第8章 神経科学の文化分析:「実験室における社会実践の民族誌学的研究」
本章では、この研究の途上で収集した文献のテキストの抜粋(一部)を再掲して、本研究の流れのなかで報告者(池田)がどのような観点から佐藤 研究室で得られた資料を分析しようとしたかの航跡を再現するものである。資料は折に触れて(特に報告書の体裁を立案する時期以降に)ピックアップした断片 的資料をテキストファイルとして蓄積していった。それぞれのトピックのタイトルは適宜インデックスをつけた。インデックスの内容は、引用の中身を正確に表 象するものではなく、引用から報告者の頭(=心)に浮かんだアイディアに関連づけたものである。その後、インデックスのみをあつめていわゆるKJ法——川 喜田二郎による諸要素のグルーピングとグループのインデックス化ならびに上位のグループ化をおこなうプロセス——によって分類し、下記の11のグループに まとめた。空間的分布にはグレマスによる意味の四角形——2組の意味の対立項のマトリクス配列から類似と矛盾の関係を引き出す発見的方法——なども援用し た。
各節の目次
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8.1 経験と方法
8.1.1 経験の想起から実験手法へ
文献に掲げられている作図や写真からどのように実験手法を想像するかというのは、神経生理学者にとっては重要な知的訓練である。下記の引 用文中の質問者は代謝の生化学者であり、回答者は神経生理学者(本研究の共同研究者)である。
「中川[八郎]:図9.2[p.169]に示されている放射性の2-DG[2-Deoxyglucose]を使用した眼優位性コラムの見事 な証明には感心しました。この研究ではどのような条件下で2-DGを投与しているのですか?……このようなきれいな写真を見せられますと、ヒトでも同じよ うなことが起こっていると信じざるをえません。そこで方法をお聞きしたわけです。
佐藤[宏道]:おっしゃるように図8.6の視野地図の可視化にしても図9.2の眼優位性コラムの可視化にしても見事なオートラジオグラフで す。トゥーテルらは2-DGを用いたV1の機能マッピングの仕事を5年がかりで56頭のサルを用いて行いました。この研究は19/88年のジャーナル・オ ブ・ニューロサイエンス誌で連続125ページにおよぶ5報の論文となり、その頃大阪の枚方市に住んでいた私は勤務の京阪電車の中で毎日これを読んでいまし た。この実験はサルを麻酔し、脳定位固定装置につけて頭を動かさぬようにして行われました。2-DGを注入してから眼前のコンピュータディスプレイに、ス トライプの縞刺激をさまざまに方位を変化させながら呈示し、それを片眼で見せました。2-DG注入後、30分から45分後には動物を深麻酔下で安楽死ささ せて、脳組織を取り出しています。この場合には、開いていた方の眼からのみ入力が入り、対応する眼優位性コラムのニューロンが活動し、その活動のために取 り込まれた2-DGが蓄積されたといい切ることができると思います」(福田・佐藤『脳と視覚』pp.352-353、共立出版、2002年)。
8.1.2 時間とプロトコル
研究計画法の段階において被検体(細胞や実験動物)がどのような振る舞いをするのかについての時間的スケジュールを想起することは重要で あることが以下の引用文で明らかである。
「佐藤:キスバルディたちは、まずネコの視覚野を表面から観察して血管の走行マップを調べ、意図した場所に神経トレイサーのバイオサイチン をイオン泳動注入しました。その後、丹念に微小電極による方位選択性の測定を繰り返して方位選択性マップを作り、血管のマップを重ね合わせます。するとバ イオサイチンの注入場所と方位マップの対応がわかります。バイオサイチンの注入を先にするのは、取り込みと輸送のための時間が必要だからです。その後、脳 の表面に平行な切片を作成して形態学的解析を行い、興奮性シナプス、抑制性シナプスの分布と方位マップの重ね合わせを行いました。忍耐力と慎重さが要求さ れる仕事です」(福田・佐藤『脳と視覚』p.354、共立出版、2002年)。
8.1.3 なにごとも推論と実験が大切
以下はバークレー『視覚の新理論』のもとになった経験的事実とそれに関するそれまでの理論の検証についての有名な逸話である。
「17世紀の哲学者ウィリアム・モリヌーは妻が盲人だったが、友人のジョン・ロックにこんな疑問を投げかけた。「生まれながらの盲人が、手 で立方体と球体を識別することを学んだとする。そのひとが視力を取り戻した、触らずに……どちらが球体でどちらが立方体かを見わけることができるだろか」 ロックは1690年の『人間悟性論』でこの問題を取りあげ、答はノーだと述べた。1709年、ジョージ・バークレーは視覚と触覚の関係をくわしく考えた 『視覚の新理論』のなかで、触覚の世界と視覚の世界には必ずしも関連がないという結論を出している。両者の関係は経験上にのみ成り立ち得るというのだ。/ それから20年たらずのち、この問題が実地に検証された。1728年、イギリスの外科医ウィリアム・チェズルダンが、13歳の生まれながらに盲目だった少 年の白内障を手術した。若くて知能も高かったにもかかわらず、少年にはごく単純な視覚的認識すらきわめてむずかしかった。彼には距離という認識がなかっ た。広がりとか大きさという感覚もなかった。さらに、絵を見ると非常にとまどった。現実を二次元で表現するということができなかったのだ。バークレーが予 想したとおり、少年は視覚的経験を触覚的認識と結びつけることで、徐々に見える世界を把握していった。チェズルダンの手術から250年、ほかの患者の大半 もこの少年と同じだった。ほとんどがロックが考えたような当惑と混乱を経験したのである」(サックス 1997:122)。
8.1.4 方位選択性の検証は専門家も苦労した
ある実験的証明は、別の方向からの証明により強化される。
「中川[八郎] 外側膝状体から直接入力を受けるV1層のニューロンの多くは、ある特定の傾きの線分などに反応するという方位選択性の機構 がよく理解できません。私ども生化学の領域の人間は、どうしても物質間の衝突の確率から生物反応を理解しようとする癖があります。この立場からすると、縞 模様に対する反応を理解できても、ある方向への動きにのみ反応する仕組みがわかりかねます。どのようなモデルを考えたらよいでしょうか?
