考文献:佐藤春夫著、『レトリック認識』、講談社学術文庫、1992年
・はじめに 認識のかたちとしてのレトリックの《あや》
・(10) 思考はけっきょく論理によって管理しつくされるものではなく、言語は文法によってきわめられるものではなかった。すなわち、私たちが心に思うこととことばづかいとが出会うところに成立する認識とその表現は、けっして論理と文法の手によってじゅうぶんに制御されうるものではなかった。そして、論理と文法の手にあまる認識の動きとその表現を取り扱うべきものは、レトリックだったのである。
・第5章 対義結合と逆説
反対のことばの結合
・(157) 「慇懃無礼」「ただより高いものはない」
・(160) 《対義結合》は、あるひとつのことがらについて相反するふたつのことがらをともに肯定する、あるいはともに否定する“あや”として定義される。あきらかに、それはいはゆる“逆説”と呼ばれるものである。
《対義結合》と矛盾
・(161) 標準的な定義によれば《対義結合》型の表現は、論理学の基本原理のうち、同一律と矛盾律に真正面から衝突するようである。
同一律、「XはXである」
矛盾律、「あるものごとがXであると同時にXではない、といいうことはありえない」
・(163) 言語表現がどうしても私たちの人生そのものと同様に途中の経過や関心抜きでは意味を造形しえないのに対して、論理は無時間的な、すべてを同時に見とおす(いわば《認識論的な神》の視点からの)ものの見かたをめざしているようである。
・(166) 論理の世界で「XはXである」という同一律がすっきりと成立するのは、経過をゼロと見る、無時間的・無空間的な永遠の視点を仮定するからである。あるいはもっと正確に言えば、視点抜きの遠近法のない世界の仮定である。Xは、いつどこからどう見てもXであって、けっして次から次へと新しい姿態を見せるようなものではない。いわば、Xの意味を決定的に固定化しえたという仮定であって、そのXはどこへどう持ちはこんでも変様しない固形物となる。つまり論理は、記号の意味が固定化しうるという――それはけっきょく意味を無視するということとおなじ結果になる――仮定によって、《意味論的な悩み》を棚上げする。それはみごとと言えばみごとな純粋化であった。
いつも揺れ動いて止まることのない《意味》、それを捨てきれない不純な――そしてその論理的不純さを身上とする――言語においては、同一律が潔癖なかたちで実現しないのと同様に、矛盾律も当然、固定化されたかたちでは成立しない。ことばの意味の弾力性が働くからである。
対義結合と動く視点
・(171) 対義結合の表現は、いろいろの意味で、心理学の本のさし絵によくある、見るほうの気の持ちように応じて出っぱって見えたりへこんで見えたりする立方体や、図がらと地とがふと反転してしまう絵に似ている。
★『レトリック事典』、佐々木健一監修、大修館書店、2006年
対義結合:論理的に不整合、もしくは矛盾する二つの語や句を、巧みに結合し、更にその不整合や矛盾を立言することによって、常識的な見方では捉えられないような現実を描写し、あるいは示唆する技法。
★鷲田清一:思考の調性について――九鬼周造の「哲学的図案」
(坂部恵・藤田正勝・鷲田清一編『九鬼周造の世界』ミネルヴァ書房、2002年)
・ときに文法を外しても、ときに統辞法をきしませても、そうしなければ表現できないことがある、そしてそれを表現すべく身もだえている・・・・・・。そうしたことが、すべての書き手とは言わないにしても、すくなくともある種の詩人や哲学者については言えるのではないだろうか。
もっともそれに似つかわしくないものでそれを分析する、そのような手法というものが九鬼周造の思考にはある。
【グループワーク】
1、まず、みんなで思いつく《対義結合》《逆説》を、出し合いましょう。
例)「ありがた迷惑」「急がばまわれ」「損して得取れ」「無知の知」などそして、その《対義結合》が意味することを検討してください。
2、あたらしい《対義結合》または《逆説》を作ってみましょう。作成者の意図がどの程度伝わっているか、グループで検証しましょう。
2008年5月28日朝日新聞、天声人語
三浦雄一郎 エベレスト登頂のことば:「涙が出るほど厳しくて、つらくて、うれしい」
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