社会人類学
social anthropology, しゃかいじんるいがく
解説:池田光穂
社会(society)という人間集団を研究対象にする人類学的研究領域 を社会人類学とよぶ。社会集団の構成員は人間であり、それらの集団は民族集団を構成するこ とがあり、これらの集団は口頭伝承(follore)をもち、また独自の文化と人間固有の文化的共通性ももつので、社会人類学は、[形容詞抜きの]人類 学、民族学、民 俗学、文化人類学と同義語であるという主張も古くからある。
そのため、実際に、文化人類学の同義語として、日本では民族学や民俗学が、英国では社会人類学が、フランスでは民族学や社会人類学が、ドイツ・ オーストリアでは民俗学や民族学が、スペインでは民俗学が、そして米国では、民俗学や文化人類学という用語がそれぞれ使われている。
また、文化人類学と社会人類学の違いを、前者は人間文化の共通性や一般性を主に探求し、後者はいわゆる特定の社会集団に関する民族誌あるいは民族誌学(ethnography)を記述し比較分析する学問であると区 別する人もいる。
このようにみると、民族学、文化人類学、民俗学、社会人類学、[形容詞抜きの]人類学は、みんな同じだということになってしまうが、実際には、 それらの用語法に関連づけた理論化がなされたり、先にあげた、それぞれの国の事情や国家の歴史的経緯の影響を受けて、独自の発展を遂げた――つまり多様性 があり、それらの学問名のあいだにコンセンサスは無理としても具体的峻別をつけることができる――という事情があるため、それらをやみくもに統一する必要 はないように思われる。[→プロクルステス的な概念の濫用]
■閑話休題01:文化人類学と社会人類学の相 違を 論述せよ
それぞれ、文化人類学者、社会人類学者と僭称する人たちの頭のなかにある「自分が奉ずる学問パラダイム」をそれぞれ言う。これが類似点、あ
るいは相似点。前者の頭になかには、文化を担う主体が想定されていて、前者が考える「社会」は、その集合というレベルでしか想像力がありません。文化人類
学者が、隣接する心理学者を嫌いながら主体の心的メカニズムに回帰する傾向は否めません。後者は、ドーバー海峡を挟んだデュルケームの社会がもたらす集合
的な観念体系の呪縛から忘れることがありませんので、主体=行為者は、その集合的システムを「反映」した行動をとります。デュルケーム的構
造が、後者の人
たちが考える「社会」そのものです。主体は、その構造を体現するエージェントですので、取り換え可能ですし、取り換え可能な「フィールド的応答」を期待し
ています。後者にとって「文化」は体系的な表象をとらない限り、あるいは主体的差異というノイズがはいると、とても不機嫌になります。後者にとって「文
化」は空疎な概念です。これらの差異は、社会と文化という水と油のような相互交流不能な概念を通して、著しい対比をなします。
■閑話休題02:社会学と社会人類学の違い が、この説明からは見えてきません?
デュルケーム派のフィールドワーカーがドーバー海峡を渡ったというのが、社会人類学の「ウラ」の定義ですよ。
《根拠》「ドーバー海峡を挟ん
だデュルケームの社会がもたらす集合 的な観念体系の呪縛から忘れることがありません」上掲「閑話休題01」)
文献
リンク
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From Left:
Edward Burnett Tylor(1832-1917), Bronislaw Kasper
Malinowski(1884-1942), Alfred Reginald Radcliffe-Brown(1881-1955), Mary
Douglas(1921-2007), Edward Evan Evans-Pritchard(1902-1973), Edmund
Ronald Leach(1910-1989)
It is with the
lawyers
that the problem of the modern state originates as an actual theory;
for the lawyer's fomulae have been rather amplified than denied by the
philosophers - Harold Laski, The Pluralistic State.1921.