佐藤(宏道) この問題は、ヒューベルとウィーゼルが1962年の論文で、外側膝状体から1個のV1細胞に入力する複数の求心性繊維の受容 野をつなぎ合わせると特定の傾きをもつようになっているというモデルを提案して以来、どれほど多くのV1研究者を夢中にさせたかしれません。しかし、 ヒューベルたちモデルをどのように検証したらいいのかわからなかったわけです。しかし、それをかなり直接的に調べたのが、図9・19(p.191—引用 者)で紹介したストライカーの実験でした。1つの単純型細胞に対しておよそ30個の外側膝状体ニューロンの受容野を並べてみると、その入力を受ける単純型 細胞の最適方位と同じ傾きをもつ受容野ができるということが明らかになりました。これはヒューベルたちの1962年のモデルを支持します。言い方を変えま すと、30個の細胞の入力繊維の終末が形態学的に偏りをもって分布しているためにそれらの終末から/の伝達物質の放出は空間的に偏りのある興奮場を皮質内 に生じさせます。V1は網膜部位対応を保ちながら構成されていますからV1内の空間的偏りは、視野内の偏りに対応し、その偏りに特異的な反応、すなわち方 位選択的反応が生じるというわけです」(『脳と視覚』pp.353-354)。
8.2 技術
8.2.1 微小電極が拓く〈研究プログラム〉(research program)( Lakatos 1970*)
微小電極は神経生理学の実験にとっては重要な道具である。と同時にこの道具により受容器や神経細胞の脱分極による電気的信号の発生とその パターンの分析、さらにそのメカニズムの解明や生物物理による理論上の再現などが始まったという点では、その実験道具を媒介にして、神経生理学の研究が推 進したという点では神経生理学者の〈創造力/想像力〉の源泉でもあった。
「RLE(Research Laboratory of Electronics at MIT—引用者)の技師たちの熟練の支援を受けて、レットヴィンと、イギリスから来た仲間のパット・ウォールは、脳や神経系にある、ごく小さな細胞や繊維 に生じる、ごくかすかな点火による弱い信号をとらえるための、探査用の微小電極を開発した。2人は一連の斬新な研究を始め、少人数の才能ある若手研究者と ともに、マカロック研究室が脊髄、感覚経路、視覚と嗅覚の根底にある脳の仕組みの研究については、最先/端にいるという評判を築いた。蛙の視覚を研究し て、脳の最も基本的な情報処理動作は、それまでにありえないと考えていたほどに、アナログの手段でおこなわれていることを明らかにした。……レットヴィン は論文を、研究室にいたチリ出身の若い研究者、ウンベルト・R・マトゥラナとの共著で、1959年11月、「蛙の目が蛙の脳に伝えること」(What the frog's eyes tells the frog's brain?)という気持ちのそそる題で発表した。この論文によって、それまで感覚による知覚と脳の認知動作について知らされていたり仮定されていたりし たことをすべて、突如として考え直さねばならなくなった」(コンウェイとシーゲルマン 2006:442-443)。
8.2.2 洗練された技術が発見を導く
以下の福田淳の発言は、科学史のナラティブのみならず、ある歴史的社会的文脈のなかで科学者がどのように行動したのかという創意工夫の物 語になっている。神経生理学におけるそのような行為の積みかさねは、科学的真理への探究のプロセスであり、それ自体が一種の〈倫理的言説〉にもなっている ことに注意せよ(→次節8.2.3も参照せよ)。
「富田恒男先生が脊椎動物で単一視細胞の細胞内記録を発表されたのは、1964年のことです。それ以前に、網膜電図(ERG)のグラニット の命名になるP III 波の一部が、視細胞電位であることは確立されており、甲殻類、昆虫、軟体動物などでは、視細胞が光によって脱分極することが証明されていましたが、脊椎動 物のERGのP III 波の極性が、無脊椎動物とは逆になっており、視細胞が光によって過分極応答するのではないかと考えられていましたが、決定的証拠は得られていませんでし た。それは脊椎動物の視細胞は非常に小さくて、細胞内記録が不可能だったからです。そこで富田先生らは、経験的に記録台が何かに触れて振動したとき微小電 極が細胞内に入ることからヒントを得て、記録用の微小電極は固定しておいて、逆に記録する網膜標本を下からたたき上げる方法を考案して、それを用いて安定 した細胞内記録に成功されました」(福田淳の発言『脳と視覚』2002:345より)。
8.2.3 我々電気屋は……
以下の福田の発言は、神経生理学者を「電気屋」として自らを表現することと、分子生物学の研究者が発想したり行為したりすることとの差異 を強調しつつ、また言外に微妙な当てこすりをもおこなっている。事実を別の隠喩からよりリアルに説明し、また関連する事象について微妙な価値判断を込めて メッセージを発信し、さらにそれが自己のアイデンティティを再認するという洗練された言語行為は、我々の日常生活のなかに見られるとはいえ、科学者のこの ような発話実践は(この場合は福田による学会誌へのエッセーではあるが)フィールドワークを通してしばしば遭遇することがある。
「デカルト以来、困難なものは分解して要素に分ければ理解 しやすいという。しかし、例えば脳の働きを理解するのに、学習・記憶→ニューロン活動の時間的変化→シナブス可塑性→伝達物質放出変化・受容体活性の変化 →蛋白質のリン酸化→遺伝子発現調節というように還元してゆくと、これら一連の連鎖はすべて必要条件をたどっているに過ぎず、逆向きに十分条件を検討して いないことになる。その自覚から最近、一足飛ぴに遺伝子とその機能分子の発現を障害して統合されたあとのグローバルな機能(行動)の異常を調べる、いわゆ るノックアウトマウスで機能障害を調べる研究が盛んである。我々も京大・中西研と共同で、網膜のmGluR6ノックアウトマウスでON反応が消えることを 生理学的に証明することができた。しかし、これだけでは実につまらない。我々電気屋は、分子屋がON反応の受容体を壊したのをまるで配線が切れたことをテ スター代わりに証明したに過ぎない。生理学的に面白いのは、むしろ遺伝子レベルである因子がないにもかかわらず、その動物はいかに外界に適応して生存して きたかというところにある。我々生理学者にとっての関心事は、生体が単なる部品の寄せ集めでなく、一つの寿命を全うすべく、内的・外的障害因子にかかわら ず、生存する術をどのように身に付けているかを知ることである。生命体のもつ不思議さ、生きることの素晴らしさ、そういうものをよりよく知るところにあ る。我々が“神経の再生”の問題に取り組んでいるのも、こういう観点からである。生き続けることに坑するさまざまの障害因子にもかかわらず、機能を修復し て生命体の本質でもある生き続けることを可能にする生体のメカニズムを知ることは、生理学 の一つの課題であるとも考えられる」(福田淳「日本生理学会誌・巻頭言VISION: 分子生物学と生理学 」1996年58巻3号、出典:http://physiology.jp/exec/nisseishi/backnumber/82/702/)。
8.3 ニューロコネクショニズム
8.3.1 On the NRV Project
現在(2002年当時)開発中の視覚高次機能のニューロインフォマティクスを説明する大澤五住教授(大阪大学大学院)の発言。ヴィジョン /プラットフォームと呼ばれる興味深い学際融合実践である。
「高次視覚機能の数理モデルは多く試みられてきたが,生理学的データと突き合わせて検証可能なほど生物学的に忠実なものは多くはない。 NRVプロジェクトでは,数理モデルと実験データを含むVisiome Platformと呼ばれる総合的な研究支援環境を開発中であるが,その一部である大脳における視覚のニューロインフォマティクスがどのように利用可能か について,現状と展望を解説する。key words:modeling, visual cortex, higher-order visual area」。
Source: 『脳の科学』星和書店刊 第24巻1号 2002年1月(特集号:ニューロインフォマティクス:IT時代の脳・神経科学)抄録。
8.3.2 視覚体験は演算処理
生物の神経生理現象をメタレベルで説明する際につかわれる二大説明原理は、(1)コネクショニズムに代表されるような演算であり、他方は (2)近年ではオートポイエシスという魅力的メタファーにより哲学や社会科学にまで知的に影響を与えつつある新・有機体論である。以下の短い引用は、演算 原理で神経処理の効率化について表現するものである。
「錯視は情報処理を単純化するための代価である。それによって並列情報処理の高速化が実現される」[ペータハンスとフォンデアハイト] (Peterhans, E., and R. von der Heydt. 1991. Trend. Neurosci., 14:114-119./翻訳は福田淳・佐藤宏道『脳と視覚』pp.239-240, 共立出版、による)。
8.3.3 どこまでが視覚で、どこからがそれ以外のプロセス(例えば演算)のか?
