かならず読んでく ださい

排尿ケアの看護人類学
池田光穂

 排泄に関する社会的文化的考察は現在までに多 数著されてきた(参考文献にあるスチュアートヘンリ氏の文献リストを参照のこと).ここでは,すでに分かっている事柄をまとめ,なおかつ私の主張を加えて 次のような4つの項目にまとめてみる.

 排泄現象を考える4つの項目

(1)排泄の生理と行動は社会的に学習される.
(2)排泄と羞恥心のむすびつきには,社会差や個人差が大きく影響する.
(3)ジェンダー(社会的性差)によって排泄の意識は異なる.
(4)排泄のケア技術を社会的に還元しよう.

 この項目を念頭において以下を読み進めていただければ,私の論点と主張が要領よく整理されてくるはずである.

排尿と人間の尊厳

 アメリカン・ニュー・シネマの傑作にジョン・シュレジンジャー監督の『真夜中のカウボーイ』(1969)がある.田舎から出てきて一旗あげようとするカ ウボーイと,彼にとりついて金持ちの有閑夫人へのポン引きを買ってでるホームレスの詐欺師が織りなす人間ドラマである.やがて詐欺師は重い病気になり,寒 いニューヨークから暖かい南のマイアミに旅することを夢見る.カウボーイは病気が重くなった詐欺師を長距離バスに乗せてマイアミへの旅行に出る‥‥.
 バスの後部座席で突然しくしく泣き出す詐欺師に,カウボーイはその理由を尋ねる.詐欺師はおしっこの「お漏らし」をしたことを恥じて泣き出したのであ る.
 排尿のケアについて考える時に,一番最初に私の頭の中に思いめぐったことは,映画のこの情景である.ひどく狼狽する詐欺師に対して,カウボーイは詐欺師 のことを咎めだてることがない──それほど彼の病状は悪いのだろうか? そして,このことは映画を観ている私をひどく安心させる──ケアとは「咎めだてし ない」寛容性のことなのではないかと.
 しかし,これでは読者にはあまりに唐突かも知れない.要点を整理してみる.
 我々にとって,排泄が自発的にコントロールできなくなることは恐怖である.思い出してほしい.幼稚園や小学校で,お漏らしをした子供が劣等の烙印を押さ れて,みんなから仲間はずれにされたことがないだろうか? 
 排泄の生理現象を感じとって,それを自己の身体の管理下におくことは,幼児の社会化にとって不可欠の経験であると同時にきわめて達成感の高い経験なの だ.そのため,さまざまな文化には排泄に関わる慣習があり,それを幼児に訓練することがおこなわれる.排泄と性欲に関する幼児への訓練は,どの民族や文化 においても人間成長の早い時期におこなわれ,比較的タブーに縛られることも多い.だからこそ,そのような社会では不本意にも「お漏らし」をすることは,き わめて心傷つくことなのである.
 人間が排泄の生理現象をコントロールすると同様に,社会制度や慣習は,また同時に,排泄物をコントロールする.しかし,その度合いは社会によって実に様 々である.排泄物をタブーの対象にして深く忌み嫌う社会がある一方で,比較的寛容である社会もまた他方にある.これは,経血や精液へのタブー視がある一方 で,それらを生命の源泉として敬う信仰が他方にあるように,大きな多様性がある.
 我々はそのような現象の多様性から1つの一般的原則を導くことができる.生理学的なものも含めて排泄は,人間においては高度に社会化されたものであると いうのが,それである.したがって,排泄にまつわる羞恥心も,またそれにもとづく人間の尊厳という考え方も,そして人間の尊厳に応えるケア概念もまた,文 化的に構築されるものである.

