かならず 読んでください

カーゴ・カルト・サイエンス

Cargo Cult Science, by Richard Feynman, 1985

池田光穂

科学のふりをした非科学、似非(えせ)科学、偽科学 のこと。科学のふりとは、「研究の一応の法則と形式に完全にしたがってはいるが……何か一番大切な本質がぽかっとぬけているもの」(ファインマン[大貫 訳]2000:294)のことをさす。"So I call these things cargo cult science, because the follow all the apparent precepts and forms of scientific investigation, but they're missing something essential " (Feyman 1985:340).

異名や異表記がたくさんあり、カーゴカルトサイエン ス、カーゴカルト科学、積み荷科学などとも呼ばれる。カーゴカルト(Cargo Cult)は、文字どうり訳 すと「積荷崇拝」あるいは「積荷カルト」であり、19世紀後半から20世紀中ごろまでに、メラネシアを中心として、西洋の植民地主義により、先住民・原住 民に大量の物量や、彼らの技術にはない珍奇で 奇跡的な技術の導入により、彼らの間で認知的混乱がおこり、その時に同時におきた社会不安に乗じておこった「千年王国運動(millennium movement)」と呼ばれる宗教的熱狂運動のことをさす、文化人類学の用語である。カーゴとは、船や飛行機の積み荷のことで、彼らは、自分たちが物質 的に西洋人に対して貧困である ——そのようなイデオロギーは西洋人が武力と物量で持ち込んだのだが——ことの原因を考え、それは(キリストの救世主に似た)救済主が豊かな物量をもたら す至福の時が、いずれ近々おこるだろうと信じて、手作りの飛行場——もちろん実用的価値はない——や、木製の飛行機の像を造って、その積み荷の招来を期待 した。もちろん、積み荷などやっては来ずに、各地で熱狂的な運動は急速に醒めることになったが、広域的な地域の局所的な部分で、この間(7-80年間)散 発的に起こりつづけた。カーゴカルト運動は、メラネシアとりわけ、ニューギニアで発生した(Vailala Madness 1919-1922, Taro Cult, Cargo Cult)やヴァヌアツ(John Frum)などで起こったが、こ れらは急速な文化変容による現地社会のストレスマネジメントの社会的適応——それもかなり虚しい帰結を結ぶ——だと現在では解釈されている。

このようなことは、現場に居合わせた宣教師や人類学 者によって、西洋社会に些かか面白おかしく伝わり、「未開人の無知蒙昧」のさまとしてステレオタイプとして伝わった。リチャード・ファインマン(Richard Feynman, 1918-1988)は、このステレオタイプに基づいて、自分の身近にある似非科学の実態——彼は、そのひとつにリフレクソロジーを挙げている——をカー ゴカルトサイエンスとして『ご冗談でしょう、ファインマンさん』(1985)の中であげている。

『ご冗談でしょう、ファインマンさん』愛読者ならよ く知られた事実だが、ファインマンのこの著作の最終章で、彼は健全な科学的精神の称揚をおこなっている。しかし、同書には、いたずら好きの天才であるリ チャードが、さまざまな科学上のレトリックや先行する知的知識や方法を「(修辞的)加工」して、自分の知的遍歴を開陳しているので、彼の科学者の人生物語 という寓意そのものが、その読者にカーゴカルト化している感はいなめない。フォークサイエンスは純粋な科学的議論のなかでも、実験データの捏造つまり研究不正の結果として登場するものがある。その好例が、常温核融合Cold Fusion)である。常 温核融合が、カーゴカルトサイエンスになる理由は、科学社会学的にかんがえると氷解する。すなわち、1)発見より発明の文脈で評価され、大きな科学的栄誉 と名声がえられる、2)産業界に計り知れない影響を与えるので、すぐに実用化されなくても、その材料や製造法に大きな投資的価値が生まれる、などである。

カーゴカルトそのものはメラネシアで終焉したが、よ くよく考えてみれば、我々の近代社会でのカーゴカルトサイエンスの弊害は大きな問題である。「脳科学ブーム」や「天才の育て方」、はては「FXで驚異的に儲ける金融工学の精髄」など宣伝文句で表現される多くのものをみても、 我々の身の回りにもカーゴカルトサイエンス(積み荷科学)が蔓延している。 ナンシー・マクダウェル(Nancy McDowell)は、カーゴカルトと いう信仰形態は、宗教ではなく、西洋の学者が「未開人の思考」につけたオリエンタリズムで あり、「カーゴ・カルトなる概念は西洋人の偏見が作り出した虚構のメラネシア文化であり、現実にはそのような文化は存在しないと主張」した。「メラネシア の人々のこの信仰は、突如現れた旧来の常識では理解不能な異文明を、旧来の常識をもってどうにか止揚した彼らなりの解釈のしかたであり、この思考自体は何 ら突飛なものではなく全世界普遍の反応であって「カーゴ・カルト」とは人類普遍の考え方の一部を切り出して名前を付けただけのものである、としている」 ウィキペディア;Ton Otto, What Happened to Cargo Cults? Material Religions in Melanesia and the West, Social Analysis. 53 (1): 87. )。

そのため、墓場のファインマン先生には申し訳ない が、メラネシアの先住民・原住民に は、それ以外のすべての住民を代表して謝罪したいと同時に、カーゴカルトサイエンスは、人類の普遍的な「知的態度」ないしは「宗教的態度」のひとつである ことを申し添えておきたい(福井栄二郎は(あまりよい造語とは思えないが)「未 開の理性」と表現している。むしろ「理術」のほうがいいかな)。

●カーゴカルトプログラミング

カーゴカルト=無意味な抵抗(表現行為)という意味 が転じて、コンピュータサイエンスでは、"Cargo cult programming" なる用語と実践が存在する。