科学上の難問〈どこまでが視覚で、どこからがそれ以外のプロセス(例えば演算)のか?〉という疑問が浮かぶのであれば、〈どこまでが演算 で、どこからが入れ以外のプロセス(例えば認知)なのか?〉という疑問をぶつければよい。そうすれば視覚・演算・認知という概念は、我々がそれらの全体論 的イメージを理解することができない、操作的な概念にほかならないことがわかるはずだ。視覚、演算、認知のつらなりは(後期)ウィトゲンシュタインの家族 的類似性によってお互いに似ているとともに、相互にまとめられる。また脳がすべての認識機能をもつという脳の自律論という観念論的な呪縛からも解放される べきである。つまり、脳が末梢神経をはじめとする他の臓器との関連性をもち、脳もまた特殊な内分泌器官(→大脳辺縁系の視床下部)であることでその自律性 の根拠は薄弱になる。
8.4 進化
8.4.1 ウィノグラードとフローレスによる神経生理学研究の転換
以下の例は演算モデルの階層化について言及しているものと言えるが、同時に経験的に見たり推論することとは、まったく別の発想を網膜や神 経の情報処理のレベルでは考えてもよいということを我々に教えてくれる寓意(アレゴリー)でもある。ときに偏執的になることを要求し現実とは乖離してしま うことすらある論理実証主義に毒された思考法から離脱するためには、この寓意は示唆的である。
「視覚の神経生理学研究では、伝統的に(合理主義的な認知の哲学に基づいて)視神経の活動が網膜上の光のパターンを直接表現していると仮定 されている。カエルの視覚を扱ったマトゥラナらの研究はこれに挑戦するもので、視神経が単独でつながっている網膜上の領域の多くで、神経細胞を興奮させる のは光の強度どのものではなく、その局所的な変動パターンであることを示した(Maturana, Lettvin, McCulloch and Pitts 1960)。例えばある種の細胞は、光に囲まれた暗点に最もよく反応する。これが興奮すると、その位置にいるハエを捕らえるのに適した行動が起動される。 これから、カエルの生存に必要と考えられる認知過程の少なくとも一部は、神経系の中枢では/なく視覚系で起こっていることがわかる。[改行]これを色の知 覚へと発展させた研究によって、知覚と外界との関係に、さらに疑問を投ずる観察が得られた(Maturana, Uribe, & Frenk 1968)。マトゥラナらはすでに長年知られていた簡単な観測事実をもとに、色を直接スペクトルの上の波長に結びつける理論は不適切であると主張した。棒 が、一方からは白色光、もう一方からは赤色光で照らされると2つの影ができるが、片方は(ピンクの背景に対して)赤に見えるのに対し、もう一方は「緑」に 見える。客観的な「もの」として何が観察されるかを問題にするなら、緑色と呼ばれる波長の光は存在していない。あるものは単に赤、白、ピンクの影だけであ る。マトゥラナらは、神経の活動パターンが緑色の波長に対するものと同じであるという仮説を立てた。つまり神経系にとって「緑」の存在は、特定の波長の光 との単純な照応ではなく、多数のニューロンにわたる複雑な活動パターンの結果というわけである」(ウィノグラードとフローレス 1989:65-66)。
8.4.2 Warren Sturgis McCulloch
マカロックは、いわゆるジョサイア・メイシー・ジュニア財団の援助を受けたノーバート・ウィナーをリーダーとするサイバネティックグルー プの重要なメンバーである。神経科学の研究はサイバネティクスという用語にあらわれるようになる、有機体説と演算主義を数理モデルにより調和する——とく に前者をブラックボックスという隠喩で表現し入/出力の関数表現で模倣するという手続きを経由して——試みをおこない、今日のシステム科学の基礎づくりに 大いに貢献した。さらに、神経は生物の機械的部分でもあるために、人間(ないしは動物)と機械との関係や、人間の感覚や理解の機械論的な理解についての多 大なアイディアを提供することになった。
"Warren Sturgis McCulloch (November 16, 1899 − September 24, 1969) was an American neurophysiologist and cybernetician.
Warren Sturgis McCulloch was born in Orange, New Jersey, and studied at Yale (philosophy and psychology, A.B. degree in 1921) and Columbia (psychology, M.A. degree in 1923). Receiving his MD in 1927 from the College of Physicians and Surgeons in New York, he undertook an internship at Bellevue Hospital, New York, before returning to academia in 1934. He is remembered for his work with Dusser de Barenne (Yale) and later Walter Pitts (University of Chicago) which provided the foundation for certain brain theories in a number of classic papers, including "A Logical Calculus of the Ideas Immanent in Nervous Activity" (1943) and "How We Know Universals: The Perception of Auditory and Visual Forms" (1947), both in the Bulletin of Mathematical Biophysics. In the 1943 paper they attempted to demonstrate that a Turing machine program could be implemented in a finite network of formal neurons, (in the event, the Turing Machine contains their model of the brain, but the converse is not true; see S.C. Kleene, "Representations of Events in Nerve Nets and Finite Automata") that the neuron was the base logic unit of the brain. In the 1947 paper they offered approaches to designing "nervous nets" to recognize visual inputs despite changes in orientation or size. From 1952 he worked at the MIT Research Laboratory of Electronics, working primarily on neural network modelling. His team examined the visual system of the frog in consideration of McCulloch's 1947 paper, discovering that the eye provides the brain with information that is already, to a degree, organized and interpreted, instead of simply transmitting an image. McCulloch also posited the concept of "poker chip" reticular formations as to how the brain deals with contradictory information in a democratic, somatotopical neural network. His principle of "Redundancy of Potential Command"[1] was developed by von Forster and Pask in their study of Self-organization. He was a founding member of the American Society for Cybernetics and its first president during 1967−1968. He was a mentor to the British operations research pioneer Stafford Beer.
He met Alan Turing once, but Turing dismissed him as a 'charlatan'. (Crevier, 1993:31) Warren McCulloch had a remarkable range of interests and talents. In addition to his scientific contributions he wrote poetry (sonnets), and he designed and engineered buildings and a dam at his farm in Old Lyme, Connecticut. He died in Cambridge in 1969. His papers now reside in the manuscripts collection of the American Philosophical Society.