排尿のジェンダーによる差異

 排泄は日常生活の中で最も簡便に得られるエロス的快感である.ここで私は,スカトロジック(糞便趣味)的な性欲のことを言うのではない.そうではなく, 排尿にせよ排便にせよ,それらは身体の健康のバロメータであり,またさまざまな社会において,そのことを認める社会は多いことを言っている──もっとも排 泄の快感を社会的につまびらかにするか否かについての差異は大きい.ともに老廃物を身体に放出する行為が,その快感の源泉になっているのであるが,そこに は自ずから社会的に規定された男女の差異,つまりジェンダーによる違いがあるようだ.
 というのは,男性には射精というもうひとつの排泄があるからだ.男性の連れションは,しばしば小便の飛ばし合いを引き起こす.小便を遠くへ飛ばすこと は,精液を遠くへ飛ばすこと,つまり精力の強さを競ったり,性器の大きさを競ったりすることと関係している.もちろん,連れションする男性たちが,このよ うな意識を常に持つということではなく,小便を高く遠くまで飛ばすことは,精力の強さの隠喩になっており,ほのめかされる際にのみ意識される.このことか ら,小便小僧が,狭義の性行為を行わない子供であることも,肯ける.
 また日本の男性は,小便の後ブルブルと簡単に身体を揺らしてペニスをズボンにしまうが,モスレム(イスラム教徒)の男性は,あたかも小便を一滴も残さず にペニスを念入りにしごいてからチャックを閉じる.これは幼児の頃からしつけられてきた結果であるが,ペニスをやたらいじらないことが重要なのか,尿道に 小便が残さないことが重要であるかの違いがここに現れている.
 女性──ここでは日本の若い女性のことをさす──の排尿行動は,これとは趣を随分と異にする.排尿の音すら水洗トイレの音にかき消される.また女性は男 性よりもトイレットペーパーの消費量が多いが,その主要な理由は,小便の際にふき取るのみならず,経血のついた生理用品をペーパーでぐるぐる巻きにして捨 てるからだということが,関係の会社の調査等で明らかにされている.
 これらのことを日本女性の奥ゆかしさと解釈するか,資源の無駄使いと理解するかは別にしても,男性に見られるような性行為の隠喩を見つけることはできな い.アリストファネスの『女の平和』にも女性同士の連れションの場面があるので,古代ギリシャと同様,排尿においては男性よりも性的な要素よりも,そうで はない社交的な儀礼がより強く出されるのかもしれない.この問題は,むしろ読者のあいだで十分討論してほしいテーマである.

終わりなき排尿のケア

 排尿はきわめて日常的な現象ではあるが,それを観察することはきわめて重要なこととされてきた.利尿剤や人工透析が使われる以前は,小便が有無やその状 態を知ることは,病人の生命活動にとって知るための,最も権威のあるバロメーターであった.尿や便は,人間の健康状態を知るための鏡であり,育児や看護に おける基本的な知識は,それらのチェックの中で培われてきたのである.
 他方,排尿の生理的な感覚を含めて,排尿現象そのものは,きわめて社会的なものである.だからこそ,そこから逸脱したり失敗すると,人間は羞恥の念を抱 き,また自分の身体の変調に深い悲しみを感じる.
 現代日本の住宅環境の急速な変化は,排泄の伝統的な概念や継承されてきた行動様式そものものに大きな影響を与えた──雪隠や便所神はもはや死語といって も過言ではない.総じて,現代日本人は排泄物への強いタブー意識を伝統的に持ち,現代では排泄物の脱臭や芳香に過剰に神経をすり減らしてきた嫌いがある. そのため,排便や排尿におけるおかしさや笑いという解放的な要素を抑圧して,糞便と正面切って向き合うことを,患者のみならず看護者も避けるようになって きた.そのため,医療器具のすばらしい進歩に対して,排泄に関する人間科学的なケア技術は我々の社会の文化的伝統の中に十分生かされていないどころか,い よいよ衰退するばかりなのである.
 福祉型の医療へのニーズの増大に伴って,看護領域におけるケア技術が,今後ますます社会に還元されてゆく必要がある.かつては,患者の日常生活態度を理 解するために社会的文化的背景を知ることが看護者に要求されてきたが,今後は看護者がさまざまな分野で,それまで培ってきたケア技術を社会に移転する必要 が生じてくるだろう.排尿の援助は,その実践の社会的意義を考える格好の実例になろう.


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