ゴンサーロ・フェルナンデス・デ・オビエド・イ・ヴァルデス
『ラス・インディアスの一般史と自然史』(1535年)
(通称は、デ・オビエド、あるいはオビエド):解説は池田光穂
「エスパニョーラ島(イスパニョーラ島:現在のハイチとドミニカ共和国のある)において、サンクト・ホワン(サンファン)島のインディ オたち(先住民)の間に聞き知れていることにつき、あるいは知られている。彼らのことにつき、この島はきわめて巨大で、人口も稠密であ り、その人口は彼の地の土着の者(ナチュラーレス)で溢れていた、キリスト教徒による支配は不可能だと信じられていた。むしろそれどころ か[キリスト教徒は]不死のごとくしなければならぬ、つまり負傷を負いても、我々が死ぬであろう災厄においても不死でなければならぬ。そ うして、日出ずる方角にどのようにたどり着いたか、かくのごとく闘い、それは神の民かつ太陽の子孫であり、インディオたちは防衛力におい て、さほど能力を持たなかった。かくして、サンクト・ホワン島にやってきて、キリスト教徒においては、だいたい概数において二百名を数え なかったにもかかわらず、ほどなく島の奥に入り、島の首長たちを征服した、その[二百名の]男たちは武器を取り、支配するまでは諦めない ことを誓い、[インディオに]仕えることを拒み、自らの解放を得ることを望んだ。ところが[それゆえに?キリスト教徒である]連中を畏 れ、彼らは不死であると考えた。
かくして、島の首長たちは、このことについて議論するために、極秘に集まり、反逆に転じる前に、意見を合致させた、それは十分に実験 することであり、まず最初に問い、次に疑念を晴らし、不服従の、あるいは、はぐれたあるいは一人きりになったキリスト教徒において、その 経験を確かめることにあった。ヤグアカ地方の領主で、ウラヨアンと呼ばれる首長(カシーケ)が、その任務につくことになった。ウラヨアン の領地をたまたま通りかかった、若者のサルセドがキリスト教徒のいるところへ向かうところであった、そして[彼らは]贈り物を、衣類など の荷物を運ぶことを申し出、15人から20名のインディオを従えたこのカシーケを派遣した、そして[若者を歓待し]飽食で満たし、慈愛あ ることを示した。若者は、それに対して安心し、彼を受け入れてくれたカシーケに対して感謝の念をもった、この島の西部にあり、サンクト・ ヘルマンの町の広場に入る方角にある、グアラボという川を渡る段になって、カシーケたちは彼に「旦那、[この川を]濡れずにお渡りになる ことを望まれますかい?」と言った。彼はハイと返事をし、また連中に対して喜んだ。本当はそうではなく、喩えそうだとしても、その敵ども に信頼を寄せる明らかな危険性があったのにも関わらずなのであるが、僅かばかり思慮により、そのようなことを成すことになる、男どもが申 し出たのである。丈夫で屈強なインディオたちが選ばれ、肩車をして[彼を]乗せ、川の中流に至った時に、彼を川の水に浸け、連中の下に沈 め、彼の死を完全に確かめるまで、完全に溺死するまで、そこに留め置き、そして彼を担いで川を渡り切った。完全に彼が死んだのを確かめ、 川岸に死体を置き、そしてこう言った:「サルセドの旦那、さあ起きなされ、わしらを許してくだされ、わしらといっしょにこけてしまいまし たが、それは道の途中でさ…」。このような問いかけを[死体が]匂ってくるまで、キリスト教徒が死なずまた死体ではないことをもはや信じ なくなるまで、ほぼ3日間続けた。
そうして[キリスト教徒たちが]死す運命にあることをやがて確認した後に、以上私が申し述べたように、カシーケもまたそれを知ること になった、[しかしながら]カシーケは、毎日、他のインディオたちを遣わせて、サルセドが起き上がるかどうかを確認させた。それが真実で あっても疑い、やがて彼自身がみずからそれを観ることを求めた、かなりの日数が過ぎてから、あの罪人[=サルセドの遺体]が、ひどく傷み また腐りきり朽ち果てるのを観たのである。かくのごとく大胆なことをおこない、その反逆のために確認をし、キリスト教徒の殺戮を企てたの であり、私がこの章にて述べた、煽動と実行に移したものなのである」。
Historia general y natural de las Indias (1535)
Gonzalo