* Lettvin, J. T., Maturana, H. R., McCulloch, W. S., Pitts, W. H. What the frog's eyes tells the frog's brain? Proc. of the I. R. E. 47 (11): 1940- 1951, (1959). Source:http://en.wikipedia.org/wiki/Warren_Sturgis_McCulloch
8.4.3 脳による補償(目的に叶う?認知空間の充足)
外部から与えられた刺激からなる演算モデルだけでは、現実の脳の情報処理を説明することができないことを示唆した文章である。新・有機体 説あるいはオートポイエシス(→8.10参照)との関連性について考えたくなる。
「視覚のすぐれた特徴は、外界に存在する刺激の位置の情報を正確に伝えることである。これを可能にするのは、視覚系のトポグラフィックな構 成である。つまり、眼から大脳皮質視覚野に至る神経投射は網膜上の位置関係を保つようになされており、視覚野には視野と二次元的な一対応関係をもつ詳細な 視野の地図(網膜対応地図)が存在している。[改行]外界の物体の各点からやってきて目に入った光は網膜に結像して、物体表面の各点に対応する受容器の活 動を引き起こす。その結果、生じた神経の活動が視覚皮質に伝えられ、その網膜対応地図の上で物体表面各点の色や明るさの情報が取り出される。この情報が高 次の領野に伝えられることにより、表面の色や明るさの知覚が生じると考えられる。しかし、充填知覚と呼ばれる心理現象は、面の知覚がこのような考え方だけ では説明できないことを示している」(小松英彦「面の認知」p.15、丹治順・吉澤修治編『脳の高次機能』朝倉書店、2001年)
8.4.4 発達による影響(神経の可塑性?)
脳の可塑性と、子供の発達には、なにか関連性があるのではないかという主張はヴィゴツキーの議論などからみると、人間ははやく気づいてい たようである。
「子どもの思考の発達は、思考の社会的意味の習得によっている……。記号の使用は、人間を特異な行動の構造に導き、それが生物学的発達から 分離して文化に依拠した心理過程の新たな形式をつくりだす」ヴィゴツキー(ただし出典は W. Frawley, Vygotsky and cognitive science. Cambridge: Harvard University Press, 1977.で引用したのはギアツ『現代社会を照らす光』pp.269-270, 青木書店、2007年)
8.4.5 脳は増築を重ねてきた家
マコーレイは科学技術やテクノロージーに関する描写においてその縮尺を等身大以上、場合によっては巨大建造物のサイズにまで拡張して表現 することに長けている画家である。マコーレイのイラストによる『脳ってすごい!』は、脳の進化学的な発達と、その巨大建造物としての脳の背景をも含めたす ばらしい表現力によって、思いもよらないアイディアを提供してくれる。
「脳は現代建築のように細かいところまできちんと設計されているものではありません。むしろ雑然としていて、異なった構造の部屋と部屋が重 なり合い、それぞれがおたがいに通路を介してつながっているのです。/脳という家の中のそれぞれの部屋は、現代風に合理的に設計されたものと思われがちで すが、それは間違いです。脳にはいろいろな機能があり、それぞれわたしたちの世界の異なった結論を下したり、また過去の記憶を参考としてわたしたちに新た な行動をとらせたりするのです」(オースタインとトムソン(マコーレイ画)『脳ってすごい!』水谷弘訳、東京:相思社、pp.26-27、1993年[原 著1984])。
8.4.6 脳の部位の進化学的起源
「脳は、いわばきちんとした計画もないまま長い年月をかけて増築されてきた古い家のようなものです」(オーンスタインとトムソン 1993:3)。
「脳は現代建築のように細かいところまできちんと設計されているものではありません。むしろ、雑然としていて、異なった構造の部屋と部屋が 重なり合い、それぞれがお互いに通路を介してつながっているのです。脳という家の中のそれぞれの部屋は、現代風に合理的に設計されたものと思われがちです が、それは間違いです。脳にはいろいろな機能があり、それぞれわたしたちの世界の異なった部分を観察したり、異なった結論を下したり、また過去の記憶を参 考としてわたしたちに新たな行動をとらせたりするのです。……いろいろな時代につくられたわたしたちの脳の各部位には、わたしたち自身の進化の歴史が刻み 込まれています。わたしたちヒトが誕生する以前から“感情”もこの脳の中にあったのです」(オーンスタインとトムソン 1993:26-27)。
8.4.7 「古い」部分が新しい機能を担うようになる
「小脳ははじめ、からだの平衡や姿勢、運動を調節するために発達しましたが、いまでは、とくに新しく発達した部分は、習いおぼえた反応の記 憶を蓄える場所と考えられています。このように、小脳に新たな任務を割りあてるやり方は、脳の発達方式の一つの典型です。古い構造がそのまま残って、新た な役割をひきうけたのです。小脳に新たな神経組織がつけ加えられるにつれて、中脳のすぐ下にあって(脳)橋とよばれる脳幹の一部が発達して、小脳と情報の やりとりをするようになりました」(オーンスタインとトムソン 1993:29)。
8.4.8 眼が完全に都合よくできているわけでもない(anti-teleology?)
マコーレイ画でオーンスタインとトムソン(1993)による著作においても、進化のプロセスは既存の器官(オーンスタインとトムソンの場 合は小脳、そして以下に引用する倉谷が説明する場合は網膜)が、さまざまな不都合を強いられるということである。しかし、これはあらゆる生物種の宿命であ るかもしれない。
「最終的に形成されてできる器官の構造や働きは、たしかに自然淘汰の働きによってより良いものへと、ある程度は進化してゆくことができる。 が、発生過程は多かれ少なかれ、なんらかの進化的経緯を背負っており、それによって拘束がかかり、しばしばそのために変化する能力に限界がある。[改行] たとえば、我々の眼の網膜上皮においては、そこに並んだ光受容細胞の極性が光の進入とは逆方向を向いている。もちろん、これは非効率な状態だ。しかし脊椎 動物の眼は祖先に生じた原初の眼の設計をいまでも引きずって、それに基づいて改善するしかない。基本設計が決まっているために、このようにしか作れないの だ。そして、そのような眼の発生パターンに加え、誘導されるレンズや強膜など、眼に付随したありとあらゆる構造の発生が、基本的な眼胞の発生に全面的に依 存している。光受容細胞の極性を逆にするためには、このように構造的に固まった眼の発生システムすべてを解体し、ゼロから眼の進化を再開するしかない。通 常、淘汰圧はそれを引き起こすほど強くかかることはないし、ほかに眼をもったライ/バルがいないのであればともかく、それを許すほど悠長な進化はすでに不 可能な時代になっている」(倉谷滋『個体発生は進化をくりかえすのか』pp.81-82、岩波書店、2005年)。
8.5 目的論の周辺
8.5.1 すべてはアリストテレスから
すべての人間は知ることを欲する。私(池田)は本研究のすべての期間そしてそれが終わった現在においても、このアリストテレスの言葉を一 時も忘れたことがない。神経生理学というフィールドでは、さらに、アリストテレスのテーゼを想起する人間の脳の働きを調べる人間の脳という再帰的な質問に しばしば苛まれるが、これは同時に大きな魅力になっている。
"ALL men by nature desire to know. An indication of this is the delight we take in our senses; for even apart from their usefulness they are loved for themselves; and above all others the sense of sight. For not only with a view to action, but even when we are not going to do anything, we prefer seeing (one might say) to everything else. The reason is that this, most of all the senses, makes us know and brings to light many differences between things"(source:[http://classics.mit.edu/Aristotle/metaphysics.1.i.html:title=Aristotle,Metaphysics, Book 1])