"Cargo cult programming is a style of computer programming characterized by the ritual inclusion of code or program structures that serve no real purpose. Cargo cult programming is symptomatic of a programmer not understanding either a bug they were attempting to solve or the apparent solution (compare shotgun debugging, deep magic).[Raymond, Eric S. (1996). "The New Hacker's Dictionary". MIT Press] The term cargo cult programmer may apply when anyone inexperienced with the problem at hand copies some program code from one place to another with little understanding of how it works or whether it is required. Cargo cult programming can also refer to the practice of applying a design pattern or coding style blindly without understanding the reasons behind that design principle. Examples being adding unnecessary comments to self-explanatory code, overzealous adherence to the conventions of a programming paradigm, or adding deletion code for objects that garbage collection automatically collects. Obsessive and redundant checks for null values or testing whether a collection is empty before iterating its values may be a sign of cargo cult programming. Such obsessive checks make the code less readable, and often prevent the output of proper error messages, obscuring the real cause of a misbehaving program."-Cargo cult programming. 「カーゴ カルト プログラミングは、本来の目的を果たさないコードやプログラム構造を儀式的に組み込むことを特徴とするコンピューター プログラミングのスタイルである。 カーゴ カルト プログラミングは、プログラマーが解決しようとしているバグも、見かけ上の解決策も理解していないことを示している (ショットガン デバッグとディープ マジックを比較せよ) [Raymond, Eric S. (1996). 「新しいハッカーの辞書」。 MIT Press] カーゴ カルト プログラマーという用語は、当面の問題に不慣れな人が、その仕組みや必要性をほとんど理解せずに、ある場所から別の場所にプログラム コードをコピーする場合に適用される可能性がある。 カーゴ カルト プログラミングは、その設計原理の背後にある理由を理解せずに、盲目的に設計パターンまたはコーディング スタイルを適用する慣行を指す場合もる。 例としては、不要なコメントを自明のコードに追加する、プログラミング パラダイムの規則に過度に固執する、ガベージ コレクションが自動的に収集するオブジェクトの削除コードを追加するなどがある。 null 値の強迫的で冗長なチェックや、値を反復する前にコレクションが空かどうかをテストすることは、カーゴ カルト プログラミングの兆候である可能性がある。 このような執拗なチェックにより、コードが読みにくくなり、多くの場合、適切なエラー メッセージが出力されなくなり、不正なプログラムの本当の原因がわかりにくくなる。」


ファインマン先生の略伝(ウィキペディア「リチャード・P・ファインマン」等を参照)

1918 5月11日:

ニューヨーク市クイーンズのファーロッカウェイにおいて、白ロシア、ミンスク出身のベンダー・アンド・ゴールドシュタイン社の制服販売業を営む父メルヴィ ル・フィリップス・ファインマンとイーストサイド育ちのポーランド系母ルシールの2男1女の長子として出生。

1918年 - 1935年: ファーロッカウェイに居住

c 1929

「ラビ達が言っていたユダヤ教の奇跡を少年なりに 強引な解釈をして理解、納得に努めていたが、死にゆく登場人物の回想シーンという説話に整合性が見出せなかったリチャード少年は大泣きしてしまう。驚いた ラビは「これは作り話なんだよ」と説明するが、これをきっかけにファインマンの宗教嫌いが決定的なものになり無神論を大っぴらに標榜するようにな」る。

c 1930

1935 コロンビア大学を受験したが、当時アイ ヴィー・リーグを中心に設けられていた「ユダヤ人学生上限枠」のため不合格となったため、MITに進学

1935-1939 MIT

「MITを卒業した1939年の夏休みの間、プラ スチックに金属メッキをするメタプラスト社にアルバイトで入り、それまでよりはるかに多くの種類のプラスチックにメッキできるようにしたり、何時間も掛 かっていた作業をたったの5分に短縮するなどの才能を発揮した。ファインマンが化学においても優れた知識とセンスを持つ」エピソード。

1939-1949 「リンストン大学の大学院生と なり、ジョン・ホイーラー教授の助手」

1942 最初の妻アーリーン・グリーンバウムと結 婚

1943  ロスアラモス国立研究所に移ってマンハッタン計画の任務を遂行(〜1946年11月):「理論グループに所属していたが、下っ端の雑用からテネシー州オー クリッジにあるウラン濃縮工場の視察、および、計算機を使った膨大な計算等々、様々な任務に携わ」る。

1945 アーリーンが結核で死去。

1946 コーネル大学教授(〜1951)

1952 メアリー・ルイーズ・ベルと結婚(〜 1956)

1953  国際理論物理学会で来日

1960 グウェネス・ホワースと結婚。後、実子 カールと養子ミシェルの2児を授かる

1965 量子電磁力学(QED)の発展に大きく寄 与したことにより、ジュリアン・S・シュウィンガー、朝永振一郎とともにノーベル物理学賞を共同受賞

1972 エルステッド・メダル

1978 腹部にガンが発見されて1987年まで4 回の手術

1979  アメリカ国家科学賞

1986 1月28日に起きたチャレ ンジャー号事故に際しては、ロジャース委員会の調査員の一人として事故原因の究明に参加.

