はじめによんでください
虚構としての認知症
Dementia Myth, and or the disease of fiction in Japan
「虚構としての認知症ケア」という非常に人を驚かすようなテーマであるということだったんですけれども、私の今日の話はまさにそのことに到達す るために、なぜ「虚構としての認知症ケア」というタイトル、研究テーマ、話題を提供させていただくのかという話を半時間ばかり続けていきたいと思います。
具体的な認知症ケアに関する経験や、直接の介護・看護の現場から湧き上がってくる様々な問題・考え方・行動についてのお話は、私の後にバトン タッチをする、私の職場の同僚でありますけれども、西川勝さんの方から話題提供していただくということです。
まず最初の私の役割は、ウォーミングアップ、「虚構としての認知症ケア—ためらうことの意味—」というふうなものが、どういう形で出てきたのか ということについての話をさせていただきます。
いきなり変な問題設定でありますが、「忘却は悪者か」ということですけれども、「博士の愛した数式」ですとか、認知症ということが、今日では、 多くの人たちが話題にしており、電車の中での会話で、「近所の人が認知症になって大変なんだ!」ということを聞く。そういう話というのは日常的にどこでも あるんですね。その中にある、我々がもつ認知症のイメージというのは、非常に大切なもの、物事の認識が様々な理由で落ちていくそういう人たちという非常に 可哀そうで、お互いに付き合うことにおいて不都合であるというものです。覚えたものをすぐに忘れてしまい、食事を食べたことさえ忘れてしまうというよう に、忘れるということが非常に不都合なことに捉えられています。あるいは、愛した人のことを忘れてしまうというのは人間にとって非常に不幸なことであると いう意識が、急速に蔓延しているわけです。
しかし、本当にそうだろうか。人間は覚えることと、忘れることのバランスを取って組み立てていくというのが、健全な在り方だと思います。あまり にも忘却ということを悪者にするのはどうかという話であります。しかしながら、逆に、忘却というふうなものが、非常に悪者にされることもあります。ここで 書きましたけれども、「記憶することの意味が賞揚されるとき」、記憶するということがいかに大切なことかという意味ですね。
例えば、「忘却への警鐘」というか、忘れ去られること、足を踏んだ人は自分が犯した罪や迷惑をすぐに忘れてしまうけれども、足を踏まれた人はそ の痛みを忘れないという話というのがあります。これは、我々個人の体験、個人の忘却の物語ではなく、済んでしまったことはいいということ。加害者と思われ る人は、済んでしまったことを忘れようという形で忘却してしまう。しかし、被害者はそうではない保障を得ていない、保障はいらないが謝罪が必要なんだとい うこともある。謝罪をするためには、加害者に罪の意識を思い出していただかないといけないという社会問題であります。
また、「記憶はアイデンティティである」ということがあります。人間というのは個性をもった存在でありますが、その人が1秒1秒刻んでいく人生 の経験そのものがアイデンティティであるという考え方があります。そういったものがなくなると、人間が空っぽである。ないしは、どんどん空っぽになる。そ の人のアイデンティティは記憶の塊であるということ。
例えば、認知症ケアの話と認知症ケアに関する話が、どんどん進んで行くと、そのプロセスの中で同時並行して、高齢者に対する価値の見直しという のが出てきますね。つまり、おじいちゃん・おばあちゃんというのは、いろいろな人生の経験を培ってきた人なので、これから経験を自分たちの体の中あるいは 脳の中、身体の中に刻んでいく子供たちとマッチングさせようという話がある。なぜなら、かつては明らかに対話があった、しかし現在は世代間を越えた対話が ない。
だから、おじいちゃん・おばあちゃんを小学校に連れて行って対話をさせよう、地域の話をしてもらおうということがある。個人の中に置かれる記憶 は世代を越えるという話であります。記憶を賞揚するということの流れであります。こういうことが最終的に、ぼけ、あるいは、記憶を忘れるというものがどん どん悪者になっていったというなんです。
ここで、「忘却というものは悪者か」という問題提起なんですが、もっとプラスの面もあると思うんですね。嫌なこと全部抱え込んでいたら、ストレ スだけになって精神的に破綻してしまう。だから、我々は都合のいいことは覚えていて、都合の悪いことはどんどん忘れる。あるいは、忘れることで新しく自分 を生まれ変わらせるという元気の活力にもなるわけです。単純に忘却を悪者とすることはできないんだけれども、忘却ということに対してのもの凄い恐れという ものは、我々が共有している社会的な経験であると思います。これを巡って今日のお話をしていくわけです。
3つの問題提起
