言葉を失うこと
―「患者が何も訴えてくれない!」(part2)―
2008年度 第1学期
ディスコミュニケーションの理論と実践
20080612 担当:西村ユミ ディスコミュニケーションの理論と実践(9)
テーマ:言葉を失うこと「患者が何も訴えてくれない」(part2)
■本日の課題
前回の授業においては,「患者が何も訴えてくれない」にもかかわらず,遷延性植物状態患者の援助を続けることができる,その根拠について考えてみました.その議論の中で,この対人コミュニケーションに関する「もやもや」を経験したり,コミュニケーション自体を問い直したり,自分の経験と結びつけて考え直したり,新たな課題を見出すなどが為されていました.(下記,感想を参照)今回は,その「もやもや」を捉え直すために,次の課題を考えてみたいと思います.
履修者の感想,他者の経験,宿題,遷延性植物状態(意識障害)患者との関わりを手がかりにして
1.意識が明確な人と植物状態患者とのコミュニケーションについて,何が違うのか,その違いに何を見ているのか,を考えてみてください.
2.「何」が,私たちを他者へ関与すること(コミュニケーション)へと向かわせているのかを考えてみてください.
注)予定していた,「侵入者――他者の心臓と言う「よそ者」との対話」については,資料を配布しますので,各自で目を通してください.
■時間配分
16:20〜16:30 VTR『あせらないけどあきらめない』
16:30〜16:50 説明とインタビュー
16:50〜17:30 グループワーク
17:30〜17:50 発表とコメント
■インタビュー
遷延性植物状態患者さんの援助を経験されたことのある方に,インタビューによってそのときの経験を語っていただきます.経験者の皆さま,よろしくお願いいたします.
■感想より
私たちの課題
・そもそもコミュニケーションとは何だろう?.
・もう一度ケアについて考えたい.
・我々がコミュニケーションと呼ぶ活動には多くの活動が含まれる.コミュニケーションのエッジに関わる議論をするならば,コミュニケーションと呼んでいる活動には,どのような活動が含まれているのかを考えないと,議論が拡散してしまうように感じた.
□コミュニケーションに対する意見
・私はコミュニケーションの本質は,相手を無条件に肯定することだと思います.・・・だから直接に会話できなくても,こちらから相手を肯定すれば,コミュニケーションは可能/成立すると思います.
・人に対してのケアやコミュニケーションは,「自分から愛情をもってかかわろうとする」といった意識が必要であると思います.また,たとえ植物状態の人であれ,本当に相手の方に意識を向けることができれば,その人の欲求といったものが感じられるのでは?と思うし,むしろそこでは,「自分がケアしたい」といった,“自分自身”をみるよりも,相手の方に意識を向けることが必要だと思います.
・コミュニケートしようとしている者が相手と何をしたいと感じているのかを整理しないといけない.
・コミュニケーションは「反応を求めてするもの」なのか,「反応を求めなくでするもの」なのかと考えると,「錯覚」は必要なくなります.コミュニケーションは,根源的に「コミュニケーションの種」を自分の中にもっている自己中心性なのか.相手を求める「関係性を持つ自己中心性」とも考えられる.
・「コミュニケーションへの希求」と「コミュニケーションがとれたような気がしたときのうれしさ快感」をもやもやしたままおいておかないと,看護の継続はできないのではないか.プリントのインタビューは,みな明確な答えを持っていないように思う.
・期待する反応があるまで待つのか,わずかな反応を期待するレベルに思い込むのか,モチベーションの持続には,どちらが重要なのだろうかと思いました.
・「普通のコミュニケーション」と「モノ,意識障害の人等に対するコミュニケーション」は構造が違う(図あり).
・通常のいわゆるコミュニケーション,相手のココロの存在を知りながらのコミュニケーション,ココロがあるかどうか分からない相手とのコミュニケーション,ココロがないと分かっている相手とのコミュニケーション,この辺りのコミュニケーションのことが,もやもやしてよく分からない.でも,この辺のことを無理に言語化する必要があるのかもわからない.
・コミュニケーションは思い込みによって成立しうる.コミュニケーションがとてなくても「人」「平等に扱われうる人」としてできるだけ「人と接する」という意見をもって行動している.植物状態の人,もしくはコミュニケーションがとれないとされる人に対しても,あえてコミュニケーションをとろうとしている.そこには何かが『ある』のだ.「何かある」感じるからこそ,私たちはあえてコミュニケーションをとろうとするのかもしれない.
・とても難しいテーマだった.言葉では表せない何らかの「力」が看護師に何かを及ぼしている.それはある意味,健常者が及ぼすより大きな「力」なのかもしれない,と思った.
□VTRを見て気づいたこと
・最初,私がVTRを見たときは,「傍目にはALSと大差ないし,議論も似たような流れになるのかな」と考えていた.しかし実際には「遷延性意識障害に比べてALSの方が神経質になる」という意見が聞けてよかった.
・植物状態の患者さんを初めて見ました.目や口が動いている患者さんが多く驚きました.コミュニケーションが錯覚からはじまるという意見になるほどと感じました.錯覚が錯覚でなくなってくる・・・本当に恋愛にも近いなと思いました.
・「植物状態」という状態は,もっと何も動かない状態だと思ったので,意外を動きがあること驚きました.寝たきりで微動だにしないという状況よりは,モチベーションが維持できると思いました.・・・人形のような“物”だと反応が見込めないのが明白なので,この場合の話しかけるという行為は,また違った意味を持つのではないかと思いました.なので,意識障害の人に話しかけるというのは,人によって“物”として接しているか“意識があるがコミュニケーションできる状態でない”と考えて接しているのかによって意味が違うと感じました.
・患者を人格として扱うことは,周囲の人間が患者を人格化しようとする意識に起因していると思われる.しかし,具体的な人格化の内容をどうするかは,周囲の人間の,自らの患者に対する接し方を正当化するためのものであるように感じる.
・もやもやは確かに残るのかもしれない.もやもやを突き抜けるのは,難しそうである.
□経験の想起
・「遷延性意識障害の人とは,まるでテレパシーでつながってしまっているかのように本当に思えていた.だからこそ,いろいろな話を一方的にお話していたように思う.」
・犬が死んだときのこと:死んでもやはり話しかけました.家の2階も見せてあげよう・・・と死んでから抱っこして2階を父と見せて回ったことがあります.
・大学の大教室で水俣病のビデオを見たとき,笑った人がいた.人は驚きの程度が極度に大きなとき,笑いが出てしまうことがあるのだと実感した.
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