1988 2月15日カリフォルニアで死去。69 歳。

●ファインマンさんの魅力(Leonard Susskindさん→4分後に注目)2011/05/16


●現代のカーゴカルトサイエンス(2020年6月上 旬の朝日新聞)

︎SSRI, 選択的セロトニン再吸収阻害剤日本における自殺研究︎▶〈こころ〉と社会︎︎▶︎レ ジリアンス▶︎︎医療による統治性▶︎▶︎︎▶︎▶︎︎▶︎▶︎

●カーゴカルト科学(テキスト)

Cargo Cult Science*

*Adapted from the Caltech commencement address given in 1974.
カーゴカルト・サイエンス
During the Middle Ages there were all kinds of crazy ideas, such as that a piece of rhinoceros horn would increase potency. Then a method was discovered for separating the ideas which was to try one to see if it worked, and if it didn't work, to eliminate it. This method became organized, of course, into science. And it developed very well, so that we are now in the scientific age. It is such a scientific age, in fact, that we have difficulty in understanding how witch doctors could ever have existed, when nothing that they proposed ever really worked or very little of it did.
中 世には、犀角を服用すれば精力が増すといった、さまざまな荒唐無稽な考え方があった。そして、その考えを検証する方法が発見された。それは、まず試してみ て、効果がない場合はその考えを排除するというものだ。もちろん、この方法は科学として体系化された。そして、科学は発展を遂げ、私たちは科学の時代を生 きている。実際、科学の時代だからこそ、呪術医がかつて存在していたことを理解するのが難しい。なぜなら、彼らが提案したことは何一つとして本当に効果が あったわけでも、ほとんど効果があったわけでもなかったからだ。
But even today I meet lots of people who sooner or later get me into a conversation about UFOs, or astrology, or some form of mysticism, expanded consciousness, new types of awareness, ESP, and so forth. And I've concluded that it's not a scientific world. Most people believe so many wonderful things that I decided to investigate why they did. And what has been referred to as my curiosity for investigation has landed me in a difficulty where I found so much junk that I'm overwhelmed. First I started out by investigating various ideas of mysticism, and mystic experiences. I went into isolation tanks and got many hours of hallucinations, so I know something about that. Then I went to Esalen, which is a hotbed of this kind of thought (it's a wonderful place; you should go visit there). Then I became overwhelmed. I didn't realize how much there was.
し かし、今日でも私は、遅かれ早かれUFOや占星術、あるいは神秘主義、拡大意識、新しいタイプの認識、超能力などの話題を振ってくる多くの人々に出会いま す。そして、私はそれが科学の世界ではないと結論づけたのです。ほとんどの人は、多くの素晴らしいことを信じており、私は彼らがそうする理由について調査 することにしました。そして、私の調査への好奇心は、多くのガラクタに圧倒されるという困難に陥った。まず、私は神秘主義や神秘体験に関するさまざまな考 えを調査することから始めた。私はアイソレーションタンクに入り、何時間も幻覚を体験したので、そのことについてはある程度知っている。それから、この種 の思想の温床であるエサレンに行った(素晴らしい場所なので、ぜひ行ってみてほしい)。そして圧倒されてしまった。自分がどれだけ多くの情報に触れていた のか、その時には気づいていなかった。
At Esalen there are some large baths fed by hot springs situated on a ledge about thirty feet above the ocean. One of my most pleasurable experiences has been to sit in one of those baths and watch the waves crashing onto the rocky shore below, to gaze into the clear blue sky above, and to study a beautiful nude as she quietly appears and settles into the bath with me.
エ サレンには、海面から約30フィートの高さの岩棚に、温泉を利用した大きな浴槽がいくつかある。私にとって最も楽しい経験のひとつは、その浴槽のひとつに 座り、下の岩だらけの海岸に打ち寄せる波を眺め、頭上の澄み切った青空を眺め、そして、静かに現れて一緒に浴槽に入る美しい裸体を観察することだ。
One time I sat down in a bath where there was a beautiful girl sitting with a guy who didn't seem to know her. Right away I began thinking, "Gee! How am I gonna get started talking to this beautiful nude babe?"

I'm trying to figure out what to say, when the guy says to her, "I'm, uh, studying massage. Could I practice on you?"

"Sure," she says. They get out of the bath and she lies down on a massage table nearby.

I think to myself, "What a nifty line! I can never think of anything like that!" He starts to rub her big toe. "I think I feel it," he says. "I feel a kind of dent is that the pituitary?"

I blurt out, "You're a helluva long way from the pituitary, man!"

They looked at me, horrified I had blown my cover and said, "It's reflexology!"

I quickly closed my eyes and appeared to be meditating.
ある時、私はある浴場に座った。そこには、一人の美しい女性が、彼女を知らないような男性と一緒に座っていた。私はすぐに、「なんてこった!この美しい全裸の女性にどうやって話しかけよう?」と考え始めた。

何を言えばいいのか考えていると、その男性が彼女に言った。「マッサージの勉強をしているんだ。君で練習させてもらってもいいかな?」

「もちろん」と彼女は言った。二人は湯船から出て、彼女は近くのマッサージテーブルに横たわった。

私は心の中で「なんて気の利いたセリフなんだ! 私にはとてもそんなことは思いつかない!」と思った。彼は彼女の足の親指を揉み始めた。「なんだか感じるよ」と彼は言った。「下垂体あたりにへこみがあるような気がするんだけど?