まず、ぼけ・痴呆というものが、2004年頃から2005年頃にかけて、認知症と名称変更しました。言葉の使い分けということで言うと、 「やまいとしてのぼけ」と「疾病としての痴呆」というふうに書きましたが、我々医療人類学の世界は、病気の研究をするときに、ごく普通の人たちに病気の体 験についてのインタビューを取ります。その時に、素人が判断するわけですから、ひょっとしたら医学的には間違っているかもしれないんだけれども、当事者が 自分たちは病気だというふうに主張しているものを、我々は「やまい」と呼びます。例えば、その人が医療機関に受診をして専門家に診断されたものは、当事者 の自覚とは関係なしに、そういうものを「疾病」と呼びます。英語では「やまい」は「illness」、「疾病」は「disease」といいます。
例えば、要介護認定などの社会的なものを認めてもらうためには、疾病であるということを認定してもらわなければならないわけです。だから、 医療の専門職、つまり、医師の診断が不可欠であるということです。実際に受診したり認定を受ける前に、家族が「どうもおかしいんじゃないか」という病気の 認識は「やまい」であるということですね。端的に申しますと、「やまい」というのは「ぼけて来たんじゃない?」「何かおかしくなったんじゃない?」 「ひょっとしたら、認知症なんじゃない?」という意識は「やまい」であります。そして、実際に受診して認定される、あるいは、認定されないこともありま す。それは専門職の医療者が、疾病の基準に基づいて判断するということです。
我々の人間存在としての病気の体験というのは、「やまい」の体験と「疾病」の体験・認定というこの2つのものから成り立っているということ がわかる。これを1つ確認したいと思います。
それから、認知症という言葉がどういうふうに生まれてきたのかという「認知症誕生ものがたり」です。認知症という名前が登場する前までは、 認知症はなかったという言い方もできますが、哲学では「ノミナリズム」というふうに呼びます。名前を名付けることに慣れてしまうと、あたかもその言葉が昔 からあったかのように思われるわけです。しかし、歴史を紐解いてみると、実は認知症と命名される前は認知症はなかったわけです。「いやいやありましたよ。 ぼけとか痴呆と呼ばれてたものでしょ?」というふうに言われるかもしれない。しかし、それは痴呆というものなのです。
認知症の名称変更の最大の問題というのは、功罪というか良い面もたくさんありますが、ねじれた面というのは、認知症と言葉を変えたからと いって「疾病」としての痴呆症の概念は変わらないということなんですね。むしろ、認知症という言葉が「やまい」として流通する、一般の人たちにも認知症と いう言葉が普及するというプロセスの中で、何か新しいものが生まれてしまった。それは、専門家と素人の意識の違いです。そういうねじれを紐解いて行くに は、「認知症誕生ものがたり」というものをきちっと押さえて行く必要があるということです。
次に、「ぼけの医療化」ということですが、メディカライゼーションというふうに専門家は呼びますが、日常生活の中で、医療の対象とされてい なかったものが医療の対象になる、あるいは、治療の対象になる、それに対する薬が開発される、その薬を飲むという形で、病気として取り扱われていく。近代 医療がそのことをきっちと対処していかなければいけないというプロセスを我々は「医療化」と呼んでいます。
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今日はこの3点をお話するというか、私の結論はもうこの3つということになります。これからはそのことを少しづつ確認していくことになりま す。
やまい(ぼけ)と疾病(痴呆)
繰り返します。「やまい」と「疾病」、これをうまく区別する。英語では「やまい」は「illness」、「疾病」は「disease」とい います。「やまい」とは、普通の人の病気の意識のこと、あるいは、その用語を指します。「疾病」とは、専門家が学問の中で使う認識や医療を指します。従っ て、「やまい」が「疾病」と合致することもあるし、「やまい」と「疾病」が平行線のまま辿っていくこともあります。また、「私は病気じゃないか」という心 気症、不安な状態がありますが、この場合はご本人や周囲の人たちにとって「やまい」の認識はあるんだけれども、「疾病」ではない。
逆に、「私ぴんぴんしてるよ」と言うんだけれども、いろいろな検査を受けて、「糖尿病の気がありますね」と言われ、経過観察していこうとい うことになると、当事者は「疾病」と認定されることで、初めて自分の体の中に「やまい」の認識が生まれる。ということは、「やまい」の認識はなくて「疾 病」はあるということであります。
