はじめによんでください
臨床哲学と臨床人間学
以下は、浜渦辰二・大阪大学大学院教授による、木村敏の「臨床哲学」に関する引用ならびに浜渦教授による「臨床人間学」に関する説明である。
「木村は、「タイミングと自己」(1993年)という論文のなかで、次のように書いていた。
「精神病理学は、「こころの問題系」ともいうべきものに原理的に関わっている哲学との関係を避けることができない。……精神医学が患者のこ ころの構造を解明するという哲学的課題に直面しても、現場で直接に哲学者の協力を求めることはできない。精神科医はみずからの厳密な意味での哲学的思索を 行うことによって、この課題に対応する必要がある。……精神病理学は「臨床哲学」であるという側面なしには成立しえない」と。
このように精神科医がみずからの行う哲学的思索を木村は「臨床哲学」と呼んだ。しかも、「精神科医が臨床哲学的な思索を行うことを要請され るもうひとつの重大な理由」として木村は、「そこで思索の主題となる「患者のこころ」が、治療関係の中で、治療行為を通じてしか見えてこない」ことを挙げ ている。そのような「患者のこころ」に接近する手段は、「西田幾多郎が「行為的直観」と名づけ、最近では中村雄二郎が「臨床の知」と呼んでいる実践感覚よ りほかにない」と述べている。ここで木村は、自らの臨床と研究のなかで醸成されてきた「臨床哲学」というアイディアを、中村雄二郎の「臨床の知」と繋げて いるわけだ」(浜渦 2009:10)。
ここでの私(池田)の関心は、私にはない以下の一連の、木村のおどろくべき「感性」である。
・精神医学は「患者のこころの構造を解明するという哲学的課題」があるということ(私には、それが哲学的問題だとは決して思えない)
・「現場で直接に哲学者の協力を求める」という文言は、哲学ならびに哲学者を、何かの知識的あるいは技術的流用が可能な操作物であると木村 が信じていること。
・精神医学者の仕事に「厳密な意味での哲学的思索」が必要だと主張していること(私は、それが必要だとは思わない)
・「臨床哲学」という定義も明確に言及もなく——この文章から忖度するに philosophical acts in clinical setting であろう——、それが無媒介的に精神病理学を必要なものとしていることである。
他方、浜渦教授による下記の「臨床人間学」の説明は、その外延的理解としては、私の身の回りの「臨床哲学者」たちがおこなっていること(その理 念と行動の間)に齟齬をきたすことがないという点で、私にはより適切でふさわしいものに思われる。
「「臨床人間学」という語を導入した背景として、先に触れた中村雄二郎の「臨床の知」、木村流および大阪大学流の「臨床哲学」、東北大学の 「臨床倫理学」を念頭に置きながら、次のように記した。「ここで「臨床」というのは、狭い意味での「ベッドサイド」ではなく、また、身体的あるいは精神的 な問題を抱えている人のみならず、広く、現代の諸問題に取り組んでいる人と接するなかで、こちらから与えられるものを提供しつつ、学ぶべきものを学ぶとい う仕方で、現場に臨むことを意味している。すなわち、新聞・雑誌・インターネットといった一方通行的な情報源のみならず、対話・面接・インタビュー・交 流・調査・フィールドワークといった相互的な対面関係のなかで、それまでに学んだことを現場で磨きながら、そのなかからいろいろと学び取ることに比重を置 いた研究と教育である」と」(浜渦 2009:11)。
文献
浜渦辰二「私の考える臨床哲学:私はどこから来て、どこへ行くのか」『臨床哲学』(大阪大学大学院文学研究科臨床哲学研究室)第10号, Pp.3-20, 2009年.
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