私は思わず「下垂体からはかなり遠いところにあるよ!」と口走ってしまった。

彼らは私が正体をばらしてしまったことに驚き、私を見つめながら「リフレクソロジーだよ!」と言った。

私はすぐに目を閉じて瞑想しているように見せた。
That's just an example of the kind of things that overwhelm me. I also looked into extrasensory perception and PSI phenomena, and the latest craze there was Uri Geller, a man who is supposed to be able to bend keys by rubbing them with his finger. So I went to his hotel room, on his invitation, to see a demonstration of both mindreading and bending keys. He didn't do any mindreading that succeeded; nobody can read my mind, I guess. And my boy held a key and Geller rubbed it, and nothing happened. Then he told us it works better under water, and so you can picture all of us standing in the bathroom with the water turned on and the key under it, and him rubbing the key with his finger. Nothing happened. So I was unable to investigate that phenomenon.
こ れは、私を圧倒するようなもののほんの一例にすぎない。私は超感覚的知覚や PSI 現象についても調べてみたが、そこで最近話題になっていたのは、指で鍵をこすると曲がるという能力を持つとされるユリ・ゲラーだった。そこで私は彼の招待 を受けて、彼のホテルの部屋に行き、心を読むことと鍵を曲げることのデモンストレーションを見に行った。彼は私の心を読むことはできなかった。私の心は誰 にも読めないのだと思う。そして、私の友人が鍵を握り、ゲラーがそれをこすったが、何も起こらなかった。それから彼は、水の中ではより効果があると言った ので、私たちは皆、水を流したバスルームに立って、その下に鍵を置き、彼が指で鍵をこすっているところを想像できるだろう。何も起こらなかった。だから私 はその現象を調査することができなかった。
But then I began to think, what else is there that we believe? (And I thought then about the witch doctors, and how easy it would have been to check on them by noticing that nothing really worked.) So I found things that even more people believe, such as that we have some knowledge of how to educate. There are big schools of reading methods and mathematics methods, and so forth, but if you notice, you'll see the reading scores keep going down or hardly going up in spite of the fact that we continually use these same people to improve the methods. There's a witch doctor remedy that doesn't work. It ought to be looked into; how do they know that their method should work? Another example is how to treat criminals. We obviously have made no progress lots of theory, but no progress in decreasing the amount of crime by the method that we use to handle criminals.
し かし、私は考え始めた。他に私たちが信じていることは何だろう?(そして、私は呪術医について考え、何も効果がなかったことに気づけば、彼らを簡単に チェックできただろうと思った。)そこで、さらに多くの人が信じていること、例えば、教育方法に関する知識があることなどを見つけた。読み方や数学の教え 方など、さまざまな教育方法がある。しかし、よく考えてみれば、同じ教育方法を改善するために同じ人々を使い続けているにもかかわらず、読みの成績は下が り続け、ほとんど上がらないことがわかるだろう。効果のない呪術医の治療法がある。それを調べるべきだ。彼らはなぜ自分たちの方法が効果があると思ってい るのだろうか?別の例として、犯罪者の処遇方法がある。多くの理論は明らかに進歩していないが、犯罪者を扱うために用いる方法では犯罪件数を減らす進歩も ない。
Yet these things are said to be scientific. We study them. And I think ordinary people with commonsense ideas are intimidated by this pseudoscience. A teacher who has some good idea of how to teach her children to read is forced by the school system to do it some other way or is even fooled by the school system into thinking that her method is not necessarily a good one. Or a parent of bad boys, after disciplining them in one way or another, feels guilty for the rest of her life because she didn't do "the right thing," according to the experts.

So we really ought to look into theories that don't work, and science that isn't science.
し かし、これらは科学だと言われている。私たちはそれらを研究している。そして、私は常識的な考えを持つ一般の人々が、この疑似科学に怯えていると思う。自 分の子供に読み方を教える良い方法を知っている教師は、学校制度によって別のやり方を強要されたり、自分のやり方が必ずしも良い方法ではないと学校制度に 騙されたりさえする。あるいは、問題児を育てている親は、さまざまな方法で子供を叱った後、専門家が言う「正しい方法」を行わなかったために、一生罪の意 識を抱えることになる。

だから、私たちは本当に効果のない理論や、科学ではない科学を検証すべきなのだ。
I think the educational and psychological studies I mentioned are examples of what I would like to call cargo cult science. In the South Seas there is a cargo cult of people. During the war they saw airplanes land with lots of good materials, and they want the same thing to happen now. So they've arranged to make things like runways, to put fires along the sides of the runways, to make a wooden hut for a man to sit in, with two wooden pieces on his head like headphones and bars of bamboo sticking out like antennas he's the controller and they wait for the airplanes to land. They're doing everything right. The form is perfect. It looks exactly the way it looked before. But it doesn't work. No airplanes land. So I call these things cargo cult science, because they follow all the apparent precepts and forms of scientific investigation, but they're missing something essential, because the planes don't land. 私 が述べた教育や心理学の研究は、私が「カーゴ・カルト・サイエンス」と呼ぶものの例であると思う。南洋には、カーゴ・カルトの人々がいる。戦争中、彼らは たくさんの良い物資を積んだ飛行機が着陸するのを目撃し、今も同じことが起こってほしいと願っている。そこで彼らは滑走路のようなものを作り、滑走路の両 脇に火を灯し、人が座るための木造の小屋を作り、頭にヘッドフォンのような木の板2枚を乗せ、アンテナのように竹の棒を突き出して、操縦席とした。そして 飛行機が着陸するのを待っている。彼らはすべて正しいことをしている。形は完璧だ。見た目は以前とまったく同じだ。しかし、それはうまくいかない。飛行機 は着陸しない。私はこのようなものを「カーゴカルト科学」と呼んでいる。なぜなら、それらは科学的な調査の明白な原則と形式をすべて踏襲しているが、本質 的な何かが欠けているからだ。なぜなら、飛行機は着陸しないからだ。
Now it behooves me, of course, to tell you what they're missing. But it would be just about as difficult to explain to the South Sea Islanders how they have to arrange things so that they get some wealth in their system. It is not something simple like telling them how to improve the shapes of the earphones. But there is one feature I notice that is generally missing in cargo cult science. That is the idea that we all hope you have learned in studying science in school we never explicitly say what this is, but just hope that you catch on by all the examples of scientific investigation. It is interesting, therefore, to bring it out now and speak of it explicitly. It's a kind of scientific integrity, a principle of scientific thought that corresponds to a kind of utter honesty a kind of leaning over backwards. For example, if you're doing an experiment, you should report everything that you think might make it invalid not only what you think is right about it: other causes that could possibly explain your results; and things you thought of that you've eliminated by some other experiment, and how they worked to make sure the other fellow can tell they have been eliminated.
も ちろん、彼らが何を逃しているかを説明するのは当然私の役目だ。しかし、南洋諸島の島民に、自分たちのシステムに富をもたらすにはどうすべきかを説明する のは、ほぼ同じくらい難しい。イヤホンの形をどう改善すべきかを教えるような簡単なことではない。しかし、私が気づいたのは、カーゴカルト科学に一般的に 欠けている特徴があるということだ。それは、私たちが学校で科学を学んできた中で皆さんが学んできたであろう考え方である。私たちはそれを明示的に述べる ことはないが、科学的な調査のあらゆる例から皆さんが理解してくれることを期待しているだけである。したがって、今それを持ち出して明示的に述べるのは興 味深いことである。それは一種の科学的誠実さ、科学的な思考の原則であり、一種の徹底的な正直さ、一種の背伸びに対応するものである。例えば、実験をして いる場合、その実験を無効にする可能性があると思われることはすべて報告すべきである。正しいと思われることだけでなく、結果を説明できる可能性のある他 の原因、他の実験で除外したと考えたこと、そして、他の要因が除外されたことを確実に伝えるために、それがどのように作用したかについても報告すべきであ る。
Details that could throw doubt on your interpretation must be given, if you know them. You must do the best you can if you know anything at all wrong, or possibly wrong to explain it. If you make a theory, for example, and advertise it, or put it out, then you must also put down all the facts that disagree with it, as well as those that agree with it. There is also a more subtle problem. When you have put a lot of ideas together to make an elaborate theory, you want to make sure, when explaining what it fits, that those things it fits are not just the things that gave you the idea for the theory; but that the finished theory makes something else come out right, in addition.