8.5.2 視覚に関するアリストテレスの教説
視覚に関するアリストテレスの教説を読むと、視覚の源泉として色が重要であることがわかる。しかしヒューベルとウィーゼルを代表とする視 覚の神経生理学では、むしろ視覚刺激のパターンについての研究が占めるために、アリストテレスとの対比はそれらの間に非常におおきな違いがあるように感じ る。
「さてそこで、視覚の対象となるものだが、それは「見られるもの」である。そして見られるものには、色と、説明規定を用いて記述は可能だが たまたま特定の名称は与えられていないものがある。それがどのようなものを意味するかは、議論が進行すれば明らかになるであろう。実際、最も主要な意味で 見られるものであるのは色である。そして色とはそれ自体として見られるものの上にあるものである。「それ自体として」というのは、説明規定の上で見られる ということではなく、見られるものであることの原因を自分自身/のうちにもっているという意味で見られるということである。ところで、色はすべて、現実活 動態にある透明なものを動かす[変化させる]ことができるものであり、このことこそが色の本性なのである。光なしでは色がみられることはなく、光のなかで はじめて各事物の色はすべて見られるということの理由も、まさにこの点にある。したがって、まず最初に光について、それが何であるかを論じなければならな い」(アリストテレス『魂について』pp.92-93)。
「というのは、色にとって「色であるということ」[色の本質規定]はすでに確認されたように、このこと、つまり、「現実活動態にある透明な ものを動かしうる[変化させうる]ものである」ということだからである。そして、その透明なものの現実活動態とは光にほかならない。このことには歴とした 証拠がある。すなわち、もし人が色をもつものを視覚器官自体の上に直接置いたならば、それは見えないだろう。むしろ色が、透明なもの、たとえば空気を動か し[変化させ]、他方でこの空気は連続しているので、この空気によって感覚器官は動かされる[変化させられる]のである」(アリストテレス『魂について』 p.96)。
8.5.3 トーマス・クーンによるアリストテレス『自然学』註解
トーマス・クーンが『科学革命の構造』について、どのようにしてパラダイム——動詞の活用表のごとく科学者集団が共有する問題解法のゲ シュタルト化された論理的パターンないしはコスモロジー(世界観・宇宙観)——のアイディアに到達したのかという時に語られるエピソードが、次のアリスト テレスの自然学がわかるということに関するものである。クーンの学位論文の研究は、黒体説から量子説への展開についてのものであったが、彼がアリストテレ スの自然学を科学史の授業のために紐解いた時に、その(目的論的な)運動の概念について当初ほとんど理解できなかったという。アリストテレスの自然学を理 解するためには、ニュートン力学がもつ物質観や世界観から自由にならないと理解できない。なぜなら、ニュートン的物質観によってアリストテレスを理解して いるかぎりその奇妙さから自由になることができない。このような古典力学とアリストテレスの自然学の間には、相互に関連性をもたない物質観・世界観がある ということである。この相対的なものの見方の違いがパラダイムの違いという形で後に説明されるようになるのである。
「アリストテレス自然学に「運動」という用語が出てくる時、それは変化一般を指示し、たんなる物理的物体の位置変化を指すのではありませ ん。……アリストテレスにとっては[位置変化は]運動の多数の下位カテゴリーのひとつなのです。他のカテゴリーとは、成長(ドングリの樫への転化)、強度 の変容(鉄の棒の加熱)、多数のもっと一般的な質的変化(病気から健康への移行)などです。……アリストテレス自然学の第2の側面……は、その概念構造に とって質が中心的であるということです。……私は、アリストテレス自然学が17世紀半ば以降標準的になっている物質と質の存在論的ヒエラルヒーを逆転させ ていることを念頭に置いています。ニュートン自然学において、物質は物質の粒子から成っており、その質は、それらの粒子が配置され、運動し、相互作用する 仕方の帰結です。他方、アリストテレスの自然学において物質はほとんどなくて済むものです。それは中性的基体であり、物体がどこ/にあっても……在るので す。特定の物体、実体は、いなかる場所にも存在しているのであり[このことから真空の概念は否定される——引用者]、この中性的基体、ある種のスポンジ は、それに個々のアイデンティティを付与しようと、熱さ、湿気、色、その他の質で一杯に満たされています」(トーマス・クーン『構造以来の道』佐々木力 訳、pp.19-20、みすず書房、2008年)
8.5.4 なぜ初期の神経生理学者たちは色に関する関心がなかったのか?
・研究手法がなかった。
・昆虫の視覚をはじめとして色覚と形相(eidos)に関する関心はあった。しかし、高等哺乳類の視覚情報処理に関心が移るにつれて、ま た、網膜から上位の中枢神経系への情報処理に対する関心が高まるにつれて、色覚に関する分析は後回しにされた。後に実験心理的技法や非侵襲的な人体への測 定装置が導入されて、色覚に対する関心が復活した。
・要素還元主義という点から考えると、可視光の波長の揃った白色光がもっとも無難な選択肢であった。
・20世紀の中頃に思春期を迎えた視覚生理学の学者たちが育った実験的視覚のイメージは圧倒的にモノクロによるグレー階調に支配されてい た。特に外界からの光を遮断した実験的統制下において生理学者たちの視覚的
イメージは明暗による光の階調のものが主流であった(→アリストテレス『魂について』)。
8.5.5 概念とイメージに束縛される中世の脳科学
クーンが経験したアリストテレスの自然学理解の困難さと同様、現代の生きる我々は、どうして中世を生きた科学者や哲学者が、脳室(脳の中 心部にあるということは示唆的である)を重要な器官と考えたのか、ほとんどわからない。しかし、同時に、以下の引用にみるように、いわゆる脳室局在説とい うべき発想があることは興味深い。脳の機能局在という考え方も(すでにコネクショニズムが先鞭を切っているが)近未来の脳科学からみると不完全な理論とし てその取り扱いが変わる可能性もあることを理論的には大した根拠はないが、そのことを予感させる。
「古代ギリシャから魂は脳に住むという考え方はありましたが、古代、中世をつうじて、もっぱら精神の座とされたのは脳室でした。脳の表面に はっきり見えるはずの脳回や脳溝はまったく無視され、あたかも小腸であるかのように描かれていました。/レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519) にはいくつかの脳のスケッチがありますが、その後期のものは彼自身がウシの脳室にロウを流し込んで調べたもので、4つの脳室が区別されています。しかし、 脳室の役割についての認識は中世のままで、側脳室は知覚の中枢、第三脳室は共通感覚の中枢、第四脳室は記憶の中枢として記載されています」(水谷弘「訳者 あとがき」オースタインとトムソン(マコーレイ画)『脳ってすごい!』水谷弘訳、東京:相思社、p.213、1993年[原著1984])。
8.5.6 局在説に呪縛される現在の神経科学者
別記は、2008年7月11日付の朝日新聞であるが、「概念とイメージに呪縛される」(→8.5.5参照)という点では、現代の脳科学も また同様である。ここでは、新聞社の科学記者——科学者への取材という点ではプロフェッショナルであるが修辞学(レトリック)に関してはジャーナリストの 知性を疑いたくなる——の助けを借りて、知性の知能局在説がいかんなく発揮されて、脳の機能における統合脳的な発想がほとんど投影されていないことがよく わかる。
8.6 エートス問題
8.6.1 実験装置という「構造」が生理学者の行動とエートスを生み出す?