Fernandez de Oviedo y Valdes, 1478-1557
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■池田光穂(このページの和訳者)によるコメント
このオビエドの記載にインスパイアされレヴィ=ストロースは『人種と歴史』(英語は Structural Anthropology 2, Penguin, p.329, 1971)のなかで、先住民による「実証主義」的精神あるいは推論様式の共通性について論じている。これは、その後の『野生 の思考』につながる、人間の知性の普遍性や共通性の議論の出発点になるものであると言える。これを解説するレヴィ=ストロース自身の解説 は下記のとおりである。
しかしながら、オビエドのこの文章を読む際に、彼の報告をそのまま「直接観察の記録」あるいは「民族誌的観察記述」として読むわけに いかないことに留意する必要がある。
サンクト・ホワンの先住民の首長(カシーケ)たちの推論と、それの実証的精神には、まさに目を見張るものがある。しかし、修道士のク ロニスタの記録には、さまざまなキリスト教文化による「潤色」の疑いがあることも忘れてはなるまい。まず事実関係において、次のような疑 問や問題のテーマが生じる。
1)サンクト・ホワンの先住民の首長(カシーケ)たちは、キリスト教徒たちと合間見え交流する機会があったと思われるのに、白人の死 には出会っていないのか?
2)白人たちは、先住民たちを平定し、かつカソリックに改宗させるために「魂(盈e)の不滅性」を説いたのであ り、肉体性の不滅を主張したのではないのか?
つぎに、このような事実関係がクリアされていたら、白人と先住民の間の思考のやりとりの過程において、つぎのような命題が交わされて いる必要がある。
3)もしそうだとしたら、スペインの白人たちは、デカルトより以前に(勿論デカルトとは異なった様式での)心身二元論のすでに知って いたことになる。
4)そして、サンクト・ホワンの先住民たちは、白人との交流のなかで、この霊魂と身体の二元論(前者は不滅で後者は朽ち果てるもの) を理解できなかったことになり、またその説明の(彼らの)心身一元論にもとづいて実証する、つまり肉体が朽ち果てても魂が不滅ゆえに、サ ルセドの魂が溺死した後にも答えるはずだと考えた。
ところが、この「証明」をめぐる問題は、オビエドの記述に従うと、白人の不死が証明されなかったゆえに、先住民は僭越にも?白人に対 して刃向かうことになった。つまり、先住民は白人と、同じような身体のステータスを有することがわかり、(畏敬すべき)白人の言うことを 聞かない「理由」になったのである。しかしながら、オビエドの論述には、このように先住民が考えたことについての推論が見当たらない。ど ちらかというと他のクロニスタ同様むしろ、白人に刃向かう生意気な先住民の風貌をよろしく伝えたものになっている。それは、ウラヨアンの サルセドに対する語りや、肉体が朽ち果てるまで、しつこく観察を続けたサンクト・ホワンの先住民はどうも滑稽(つまり奇譚として)に描か れている。
長くカソリック圏とりわけ民衆的カソリシズムの世界で調査した人類学者ならば、これは福音書にある死後の復活を遂げたイエス・キリス トのエピソードと、教徒はきたるべき最後の審判まで死後の肉体を「休ませておく」ことの慣習の影響を多く受けていることに気づくはずだ。 また、スペイン人たちが先住民に対して布教する際にも、カソリシズムが準備する肉体の牢獄性や朽ち果てやすさ(メメント・モリ)と、魂の 不死性を主張したはずだ。このカソリック神学による説明は、即物的な先住民の実証実験の前にもろに崩れ去る。しかし、この証明の重要さに 白人は気付いていないことが、今日におけるレヴィ=ストロースの説明以降を生きる私たちに大きな示唆を与える。
これは、クロニスタによる記録が改宗前の先住民が、いかに浅薄で愚かであるのかというメッセージを伝えており、レヴィ=ストロースの 説明あるいは再解釈は(北米人類学の流儀の影響も受けた)、その知性の外的表象化における多様性の背景にある、人間の知的推論過程の共通 性へと(読者を誘い)転換させるものになっていることでもある。
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