In summary, the idea is to try to give all of the information to help others to judge the value of your contribution; not just the information that leads to judgment in one particular direction or another.
解 釈に疑念を抱かせるような詳細については、分かっている場合は必ず提示しなければならない。少しでも間違っている、あるいは間違っている可能性がある場合 は、できる限り最善を尽くして説明しなければならない。例えば、ある理論を立てて宣伝したり発表したりする場合は、それに反する事実も、賛成する事実もす べて提示しなければならない。さらに微妙な問題もある。多くのアイデアを組み合わせて精巧な理論を構築した場合、その理論が当てはまることを説明する際に は、当てはまるものが単にその理論のアイデアの元となったものだけではないことを確認したいと思うだろう。さらに別のことも正しく理解できるようにするこ とだ。要約すると、このアイデアは、自分の貢献の価値を判断するのに役立つ情報をすべて提供しようとするものだ。特定の方向や別の方向への判断につながる 情報だけでなく、すべてを提供しようというのだ。
The easiest way to explain this idea is to contrast it, for example, with advertising. Last night I heard that Wesson oil doesn't soak through food. Well, that's true. It's not dishonest; but the thing I'm talking about is not just a matter of not being dishonest, it's a matter of scientific integrity, which is another level. The fact that should be added to that advertising statement is that no oils soak through food, if operated at a certain temperature. If operated at another temperature, they all will including Wesson oil. So it's the implication which has been conveyed, not the fact, which is true, and the difference is what we have to deal with. こ の考え方を最も簡単に説明すると、例えば広告と対比するとよい。昨晩、ウェッソン社のオイルは食品に染み込まないという広告を聞いた。確かにその通りだ。 それは不正ではない。しかし私が言いたいのは、不正ではないということではなく、科学的な誠実さの問題であり、それは別の次元の話だ。その広告文に付け加 えるべき事実とは、ある一定の温度で調理すれば、どの油も食品に染み込まないということだ。別の温度で調理すれば、ウェッソンオイルも含めて、どの油も染 み込んでしまう。つまり、事実ではなく、その暗示が伝わっているのだ。そして、その違いこそが、私たちが対処しなければならない問題なのだ。
We've learned from experience that the truth will come out. Other experimenters will repeat your experiment and find out whether you were wrong or right. Nature's phenomena will agree or they'll disagree with your theory. And, although you may gain some temporary fame and excitement, you will not gain a good reputation as a scientist if you haven't tried to be very careful in this kind of work. And it's this type of integrity, this kind of care not to fool yourself, that is missing to a large extent in much of the research in cargo cult science.
私 たちは経験から、真実が明らかになることを学んできた。他の実験者があなたの実験を繰り返し、あなたの考えが正しかったのか間違っていたのかが明らかにな るだろう。自然の現象はあなたの理論に同意するか、それとも反対するかだろう。そして、一時的な名声や興奮を得ることはあっても、このような研究において 細心の注意を払おうとしなかった場合、科学者として良い評判を得ることはできないだろう。そして、このような誠実さ、自分自身を欺かないための注意深さ が、カーゴカルト科学の多くの研究に著しく欠けている。
A great deal of their difficulty is, of course, the difficulty of the subject and the inapplicability of the scientific method to the subject. Nevertheless, it should be remarked that this is not the only difficulty. That's why the planes don't land but they don't land.
もちろん、彼らの困難の多くは、主題の難しさと、その主題に科学的方法を適用できないことに起因している。しかし、これが唯一の困難ではないことに留意すべきである。だからこそ、飛行機は着陸しないが、着陸しないのだ。
We have learned a lot from experience about how to handle some of the ways we fool ourselves. One example: Millikan measured the charge on an electron by an experiment with falling oil drops, and got an answer which we now know not to be quite right. It's a little bit off, because he had the incorrect value for the viscosity of air. It's interesting to look at the history of measurements of the charge of the electron, after Millikan. If you plot them as a function of time, you find that one is a little bigger than Millikan's, and the next one's a little bit bigger than that, and the next one's a little bit bigger than that, until finally they settle down to a number which is higher.
私 たちは、自分自身を欺くいくつかの方法について、経験から多くを学んできた。その一例として、ミリカンは落下する油滴の実験によって電子の電荷を測定し、 現在では正しくないことが分かっている答えを得た。これは少しずれており、なぜなら彼は空気の粘度の値を間違えていたからだ。ミリカン以降、電子の電荷の測定の歴史を見てみると興味深い。それらを時間の関数としてプロットすると、1つはミリアンクの値より少し大きく、次の値はそれより少し大きく、次の値はそれより少し大きく、最終的にそれよりも高い値に収束していることがわかる。
Why didn't they discover that the new number was higher right away? It's a thing that scientists are ashamed of this history because it's apparent that people did things like this: When they got a number that was too high above Millikan's, they thought something must be wrong and they would look for and find a reason why something might be wrong. When they got a number closer to Millikan's value they didn't look so hard. And so they eliminated the numbers that were too far off, and did other things like that. We've learned those tricks nowadays, and now we don't have that kind of a disease.
な ぜ彼らは、新しい数値がすぐにもっと高い値になることに気づかなかったのだろうか? 科学者たちはこの歴史を恥じている。なぜなら、人々がこのようなことをしていたことは明らかだからだ。ミリカンの値よりもあまりにも高い数値が出た場合、 何かがおかしいに違いないと考え、何かがおかしいかもしれない理由を探し、見つける。ミリアンクの値に近い数値が出た場合、それほど一生懸命探さなかっ た。そして、彼らはあまりにもかけ離れた数字を排除し、そのようなことを行った。今では、私たちはそのようなトリックを学んでいるので、そのような病気に かからなくなった。
But this long history of learning how to not fool ourselves of having utter scientific integrity is, I'm sorry to say, something that we haven't specifically included in any particular course that I know of. We just hope you've caught on by osmosis.