実験装置の原理について知悉し、その動作について精通していないと「良質のデータ」は収集できない。機械は身体の延長であり、実験者の生 身の身体は機械との調整行動を通して、実験のセッションの具合がどうであるかを知る。機械との付き合い方は、実験ひいては研究に対する感情的態度および軽 視的行動の総体(エートス)を形成する。
8.6.2 エイドスとエートスの定義
- エイドス(eidos):個々人のパーソナリティの認知的側面を標準化したもの。ベイトソンによる原文は、"[W]e may surmise that the characteristics of Iatmul culture which we are now standing are due to a standardisation of the cognitive aspects of the personality of the individuals. Such a standardisation and its expression in cultural behaviour I shall refer to as the eidos of a culture."( Bateson,G., 1958. Naven, p.220, 2nd ed., Stanford University Press, 1958).
- エートス(ethos):個々人の諸本能と諸感情組織の文化的に標準化されたシステムの表出のこと。ベイトソンによる原文は以下のとおり。 "Ethnological approarch involves a very different system of subdivision of culture. Its thesis is that we may abstruct from culture a certain systematic aspect called ethos which we may define as the expression of a culturally standardised system of organization of the instincts and emotions of the individuals."( Bateson,G., 1958. Naven, p.118, 2nd ed., Stanford University Press, 1958).
8.6.3 イアトムルの憂愁と同業者との対話による解放
文化人類学者として神経生理学の佐藤研究室に出入りするようになってから、あるいはそれ以前より、ディテールばかりにこだわる自然科学者 の体質にしばしばあきあきする。他方、その感覚(エートス)をもって、文化人類学の同業者の学問的議論の現場に里帰りすると、文化人類学者たちは実証的 データを十分取らずに推論したり、さまざまな反証事例の可能性を検討することをしないことに気づく。また最新の認知心理学や神経生理学の知見などについて も文化人類学者たちは横断的かつ積極的にその知識について収集しようとしないようだ。人類学を研究(調査)することは、自分の知識と知識実践が生み出す感 情や倫理(エートス)が、バラバラになることだ。それは快感でもありかつまた苦痛でもある。苦痛は民族誌を書くことで癒さねばならない。
「形式的にディテールばかりにこだわる人類学者の体質にあきあきしていた彼(=グレゴリー・ベイトソン——引用者)は、ひとつの文化特有の 「感じ」全体をつかみ取るような民族誌を志していたのだが、「原住民が集まって、キンマの葉を噛み、それをペッペッと吐き出しながら談笑するさまを眺めて いるうちに、これは無理だという絶望の気持ち」が募っていた」(Bateson 1942)*」(佐藤良明 2001:254, 「解説」ベイトソンとミード『バリ島人の性格:写真による分析』外山昇訳、国文社、2001年)。
* Experiments in Thinking about Observed Ethnological Material [written in 1942], in Bateson, Gregory., 1999 "Steps to an Ecology of Mind: Collected Essays in Anthropology, Psychiatry, Evolution, and Epistemology." Chicago: University of Chicago Press.
* "At a time when I was hopelessly sick of fieldwork, I had the good fortune to meet these workers (Margaret Mead and R.F. Fortune, citation notes) who set me a new and higher standard of work in the field. In conversations with them my approarch to anthropological problems had its origin". (Bateson, G., Foreword of 1935, In his work Naven, published in 1935, 2nd ed., in 1958.)
8.7 現実の科学者集団
8.7.1 科学は徹頭徹尾コミュニティの問題だ、というクーンのテーゼ
クーンの以下に引用する主張は、科学を研究する文化人類学者にとってはじつに力づけられる言葉である。この言葉を引用しているのが、自然 科学のイデオロギーが文化的なものに近似することを年来主張してきたギアツ——当該文献ではトマス・クーンとジェローム・ブルーナーの2人の科学者に焦点 が当てられる章がそれぞれある——であることも受容である。
「通常科学も革命も……コミュニティを基盤にした活動である。そのことを見出し分析するには、まず時代によって変化する諸科学のコミュニ ティ構造を解明することが必要である。ひとつのパラダイムが統率するのは……主題ではなくてひとつの実践者集団である。パラダイムの形成維持や崩壊を調査 研究するには、まずそれを担った集団を特定することから始めなければならない。」(Kuhn, T., The Structiure of Scientific Revolutions. pp.179-180, Chicago: University of Chicago Press. ただし翻訳は鏡味治也ほか訳、クリフォード・ギアツ『現代社会を照らす光』p.207, 青木書店、2007年よりとった)。
8.7.2 科学者は厚顔?
ラカトッシュもクーンばりに、科学者がいかに頑強にパラダイムにしがみつくのかということを表現する。
「科学者は厚顔なのだ。彼らは事実が理論に合わないからといって理論をおいそれとは捨てない」(ラカトッシュ『方法の擁護』村上陽一郎ほか 訳、p.6、新曜社、1986年)。
8.7.3 専門家の無理解
ファイヤアーベントになると、科学者の行動や気質の分析というよりも、彼の論調は露骨な——それゆえ愉快であるが——科学批判になる。
「「専門家」は、自分が言っていることをしばしば理解しておらず、また「学者の意見」は、きわめて多くの場合、単なるゴシップにすぎない」 ——パウル・ファイヤアーベント(1992[1987]:19)
8.7.4 語学のハンディと「科学における人種主義」(racism in scientific researches)
サミュエル・コールマンが引用していた日本人研究者による欧米の科学者レフェリーの露骨な差別についての指摘。日本語の翻訳に疑念をもっ たので、オリジナルを引用し翻訳を試みた。
「多くの日本人科学者たちは、外国人のレビューアー(論文評者)がしばしば日本人の投稿論文が不当に取り扱われていると感じている。欧米人 の同僚の論文はさっさと公刊されてしまうのに、日本人は彼らを信用させるために二倍のデータを作らないとならないと言うものもいる。審査員(レフェリー) が筋の立たない理由で投稿論文の公刊を遅らせたために、彼の主たる研究の90パーセントは他人に功績を横取りされてしまったということを、私が尊敬する著 名な日本人生化学者が告白した時に私は驚いてしまった」(Yanaguida 1996:2)
"Many Japanese researchers think that their submitted papers are often treated unfairly by their foreign reviewers. Some dare to say that they have to produce twice as much data to convince their Western peers, whose papers are quickly published. I was surprrised to hear that a well-known Japanese biochemist, whom I respect very much, told me that he failed to get gredit for 90% of his mejor studies because his submitted papers were delayed in publication by unreasonable referees"(Yanaguida 1996:2).
