はじめによんでください
「時間コスト」概念は空っぽの洞窟か?
「時間コスト」概念は空っぽの洞窟か?
私はこれまで「時間コスト」概念(時間費用概念)は、自分の仕事の効率化や趣味のためのウェブでの買い物のコスト削減をする際に極めて重要なも のであり、ライフスタイルの効率化に寄与しているものだと思い続けてきた。あることを成就する(例:中古レコードを手に入れる)ためには、冗長な手続き (電車に乗ってディスクユニオンに出かけライバルを蹴散らし餌箱をあさる)よりも効率よいシステム(ウェブで通販)するほうがいいに決まっている。なぜな らその時間の分、本を読みながら好きなレコードを聴く時間に割くことができる。まさに(効率を生む)時は金なりである。
しかし、まてよ、それは時間を圧縮したというよりも、手続きを簡素化したコスト安(電車賃や収穫物——お目当てのレコード——をよしよしと眺め るためのコーヒーショップ代)であり、その間になにか生産コストに直截的に寄与しているかというと、それは自由になった私の時間の効率化という別の課題の 問題系になってくる。ここでの問題は、(1)時間とコストには間接的な関係はあるが、直接的な関係は他の条件を排除した理想的状況(=均質の労働強度のあ る時間給パート雇用の現場)を除けばないという、理論構成上の問題。(2)単純労働も含めて労働一般には労働者の集中力という要素が大きく絡んで、時間を コストの結びつけるものが仮に直截なものであったとしても、この要素を無視することができない、という現実上の問題がある。
次の文章を読めば、時間コスト概念が意思決定の効率性の概念と現場では混同——というか稚拙な記述表象の不適格性——されていることがよくわか る、ちなみに下記のサイトは「時間コスト」で私がはじめてググった時(09年6月24日)のトップのサイトであった。
「私が常日頃、仕事の上で重視していることは、「時間コスト=適時・機敏」の概念である。日本の多くの企業や公共部門では、通常の業務執行 においてだけでなく、様々な意思決定を行う際においても時間コストを考慮しないことが大きな問題であると考えている。/以前、取締役会において、ある役員 が「その案件については次回会議までに再検討しましょう」と発言した。その時私はすかさず「次回までにと言わず、今決めるべきだ」と言った。企業におい て、戦略や意思決定はスピードが命であり、先送りにして、時間をかけたからと言って、必ずしも良い意思決定ができるわけではないと私は考えている」(/は 改行:出典:www.itc-hokkaido.org/column050202.html)。
スピードの概念は、単位時間内にどれだけの距離を走るかという指標で表現されるので、距離の達成という効率のことであり、これを一義的にコスト に結びつけることはできない。この文章は時間コストを考えよというよりも、さっさと意思決定しなさい、時間効率を重視せよという推奨のことをただ言ってい るだけである。
にもかかわらず腑に落ちてしまうのは「その浮いた時間」(=次回に決定するまでの時間や追加の調査の時間)を別の仕事に回せるのであり、その別 の仕事がなにかその会議の参加者にとって「得したという思い」があれば「時間コスト」を節約したと言っても差し支えない。あるいは、そういう「感じにな る」のは組織にとっては良いことだという思いがあるからだ。(=浮いた時間(時間コスト=時間費用)を、単純に「機会費用」であると錯認してしまうという罠にはまってしまうこと)
しかし、もし提案者の意思決定を完遂するために「再検討のために時間をとる」ということが、根回しや決定的な説得材料を追加入手するための時間 に利用された場合、その時間コストは有益に使われたということはできないだろうか。もちろん、このような選択は先の文書にあるように「時間的あるいは意思 決定の効率性」は悪い。すなわち、やはり問題は時間コストではないことがわかる。
結局のところ、行為者において時間の長さ、質、経過プロセスなどの評価が実は非常に多様であり、時間にコスト概念を結びつけても、時間概念が不 均一であれば時間=コストとすることができない。むしろ(より多くの人にとって)効率性は時間に表象されているということだげが、なんとか合意のとれる表 現なのである。
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