このように「やまい」と「疾病」の2種類に分けて、その当事者と当事者を生物医学的、現代医学的に診断することを区分すると、病気というも のがどういうふうに当事者に捉えられているか、あるいは、「やまい」ということは社会的に共有しているものですから、例えば、風邪とインフルエンザは生物 学的にはきちっと定義し、診断できるわけですが、我々の日常生活の中では、「それは風邪だよ」とか「それはインフルエンザだよ」「じゃあ実際に医者のとこ ろに行ってみよう」という形で、「やまい」の中にも「疾病」の用語が輸入されて定着されているものもあります。いずれにせよ、「やまい」と「疾病」という 2つがあるということを認識すると、当事者と当事者を取り囲む人たちがどういうふうに病気を認識しているのかということが、クリアに理解することができま す。
ぼけという言葉
「ぼけ」という言葉ですが、これは明らかに日常生活の中で知っている言葉なので、皆さんには言わずもがなということですね。ここで再確認し てみましょう。そうすると、「ぼけ」という言葉は「疾病」としては、加齢に伴う痴呆状態、認知症の状態と認識するかもしれません。しかし、「ぼけ」という のは「この写真機ぼけ?」のような用語であります。だから、我々が認識する「ぼけ」というのは、ピントがずれているという視覚的なイメージが非常に強くあ ります。
<痴呆>の登場
痴呆というものが、どういう形で我々の日常生活の中に存在するのかということになりますと、認知症という名前が登場する前は、痴呆という言 葉がありました。この痴呆という専門医学用語がありましたが、一般の人たちの間では1960年代の終わりから居宅寝たきり老人実態調査というものがされ て、高齢者ケアの社会問題化、「大変だ!何とかしなければ!」という意識が出てきました。現在であれば高齢者福祉の社会問題化の授業の中では必ず取り上げ るものですが、1972年に有吉佐和子さんの「恍惚の人」という小説が出版されて、「ぼけ」から「痴呆老人」への疾病概念が一気に日本国内に普及する時代 でありました。
加齢の<医療化>
さて、加齢・エイジング、すなわち、年を取ることですが、加齢がどうして医療化されるのか。先程申しましたように、医療化・メディカライ ゼーションとは、以前は医療の対象ではなかった身体の状態が「疾病」とみなされる。「やまい」ではなく、「疾病」と見なされ治療の対象になっていく。ある いは、その加速化現象を我々はよく医療化と呼びます。
では、年を取ることがなぜ医療化になるのかということですけれども、医療化というのは医療のアクセスがし易くなると進みます。例えば、歯の 治療は自己負担していますが、これを無料にしたり、安くしましょうとか今までの半額にしましょうとか言うと、明らかに歯科医の診療に行く人が倍増するはず です。実際問題として、この自己負担の無料化が1975年から1985年まで続き、医療化が始まる時期とほとんど同時でした。
それはどうしてかと言うと、経済的な理由、それはお金があるから医療機関に受診するということではなくて、無料にすると敷居がぐっと低くな るということです。受診すると病気の統計で明らかに老人の有病率が上がる。要するに、社会的に有病率が上がり、医療化が加速するというプロセスになりま す。
医療化の弊害
医療化の弊害というのは、国民医療費の圧迫に代表されます。それはなぜかと言うと、日本は世界にも誇れる国民皆保険制度を実施しているから であります。病院を高齢者の受け入れ施設にしてしまうことを社会的入院と呼んでいますが、病院が高齢者の施設というように機能するようになる。医療化と国 民皆保険制度。医療化というのはトレンドですよね。国民皆保険制度というのは一種の社会保障制度ですね。これが機能しているということが、最終的に社会的 入院を増やしてしまう。それで医療費が圧迫されます。
それと、高齢者は相対的に増えていきます。その高齢者に自己負担の無料化ですから、全ての医療が無料になったわけではなく、誰かが負担する ということになります。要するに、高齢者の自己負担は無料ですが、その分を国や組合が肩代わりしなければならないという状況になると、最終的には経済的に 破綻してしまうということで、10年で国民医療費の無料化というのは終わってしまったんですね。
ぼけ老人問題
「痴呆」という言葉が蔓延するということですけれども、「痴呆」と「ぼけ」というのは同義語として、「やまい」として存在します。この「ぼ け老人問題」というのは、1960年代末から1970年代初頭にかけて急速に社会問題となりました。そして、その当時の「老人問題の2つの極」と書きまし たけれども、「寝たきり老人」と「ぼけ老人」という2つの極があります。しかし、この当時は社会問題として何とかしなければと考えられていたのは「寝たき り老人」の方でありました。どちらかというと、「ぼけ老人」はその背景に隠れていました。
ぼけ問題の焦点