The first principle is that you must not fool yourself and you are the easiest person to fool. So you have to be very careful about that. After you've not fooled yourself, it's easy not to fool other scientists. You just have to be honest in a conventional way after that.
しかし、科学的に完全に誠実であるかのように自分自身を欺かない方法を学ぶという長い歴史は、残念ながら、私が知る限り、特定のコースには含まれていない。ただ、皆さんが浸透によって理解してくれることを期待している。

第一の原則は、自分自身を欺いてはならず、自分自身を欺くのは最も簡単なことであるということだ。そのため、その点については非常に注意しなければならない。自分自身を欺かなくなった後は、他の科学者を欺かないのは簡単だ。その後は、従来通りの方法で正直でいればいい。
I would like to add something that's not essential to the science, but something I kind of believe, which is that you should not fool the layman when you're talking as a scientist. I am not trying to tell you what to do about cheating on your wife, or fooling your girlfriend, or something like that, when you're not trying to be a scientist, but just trying to be an ordinary human being. We'll leave those problems up to you and your rabbi. I'm talking about a specific, extra type of integrity that is not lying, but bending over backwards to show how you're maybe wrong, that you ought to have when acting as a scientist. And this is our responsibility as scientists, certainly to other scientists, and I think to laymen.
科 学的に重要ではないことだが、私が信じていることを付け加えたい。科学者として発言する際、素人を欺いてはならないということだ。妻への浮気やガールフレ ンドへの嘘など、科学者ではなく、ただの人間として行動しようとしているときにどうすべきかを教えようとしているわけではない。そういう問題はあなたとあ なたのラビに任せる。私が言っているのは、嘘をつくのではなく、自分が間違っているかもしれないことを示すために最大限の努力をするという、科学者として 行動する際に持つべき特定の特別な誠実さのことだ。そして、これは科学者として、特に他の科学者に対して、そして素人に対しても負うべき責任だ。
For example, I was a little surprised when I was talking to a friend who was going to go on the radio. He does work on cosmology and astronomy, and he wondered how he would explain what the applications of this work were. "Well," I said, "there aren't any." He said, "Yes, but then we won't get support for more research of this kind." I think that's kind of dishonest. If you're representing yourself as a scientist, then you should explain to the layman what you're doing and if they don't want to support you under those circumstances, then that's their decision.
例 えば、ラジオに出演する友人と話していたとき、私は少し驚いた。彼は宇宙論と天文学の研究をしているのだが、その研究がどのような応用分野があるのかを説 明できないのではないかと悩んでいた。私は「応用分野なんてないよ」と答えた。すると彼は「あるんだけど、そう言ったら、この種の研究に対する支援が得ら れなくなる」と言った。私は、それは正直ではないと思う。自分が科学者であると主張するなら、素人に自分が何をしているのかを説明するべきだし、そのよう な状況下で支援したくないというのであれば、それは彼らの判断に任せるべきだ。
One example of the principle is this: If you've made up your mind to test a theory, or you want to explain some idea, you should always decide to publish it whichever way it comes out. If we only publish results of a certain kind, we can make the argument look good. We must publish both kinds of results.
こ の原則の一例を挙げると、ある理論を検証しようと思ったとき、あるいはある考えを説明しようと思ったとき、どのような結果が出ても公表する決断をすべきだ ということだ。ある特定の種類の結果だけを公表すれば、議論をうまく進めることができる。両方の種類の結果を公表しなければならな
I say that's also important in giving certain types of government advice. Supposing a senator asked you for advice about whether drilling a hole should be done in his state; and you decide it would be better in some other state. If you don't publish such a result, it seems to me you're not giving scientific advice. You're being used. If your answer happens to come out in the direction the government or the politicians like, they can use it as an argument in their favor; if it comes out the other way, they don't publish it at all. That's not giving scientific advice.
私 は、特定の政府へのアドバイスを与える上でも、それが重要だと言っている。ある上院議員が、自分の州に穴を開けるべきかどうかについてアドバイスを求め、 あなたが他の州の方が良いと判断したとしよう。そのような結果を公表しなければ、それは科学的アドバイスではないように思える。利用されているのだ。もし あなたの答えがたまたま政府や政治家の望む方向に出た場合、彼らはそれを自分たちの主張の根拠として使うことができる。もし反対の結果が出た場合は、彼ら はそれをまったく公表しない。それは科学的アドバイスではない。
