創新普及は、本当に線型に大衆に受け入れられるのか?
Do the Innovation
populists really dream of becoming millionaires themselves by their
poor outcome?
池田光穂
さまざまな技術革新の社会史を取り扱った書物や、経営学の教科書には、技術的産物(とりわけ工業製品)のイノベーションの大衆への膾炙は、少数 の革新者からはじまり、先端的な部分、そして大衆化するというリニアが受容仮説が常識のごとく記述されている。(下図)
クリックすると拡大
そして、その後半部分には、そのようなイノベーションを十全に享受してはいないと思われる保守派さらには、懐疑派がいると言われる (Moore, G.A., 1995. Inside the Tornado. New York: Harper Business.)。
こういう説明は、ほとんど多くの宗教や政治の実践や言説が受け入れられる経験的プロセスと同じように思われいっけん違和感はない。しかし、それ は、社会現象の外面つまり皮相的な見解に過ぎないと思われる。
かりに百歩譲って、このような社会現象が真実であったとしても、イノべーティヴなものが、それぞれの個人に受け入れる内的プロセス(つまり心理 学)あるいは実践的変化と当事者による解釈のプロセスが同じ(=同型)であると、信じる馬鹿はいまい。イノベーションは、ユーザーにとってインスピレー ションの革命かもしれないが、実際に使ってみて、その効果が後にどれほどの革命的変化をもたらすのかは、誰でも当初はわからずじまいである(古くはパソコ ン、近くは携帯電話や電子メールのことを想像すればよい)
内的プロセスからみられる、イノベーション的産物と人間の関わりあいは、決してリニアなプロセスでは説明できず、また、訳知り顔の経営学者よろ しくリニアであるという表面的な常識を再確認してなにをなさんとするのか?
我々は、イノベーションの産物と人間のつき合いについて、いまいちど民族誌学的再検討をおこなう状況に来ているようだ。
●クレジット:イノベーション(刷新)は、本当にリニア(線形)に大衆に受け入れられるのか?/イノベーションは、本当にリニアに大衆に受け入れられるのか?/創新普及は、本当に線型に大衆に受け入れられるのか?