現在における「ぼけ問題」「認知症問題」というのは、どういうものが挙げられるかというと、痴呆老人の治療という医療化、寝たきり老人がケ アの対象になっている、福祉専門職の介護化、福祉専門職の比重がどんどん高くなっている。医療者から看護者へ、看護者から介護者へという形で、単にバトン が渡されて行くということではなく、医療者の役割もその上に乗っかる、看護者の役割もその上に乗っかる、更に福祉専門職の社会進出という3層構造というも のが非常に厚くなっていくということになります。
当然たくさんのマンパワーが投入されるわけですから、これはさまざまな問題が現れます。その問題というのは、ぼけを何とかしなければという 問題ではなく、具体的にケアをどういうふうに実施するかという社会的問題であります。そうすると、介護も看護も医療の側も個別の技術的な問題を解決しなけ ればならないということで、社会問題がどんどん洗礼化されていくというプロセスになっていくわけです。
医療〜看護〜介護
トレンドとしては、医療から介護へ、看護を経由して介護へ力点を移動しています。医療から看護へ、看護から介護へ、介護から今現在、認知症 サポーターというのがありますが、認知症への名称変更に伴って、介護だけではなくて社会的支援をしていこうという形へ力点が移動しています。それからバト ンを渡していくだけではなくて、それぞれが役割分担をしていくという相互連携というのが現在求められています。この流れを一気に押し進めたのが、2000 年の介護保険法と2006年の介護保険を見直した新システムの導入です。
介護保険法の意義
介護保険法の意義ということですが、明らかに社会的入院を減らすということであります。それから、居宅介護を推進するというために、ケアマ ネ・介護専門支援員を導入するということ。特に、公的なものから更に私的な機関へ社会資本が投入される。社会資本というのは、国民がもっているお金がそう いう部門に投入されるということです。このベースを作ったのが介護保険法であります。
介護予防の誕生
更にその先に出てくるのが、介護予防というものであります。医療介護者の産出を防ぐためにはどうしたらよいのか。そのためには、高齢者に対 するさまざまな介入、運動機能訓練だとか、栄養改善であるとか、口腔機能の健康管理というものが始まります。もちろん現場でも、理論家の間でも、介護予防 の実行性についてさまざまな議論がされています。あるいは、認知症の改善というのもありました。
介護予防が更に進んでいくと、社会的支援ということになるわけです。介護予防、痴呆予防のための社会教育を普及していく、財政逼迫を回避す るための要介護者に対する地域ぐるみの支援ということを推進していくということです。
介護予防の限界
しかし、実際にこのような社会教育を行うと、例えば、市民の人たちにそういう教育をすると、「うちの家族はぼけじゃない、痴呆じゃない」と いう反発が出てきました。これは、ぼけ・痴呆というのがスティグマ・社会的な烙印であるということですね。社会的支援を進めていくためには、このスティグ マを何とかしなければならないという問題意識が高齢者介護者・医療者から出てきたということであります。それで、痴呆の改称ということがテーマに挙がって くるわけです。
<痴呆>改称問題
2004年には、老年精神医学のグループの人たちが、痴呆に対する社会的スティグマが非常に強いと、要するに、痴呆と聞いただけで非常に嫌 われるということで、痴呆の言葉のイメージを改善しなければならないと考えていました。痴呆・ぼけということが、明らかにその人の人権・尊厳に対してダ メージを与えるという認識が出ていました。
それで、厚生労働省がその審理委員会を作って、さまざまな興味深い議論があったようですが、最終的には認知症を行政法律用語として変更しま しょうということに勧告して、そのことを受けたということです。
介護保険法というのがありますが、他の法律と比べると非常に奇妙な法律で、用語の定義が鬼のようにありますよね。その中に、痴呆を認知症に 変更するということが書いてあります。従って、行政法律用語が変わったわけですから、認知症というものに違和感がある人たちもいましたが、医学用語も変更 することになりました。
名称変更の問題点というのは、当時から指摘されていましたが、名称概念が変わっただけで疾病概念は変わっていないということです。専門家の 人たちにおける痴ほう症の研究の概念、あるいは、診断の基準が変わったというわけではありません。しかし、素人の「やまい」の側は、認知症という新しい病 気ができた、痴呆症とは違うんじゃないかという意識があります。スティグマというものが一瞬でも軽減されたというのは事実ですが、その認定のケースが以前 にもまして増えたということがあります。
それは介護保険法が社会の中に定着したということもありますし、老人人口が増加しているわけですから、当然、認知症というものがどんどん増 えてくるわけですね。そうすると、認知症は凄く恐いとか、治療の対象である、介護の対象であるということで、そういう見下す態度が社会的スティグマを生み 出すわけです。このスティグマはもちろん恐ろしいスティグマではありませんが、名前を変えただけではそれ程スティグマは軽減しなかったということです。