Other kinds of errors are more characteristic of poor science. When I was at Cornell, I often talked to the people in the psychology department. One of the students told me she wanted to do an experiment that went something like this it had been found by others that under certain circumstances, X, rats did something, A. She was curious as to whether, if she changed the circumstances to Y, they would still do A. So her proposal was to do the experiment under circumstances Y and see if they still did A.
そ の他の種類のエラーは、科学の質の低さを示すものである。コーネル大学にいた頃、心理学部の学生たちとよく話をした。ある学生は、次のような実験をしたい と私に話してくれた。ある状況下において、XというラットがAという行動をとることは、他者によって発見されていた。彼女は、状況Yに変えた場合、ラット がAという行動をとるかどうか興味があった。そこで、彼女は状況Yで実験を行い、ラットがAという行動をとるかどうか確認するという提案をした。
I explained to her that it was necessary first to repeat in her laboratory the experiment of the other person to do it under condition X to see if she could also get result A, and then change to Y and see if A changed. Then she would know that the real difference was the thing she thought she had under control.
私 は彼女に、まず彼女の研究室で、条件 X の下で実験を繰り返し、彼女も結果 A が得られるかどうかを確認し、次に Y に変更して A が変化するか確認する必要があることを説明した。そうすれば、彼女がコントロールできていると思っていたことが、実際には違っていたことがわかるだろう。
She was very delighted with this new idea, and went to her professor. And his reply was, no, you cannot do that, because the experiment has already been done and you would be wasting time. This was in about 1947 or so, and it seems to have been the general policy then to not try to repeat psychological experiments, but only to change the conditions and see what happens.
彼 女はこの新しいアイデアにとても喜び、教授のもとに相談に行った。すると教授は、実験はすでに終わっており、時間を無駄にするだけなので、それはできない と答えた。これは1947年頃の話だが、当時は心理実験を繰り返さず、条件を変えて何が起こるかを観察する、というのが一般的な方針だったようだ。
Nowadays there's a certain danger of the same thing happening, even in the famous field of physics. I was shocked to hear of an experiment done at the big accelerator at the National Accelerator Laboratory, where a person used deuterium. In order to compare his heavy hydrogen results to what might happen with light hydrogen, he had to use data from someone else's experiment on light hydrogen, which was done on different apparatus. When asked why, he said it was because he couldn't get time on the program (because there's so little time and it's such expensive apparatus) to do the experiment with light hydrogen on this apparatus because there wouldn't be any new result. And so the men in charge of programs at NAL are so anxious for new results, in order to get more money to keep the thing going for public relations purposes, they are destroying possibly the value of the experiments themselves, which is the whole purpose of the thing. It is often hard for the experimenters there to complete their work as their scientific integrity demands.
今 日では、有名な物理学分野ですら、同じことが起こる危険性がある。私は、国立加速器研究所の大規模加速器で行われた実験について聞いたとき、衝撃を受け た。重水素を使った実験で、軽い水素を使った場合の結果と比較するために、別の装置で行われた軽い水素に関する他人の実験のデータを使わなければならな かったのだ。その理由を尋ねると、彼は「この装置で軽い水素を使った実験をしても、新しい結果を得られないので、その実験をするためのプログラムの時間 (時間が非常に少なく、装置が高額であるため)を確保できなかった」と答えた。そのため、NALのプログラム担当者は新しい結果を得ることに非常に熱心で あり、広報目的のために事業を継続するための予算を増やすために、実験そのものの価値を損なう可能性もある。 科学的な誠実さが要求される中で、そこで働く実験者たちは仕事を完了させることが難しい場合が多い。
All experiments in psychology are not of this type, however. For example, there have been many experiments running rats through all kinds of mazes, and so on with little clear result. But in 1937 a man named Young did a very interesting one. He had a long corridor with doors all along one side where the rats came in, and doors along the other side where the food was. He wanted to see if he could train the rats to go in at the third door down from wherever he started them off. No. The rats went immediately to the door where the food had been the time before.
し かし、心理学における実験のすべてがこのようなものではない。例えば、ネズミをさまざまな迷路に通す実験は数多く行われてきたが、明確な結果は得られてい ない。しかし、1937年にヤングという人物が行った実験は非常に興味深いものだった。彼は、ネズミが入るドアが片側に一列に並んだ長い廊下を用意し、反 対側には餌が置かれたドアを用意した。彼は、ネズミをどこからスタートさせても、3番目のドアから入るように訓練できるかどうか試したかったのだ。しか し、結果はノー。ネズミたちは、前回餌があったドアにすぐに走って行った。

