理解と誤解
2008年度 第1学期
ディスコミュニケーションの理論と実践
2008/06/19 第10回 ディスコミュニケーションの理論と実践 (担当:西川勝)
★テーマ:【理解と誤解】
★参考文献:奥村隆著、『他者といる技法 −コミュニケーションの社会学』、日本評論社、1998年
第6章 理解の過少・理解の過剰 −他者といる技法
・(218)「理解」は、他者と共存するためのひとつの有力な「技法」である。私たちは、これを知っており、じっさいにいつも行っている。また、それと関係するある苦しさも知っている。
・(227)他者は、いつも「理解」では到達できない「過剰さ」をもっている。つまり、「理解」はいつも他者に対して「過少」である。私たちは、そのことをいつも知っていて、自分の他者への「理解」が過少であることに悩んでいる。そしてまた(どちらがさきかわからないが)、自分に対する他者の「理解」が過少であることに、いつも敏感である。
・(228)「身体」として出会うということは、「理解」=「わかりあう」関係をつくる最大限の可能性を開くことであるが、そこでは「暴力」=「なぐりあう」関係の可能性も最大限に開かれる。
・(229)「理解」という「身体」を記号ととらえ「こころ」に照準する技法は、「身体」に照準する技法を放棄するところにはじめて成立する。いいかえれば、いま「理解」という技法をとっているとしても、それがいつ「暴力」や「性愛」という「身体」に照準する技法に転換するかわからない。
・(235)なにもかも「理解」されてしまうとき、私たちは「こころ」を自由に働かせることはできないだろう。むしろ、私たちの「自由」は、他者に「理解」されないことを条件にするようだ。
・(238)他者を完全に「理解」できないということが、私たちが多くの人を愛することができる仕組みなのである。
・(238)「こころ」が不透明であることが、「私」を可能にするとともに、「社会」を可能にもしているのだ。
・(246)私たちはときに、「完全な理解」が「適切な理解」であると取り違える。 ・(254)私たちは「わかりあおう」とするがゆえに、ときどき急ぎすぎてしまう。しかし、「わからない」時間をできるだけ引き延ばして、その居心地の悪さのなかに少しでも長くいられるようにしよう。その間に、「わかりあう」ことが自然に開かれる場合も、「話しあう」ことを意識的に開く場合も、「わからないまま」ただいっしょにいるだけという場合もあるだろう。しかし、「わかる」ことを急ぎすぎ、その時間を稼げないと、私たちは多くの可能性を閉ざしてしまう。私たちは「わかる」ことにすぐ着地したがる。しかし、より困難で大切なのは、「わかる」ための技法よりも「わからないでいられる」ようにする技法であるように私は思う。
★配付資料:「猫の皿」(古今亭志ん生 飯島友治編、『古典落語 志ん生集』、ちくま文庫、1989年)
【グループワーク】
五代目古今亭志ん生の落語「猫の皿」を聞いて、この落語のなかに現れている「理解と誤解」について、自由に感想や意見を述べあってください。
そして、茶屋の爺さんについてどう思うかを発表してください。
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