ケースの増大と要介護認定のために、4年経った現在では、こういう認知症というシンポジウムをするだけで全国から人が集まるということにな り、明らかに認知症という言葉は市民権を得たということですね。
<ぼけ>の医療化
医療化という観点から申しますと、認知症・痴呆症・ぼけをどういうふうに呼び変えてもいいんですけれども、それは疾病概念が全く変わらない ということですから、ぼけの医療化は確実に進行しています。そして、症状というものが疾病として実体化する。認知症という症状を指すような言葉が、病気だ ということで、誰もがリアルな病気だというふうに強く信じるようになりました。
今からバトンを渡す西川さんは、難病モデル化したのではないかというふうに指摘されています。病気なんだけれども、決定的な治療が見つから ないという難病モデル化としての認知症と言われています。
では、市民は医療化にされるがままになっていたのかというと、必ずしもそうではない。1985年老人の医療費無料化が廃止され、認知症の医 学的研究というものがどんどん進んでいく。そういう中で、1998年のゴールドプランが終わった年ですが、赤瀬川源平の「老人力」という本が出版され、流 行語大賞になりました。もの忘れがひどくなると、「最近、老人力が増したな」ということです。「忘却は悪者か」と冒頭に申しましたが、違った角度で物事を 見ることができるという動きがありました。
しかしながら、こういう声というのはサブカルチャー的なものの中に回収されていって、あまり大きな力というのはありません。それはなぜかと いうと、認知症に関しては生物医学がどんどん進んでいって、認知症科学とか脳科学がどんどん進んでいったということがあります。MRIという画像診断を誰 もが受けるようになって、認知症が実体化してくるということが加速してきました。
認知は社会現象
認知というのは、社会的な現象であります。1960年代までは認知というのは、法的に認められた子供を認知するということが使われていたわ けですが、この当時、認知科学・コグニティブサイエンスという学問が日本に普及して、生物学的にも、画像診断のような技術と供に心理学的な技法というのが 洗練されていって、今では認知というのは人間の高度な認識のことを意味するようになりました。認知や記憶が非常に強い価値をもつようになりました。認知や 記憶ということへの興味や関心のため、脳科学の本は爆発的に今売れています。大きなマーケットを作っています。
そして、認知や記憶を失うことへの恐怖を以前よりも強くもつようになりました。あるいは、ビジネス本を見ると、認知や記憶を維持するための ノウハウというものが蔓延しています。暗算・音読・書写をすると賢くなるんじゃないか、ぼけが止まるんじゃないかという形で脳科学への期待というのがあり ます。
しかし、かなり怪しいものもたくさんあります。こういうものをニューロミス、神経神話というふうに研究者は呼んでいます。古い神経神話に は、賢い人は脳のしわが多い、魚を食べると賢くなるという典型的なものがあります。近年もっとも有名な神経神話は、ゲーム脳です。ゲームをするとばかにな るというものですが、これは証拠はありません。脳トレは神話すれすれです。というのは、実は脳トレを開発した会社の先生、東北大学の川島先生は、頭が良く なるとか治るということはいっさい言っておりません。論文も書かれていますが、自分の理論や自分の研究が神経神話にならないように慎重にされています。し かし、素人から見れば、神経神話になりつつあります。
<ぼけ>は真実
結論になりますけれども、「ぼけ」というのは真実です。ぼけ・痴呆・認知症というのは、当事者にとっては真実であります。それは、「やま い」という意味での真実でもあります。ぼけ・認知症の人々への看護や介護も個別的真実であります。しかし、普遍的な認知症の人はどこにもいません。認知症 の人は最初から終わりまで、個性をもった1個の人間であります。
ケアが虚構になったとき
従って、ケアが虚構になるとき——つまり、認知症ケアというのは人間の個別性を試みなくなるとき——認知症の人たちは個性を失った非人格的 存在になってしまいます。個性を失った非人格的存在を取り扱うケアというのは虚構に限りなく近づくというのが、かなり長くしゃべり過ぎましたけれども私の 前振りであります。この話は非常に概念的な話になり過ぎましたので、それを押さえるには私の同僚であり、信頼のおけるパートナーである西川勝さんにバトン タッチをして、もう少し「虚構としての認知症—ためらうことの意味—」についての具体的なものについてお話してもらいたいと思います。私の話題提供につい てはこれで閉めさせていただきます。ご静聴ありがとうございました。
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