The question was, how did the rats know, because the corridor was so beautifully built and so uniform, that this was the same door as before? Obviously there was something about the door that was different from the other doors. So he painted the doors very carefully, arranging the textures on the faces of the doors exactly the same. Still the rats could tell. Then he thought maybe the rats were smelling the food, so he used chemicals to change the smell after each run. Still the rats could tell. Then he realized the rats might be able to tell by seeing the lights and the arrangement in the laboratory like any commonsense person. So he covered the corridor, and still the rats could tell.
問 題は、ネズミたちはなぜ、廊下がとても美しく、均一に作られていたため、これが以前と同じドアだとわかったのか、ということだった。明らかにドアには他の ドアとは違う何かがあった。そこで彼はドアをとても慎重に塗り、ドアの表面の質感をまったく同じように整えた。それでもネズミたちはわかった。そこで彼 は、もしかしたらネズミたちは食べ物の匂いを嗅いでいるのかもしれないと考え、実験のたびに化学薬品を使って匂いを変えた。それでもネズミたちは気づいて しまった。そこで彼は、ネズミたちは、普通の常識的な人間と同じように、研究室の照明や配置を見て判断しているのかもしれないと考えた。そこで彼は廊下を 覆い隠したが、それでもネズミたちは気づいてしまった。
He finally found that they could tell by the way the floor sounded when they ran over it. And he could only fix that by putting his corridor in sand. So he covered one after another of all possible clues and finally was able to fool the rats so that they had to learn to go in the third door. If he relaxed any of his conditions, the rats could tell.
彼 は最終的に、床を走ったときに聞こえる音で分かることに気づいた。そして、廊下を砂で覆い隠すことでしか解決できなかった。そこで彼は、考えられるすべて の手がかりを次々と覆い隠し、ついにネズミを欺くことに成功した。ネズミたちは3つ目のドアから入ることを覚えなければならなくなった。もし彼が条件を一 つでも緩めたら、ネズミたちはそれを察知することができた。
Now, from a scientific standpoint, that is an Anumberone experiment. That is the experiment that makes ratrunning experiments sensible, because it uncovers the clues that the rat is really using not what you think it's using. And that is the experiment that tells exactly what conditions you have to use in order to be careful and control everything in an experiment with ratrunning.
科 学的な見地から言えば、これは「アナンバーワン実験」だ。この実験は、ネズミが実際に使っているのはあなたが考えているものとは違うという手がかりを明ら かにしてくれるため、ネズミを使った実験を意味のあるものにしている。そして、ネズミを使った実験で注意深くすべてをコントロールするためには、どのよう な条件を使用しなければならないかを正確に教えてくれる実験でもある。
I looked into the subsequent history of this research. The next experiment, and the one after that, never referred to Mr. Young. They never used any of his criteria of putting the corridor on sand, or being very careful. They just went right on running rats in the same old way, and paid no attention to the great discoveries of Mr. Young, and his papers are not referred to, because he didn't discover anything about the rats. In fact, he discovered all the things you have to do to discover something about rats. But not paying attention to experiments like that is a characteristic of cargo cult science.
私 はこの研究の後続の歴史を調べた。次の実験、そしてその次の実験では、ヤング氏のことは一切言及されていなかった。通路を砂の上に置くことや細心の注意を 払うことなど、彼の基準は何も使われていなかった。彼らはただ、これまでと同じやり方でネズミを走らせ、ヤング氏の偉大な発見には全く注意を払わず、彼の 論文も参照されなかった。実際、彼はネズミについて何かを発見するために必要なことをすべて発見した。しかし、そのような実験に注意を払わないのは、カー ゴカルト科学の特徴である。
Another example is the ESP experiments of Mr. Rhine, and other people. As various people have made criticisms and they themselves have made criticisms of their own experiments they improve the techniques so that the effects are smaller, and smaller, and smaller until they gradually disappear. All the parapsychologists are looking for some experiment that can be repeated that you can do again and get the same effect statistically, even. They run a million rats no, it's people this time they do a lot of things and get a certain statistical effect. Next time they try it they don't get it any more. And now you find a man saying that it is an irrelevant demand to expect a repeatable experiment. This is science?
も う一つの例は、ライン氏をはじめとする人々のESP実験である。さまざまな人々が批判を行い、彼ら自身も自分たちの実験を批判することで、その効果は徐々 に小さくなり、さらに小さくなり、そして最終的には完全に消失するまで、その手法を改善していく。超心理学者は皆、統計的に見ても、同じ効果を再現できる 実験を探している。彼らは何百万匹ものネズミを実験に使っている。いや、今度は人間だ。彼らは多くのことを試して、統計的に一定の効果を得ている。次に試 しても、それ以上の効果は得られない。そして今、ある人物が、再現性のある実験を期待するのは無意味だと言っている。これが科学なのか?
This man also speaks about a new institution, in a talk in which he was resigning as Director of the Institute of Parapsychology. And, in telling people what to do next, he says that one of the things they have to do is be sure they only train students who have shown their ability to get PSI results to an acceptable extent not to waste their time on those ambitious and interested students who get only chance results. It is very dangerous to have such a policy in teaching to teach students only how to get certain results, rather than how to do an experiment with scientific integrity.
こ の人物は、超心理学研究所の所長を辞任する講演で、新しい機関についても語っている。そして、次に何をすべきかを人々に伝える中で、彼らがすべきことの1 つは、PSIの結果を許容できる程度に得る能力を示した学生だけを訓練することであり、チャンスの結果しか得られない野心的な学生や興味本位の学生に時間 を無駄にさせないことだ、と述べている。学生に、科学的に誠実な実験を行う方法ではなく、特定の結果を得る方法だけを教えるような教育方針は、非常に危険 である。
So I have just one wish for you the good luck to be somewhere where you are free to maintain the kind of integrity I have described, and where you do not feel forced by a need to maintain your position in the organization or financial support, or so on, to lose your integrity. May you have that freedom. だから、あなた方への私の唯一の願いは、私が述べたような誠実さを維持できる自由な場所で、組織内での地位や金銭的な支援などを維持する必要に迫られて、誠実さを失うようなことがないように、ということです。そのような自由があなた方にありますように。


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文献

Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099

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