8.8 科学と隠喩
8.8.1 科学研究における〈イメージ伝統〉と〈ロジック伝統〉
素粒子実験に関する歴史的研究をおこなったペーター・ギャリソンは、素粒子の検出装置に関して2種類の人間的感性に訴える論証に関する伝 統があるという。それがイメージ伝統(image traditon)とロジック伝統(logic tradition)である。イメージ伝統は、素粒子の衝突を夥しい数の写真撮影をおこない、そのなかから証拠になる決定的瞬間(golden event)を表象する写真を示すことで、高い説得力をもたせる。他方、ロジック伝統は、計数器によって示されたデータ(その多くは統計的分析にかけられ る)によって粒子の存在を示す方法である(Galison 1997; 綾部 2002:212-217)。
8.8.2 科学の脱神話化のコスト
しかしながら科学の脱神話化・脱権威化に組することは、[文化人類学という]自らの天に唾するものに他ならない。
8.8.3 知識の比喩・知識を得ること
クーンの指摘(→8.7.1)同様、科学を知るためには科学者のコミュニティにおける彼/彼女らの具体的な行動観察が不可欠になるという 指摘である。科学論や科学史研究者の同僚たちに私は、もっと文化人類学のことをまなんでその方法論を身につけてほしいと言いたい気持ちになる。
「知識を「得ること」が何を意味しているのかを理解することなしには、知識と呼ばれてるものを定義することはできないのである。言いかえる と知識は、それ自体や、「無知」や「信念」と対置して記述されるものではなく、蓄積のサイクル全体を考えることによってのみ記述されうるものなのである」 (ラトゥール 1999:373)。
8.9 科学の逆説
8.9.1 科学の逆説
(1)科学[者?]が真理を発見するのか、それとも(2)発見を通して自体をさらに複雑にすることを通して結局は真理を「隠蔽」してしま うのではないか。ベイトソンの逸話にはいつも考えさせられる。
"There is well-known story about the philosopher Whitehead. His former puple and famous collabrator, Bertrand Russel, came to visit Harvard and lectured in the large auditorium on quantum theory , always a difficult subject, and at that time a comparatively novel theory. Russell labored to make a matter intelligible to the distinguished audience, many of whom were unversed in the ideas of mathematical physics. When he sat down, Whitehead rose as chairman to thank the speaker. He congratulated Russell on his brilliant exposition "and especially on leaving .... unobscured ....the vast darkness of the subject." //All science is an attempt to cover with explanatory devices-- and thereby to obsecure -- the vast darkness of the subject. It is a game in which the scientist uses his explanatory principles according to certain rules to see if these principles can be stretched to cover the vast darkness."( in Epilogue 1958., G. Bateson Naven. p.280, Stanford University Press.)
8.9.2 福田淳:生理学の衰退
生理学の衰退に関する下記の福田の嘆きは、その原因が何であったかについて語られていない。私(池田)によるその理由の仮説とその妥当性 については以下のものが考えられる。(1)生理学自体のパラダイムの枯渇——研究が詳細になったために当事者の間でグランドセオリーが生まれにくくなっ た、(2)分子生物学領域によるシェアの奪取——研究が学際的になっているにもかかわらず後発新興(もう新興とは言えないほど成熟しているが生理学の歴史 に比べてという意味で)のこの領域がポストを置換しつつある、(3)成果到達までの時間が他の生物学領域に比べて長い——とくにバイオインフォマティクス 登場以降の分子生物学領域の論文生産のターンオーバーの圧縮化は篤実な生理学研究の時間尺度とかなり異なり時間がかかることが指摘されている、(4)生理 学の衰退ではなく生理学像の拡大ではないか——基本的には有機体説流の全体論ではなく、要素還元主義的な演算やシミュレーション研究は隆盛しているので福 田の主張は「古典的な生理学」の衰退を意味しているのではないかという主張ではないかという考え方、などである。
「過日,ある医学部卒業生の集まりでふいに挨拶を頼まれて,思わず口にしてしまったのが,生理学の衰退である.全国で生理学教室が次々と消 えてゆき,生理学教室に大学院生が入って来なくなりつつあるのはゆゆしい状況である.このままでは,将来の生理学の担い手が育たないし,生理学会員の減少 傾向にも歯止めがかからない.どうしてこうなってしまったのだろう.昔は,若手の俊英がこぞって生理学を目指していたし,社会的にも生理学がもっと輝いて いた.戦前の生理学者橋田邦彦先生は東京帝国大学医学部の生理学の教授から文相になって,国の教育行政に携わられたし,東京オリンピックの時代には,生理 学者の東龍太郎先生が東京都知事を務められ,大変活躍されていた.勿論,学者が政治に関わることの是非に関しては議論のあるところだが,とにかく生理学者 が社会的に尊敬され,行政の舵取りにまで嘱望されていた時代があったのである.また,慶応義塾大学の生理学の林髞先生は,脳の生化学的研究ですばらしい業 績を上げられると同時に,生理学や脳科学に関する一般啓蒙書を執筆され,大脳生理学が世間に認知される道を開かれた.さらに,東京大学脳研究施設生理学部 門の時実利彦先生は「脳の話」「脳と人間」などの啓蒙書を多く書かれ,意識や心,文学,宗教から幼児教育論まで展開されたことは,年輩の先生方はよくご存 じである.数号前の日本生理学雑誌に杉靖三郎先生の追悼文が載っていたが,先生も「健康の生理学」を書かれ,国民の健康意識を啓蒙された.」(福田淳「日 本生理学会誌・巻頭言VISION:21世紀において生理学は再生できるか?」2003年65巻4号 Vision、出典:http: //wwwsoc.nii.ac.jp/psj/pref/65-4.html)
8.9.3 生命科学における神経科学の位置
前項(8.9.2)の福田淳による生命科学における生理学の位置の危機を間接的に表象するグラフが別記のとおりである。この図は2007 年度の『大阪大学だより』に掲載された「免疫学領域」の研究者による署名記事で、日本の免疫学の業績が世界の生命科学研究のなかで以下にすぐれたものであ るのかを証明(宣伝?)するために使われたものである。そのために、免疫学は赤字で突出した貢献をしていることが強調されている。この日本の免疫学が高水 準にあることを強調するために使われている他の生命科学が、その後に高い順位から「植物と動物科学」「分子生物学」「農学」「生物学と生化学」「臨床医 学」「薬学」と続いたあとに「神経科学と行動学」が「微生物学」と並んで貢献度が低いものとしてこれみよがしに配置している。このような生命科学のセク ショナリズム的発想は、もちろん日本の生命科学の健全な発展のためには、大変好ましからざる現象ではある。
8.9.4 トピカとクリティカ
オリジナルデータに基づいて理論をくみ上げる議論と、他の研究者のデータを使って上手に理論を構築すること、というものは生理学研究のダ イナミズムを作り上げてきた。議論の本質はあれかこれかではないのだが、前者は後者に比べて不当に貶まれているという名誉回復の主張は、現代だけでなく 18世紀のイタリアにもすでにあったということ。ヴィーコの主張はこれからも有効でありつづけるかもしない。
「今日においてはクリティカ(批判精神)のみがもてはやされている。トピカ(試行錯誤発見法)は先におかれるどころではなく、まったく無視 されている。再び、不都合をともなってである。というのは、ちょうど論点の発見が、本性からして、その真理性の判断先立つように、トピカは教授において、 クリティカに先立たねばならないからである」——ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1708)[『学問の方法』上村忠男・佐々木力訳、岩波文庫、 p.29.]。
8.10 オートポイエシス
8.10.1 マトゥラナ自身による発言
マトゥラナはオートポイエシス理論研究の創始者とも言えるうちの1人であるが、その方法論上の特徴はなんら突拍子もないものではなく、通 常の研究上の推論の批判的検討が生まれたものであることが下記の引用からよくわかる。
「レトヴィンと私がカエルの視覚について論文を書いているとき、……明確に定義された認知状/況を対象にしていることを暗黙のうちに仮定し ていた。まず動物からは独立した(それには左右されない)客観的(絶対的)事実がある。動物はそれを知覚(認知(cognize))し、知覚された状況に ふさわしい行動を、得られた情報を利用して計算する。この仮定は我々の言葉遣いにもはっきりと現れている。我々は網膜の各種のガングリオン細胞を特徴検出 器と呼び、獲物や敵の「発見」について語った。……研究を進めてゆくうちに、私の色覚研究の中心目的は、色彩的な世界を神経系に投射することではなく、網 膜(や神経系)が観察者の色空間の生成にどのように関与するかの理解におくべきことに気づいた(Maturana 1970:xii)」(ウィノグラードとフローレス 1989:6-67 からの引用)。
8.10.2 神経系に関する新しいイメージの獲得
「マトゥラナによれば、神経系は互いに作用しあうニューロンの閉じたネットワークであり、一団のニューロンの活動状態が変化すると、それ自 身、あるいは他の一団の活動状態に変化を引き起こす。この観点に立てば、神経系には「入力」も「出力」もない。ネットワーク自身の構造変化によって「攪乱 (perturb)」され、それによって活動が影響を受けることはあるが、システムの状態遷移はニューロン活動間の関係から生成されるのであり、その関係 はネットワークの構造によって決定される。……注目しなければならないのはシステム内の全体的なインタラクションであり、攪乱(をもたらした)構造ではな い。攪乱は神経系で何が起きるかを決めるわけではなく、単に状態変化を起動するだけである。攪乱を受けるシステムの構造が、攪乱を及ぼしうる「媒体」の構 成を決定する、というよりは「指定(specify)」するのである」(ウィノグラードとフローレス 1989:68)。
8.11 詩学
ポエム(詩)やポイエーシス(詩作)は、今では文学や芸術学のジャンルに属するものであるが、言語をつかって世界を構築するあらゆる人間 にとって誰しもがそなわっている能力であり、人間は日々それを産出している。神経生理学の科学的分析をこころみる本報告書のなかに詩や詩作に関する議論が あっても何ら不思議なことはない。
8.11.1 マインド(詩)
リチャード・ウィルバーは1941年生まれの米国の詩人。引用した詩「心」は、1956年に発表された"Things of this world" のなかにみられる。
Mind
Richard Wilbur
Mind in its purest play is like some bat
That beats about in caverns all alone,
Contriving by a kind of senseless wit
Not to conclude against a wall of stone.
It has no need to falter or explore;
Darkly it knows what obstacles are there,
And so may weave and flitter, dip and soar
In perfect courses through the blackest air.
And has this simile a like perfection?
The mind is like a bat. Precisely. Save
That in the very happiest intellection
A graceful error may correct the cave.
(この詩はClifford Geeertzのエッセー"Culture, Mind, Brain/ Brain, Mind, Culture," in "Available Light," Princeton University Press, 2000, の末尾に引用されている)。
邦訳者(鏡味治也ら)による邦訳は下記のとおり。 「心」 心は、そのもっとも純粋なときはコウモリのように動く
それは洞窟のなかを孤独に飛び回る。
無感覚の気転のようなものでもって
岸壁に逆らわないよう工夫を凝らしながら。
それはためらったり手探りしたりすることはない
行く手にどんな障害があるかをそれはうすうす知っている、
その飛翔や旋回、下降や上昇は
暗闇のなかで完璧なコースをたどる。
心もまた同様の完璧さをもつのか?
心はコウモリの如く、まさにそのとおり。ただし
そのもっとも幸福な思惟において
優美な誤りが洞穴を修正することがあるかも知れない。
8.11.2 隠喩の意味の違い
マーシャル・マクルーハンがかつて、「電子メディア」は人間の「神経系」が外側に出て行く結果、地球は(神経系によりメディア的に繋が り)巨大な部族社会になるという〈隠喩〉表現がある。これに対して、ウィリアム・ギブソンは、インターネットは地球の神経の補綴術 (prosthetics)であると言った。この両者の〈隠喩〉表現は、人工物がもとの人間にどのような影響を与えるかについての見解が大いに異なる点 で、まったく異なった用法であると言わざるをえない。
8.11.3 ワクチンとしての無垢な対話者
誰に向かって話しかけるのか、どのようなことを手掛かりにして「わかった」ということが可能になるのか。認識論的な違いをもつ2人による 対話のプロセスから、何をもって何を理解するのかということを説明する技法は、人間が文化をもつようになってもっとも長く使われている学問的技法である。
「この本[『精神の生態学』——引用者]が、「メタローグ」と呼ばれる父と娘の会話からスタートしているのは、ゆえなきことではなかったの だ。(特に[マッカーシズムや冷戦期が苛烈になりはじめる——引用者]50年代に書かれた)それらの対話で“娘”が果たしているのは、既成学問のラベル付 けに汚されて対話者とししての役どころである。世に蔓延している種類の知の外側に踏み出て、問題を問いつめようとする者には、純真な子供こそが対話者とし て必要だったわけだ」(キャサリン・ベイトソン「序文」G・ベイトソン『精神の生態学』佐藤良明訳、p.4、新思索社、2000年)。
8.11.4 「ゆるい思考」は反省的プロセスを含む
何事も先を急いではならない。それに費やした時間や労力が、実りにも反映されることがあるからだ。
「……交互するプロセスの両方の要素がはっきり見て取れます。まず「ゆるい」思考があり、あやふやな基盤の上に理論を構築してゆく作業があ る。次により厳密な思考をおこないながら、すでにでき上がって構築物の足場を補強するプロセスがくる。学問というのは、こんな経緯をとるものだと思いま す。もちろん、ひとつの学問全体と個人の研究とでは、建物の大きさが違います。また、学問の進展プロセスでは、最初に「ゆるい」思考を始めた人間と、それ を厳密化していく人間が別だという点も違っています。物理学などでは、最初の建て付けから土台の手直しまで、数世紀もかかるという例があります。しかし進 行のパターンは基本的に同じでしょう。/このプロセスをスピードアップするには、科学的思考の持つこの二重性を受け入れることが必要だと思われます。この 2種類のプロセスが協働してわれわれの世界の理解を進めてくれるのだということにしっかりとした価値づけを行うことです。一方を嫌うのは、得策ではありま せん。一方が他方を振り切って走るときこそ、それを両方平等に嫌うというのが正しい姿勢だと思います」(「民族の観察から私が進めた思考実験(オリジナル 発表は1940年——引用者)」G・ベイトソン『精神の生態学』佐藤良明訳、p.147、新思索社、2000年)。
リンク集
文献
◆「実験室における社会実践の民族誌学的研究」(目次)
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