エコ・ツーリズムの思想(1995)
On Ecotourism ideology in modern Japan
解説:池田光穂
本日は記念すべき第一回イルカ研究会議に招かれ、発表できることを大変光栄に存じます。しかしながら、私の研究領域は文化人類学であり、その 対象はイルカではなく、人間であります。また今回の発表において私が論じることは、観光や自然保護に向かう現代人が直面している問題であり、全く関係がな いとは言えませんが、とにかくイルカが直面する問題ではありません。
一言でいうならば、イルカの研究ではなく、イルカ・ウオッチャーの研究について関心があるのです。現在までに私は中南米やカリブ海で、国家政策 としての医療と人びとの身体観、エコ・ツーリズムの比較研究などに従事してきました。しかし、イルカに関しては一夜漬けの勉強の知識水準で、今回の会議では たぶんもっとも素人に近い位置にいます。どうか、お手柔らかにお願いします。(→イルカと 日本人)
しかし、どんな領域の専門的な議論でも、素人の考え方の感性を忘れてしまうわけにはまいりません。専門家に対して劣る素人でなく、専門家が陥る ような狭い領域での関心から自由に、大胆に発言できるという特権や感性があることを強調したいと思います。現在の私が専攻する文化人類学は、人びとが抱く具体的な印象や意見から、人びとが共同して創っている文化の意味 について考える学問なので、知識のアマチュアリズムに方法論的に関心を寄せないわけには参りません。
さて、前置きはこれくらいにします。本日は、エコ・ツーリズムについて、これを社会現象として捉えたときに、私自身が気づいたいくつかの特徴に ついてご紹介します。
1.エコ・ファシズムの時代
まず、エコ・ツーリズムを可能にしたエコロジーという学問の成立とそれが二〇世紀の我々の生活に与えた影響ということを考えてみましょう。
一九世紀末のヨーロッパでは共産主義という妖怪がうろついていました。そして二〇世紀末の現在世界を——とくに先進国を中心に——うろついて いるのは、これはなんと言ってもエコロジーではないでしょうか。このエコロジーという怪物は、共産主義の落とし子である冷戦が、産湯とともに流されてし まった後の時代に、めきめきと頭角を現した代物です。
しかし、エコロジーの起源は、一九世紀の科学主義が生み出した共産主義と同じ頃、すでに誕生していました。生態学は、生理学のサブディシプリ ンである関係生理学、つまり生物と周りの環境の関係を生理学的にアプローチする分野として出発した。最初の命名者はドイツの生物学者ヘッケル (Haeckel,1866)で、彼は生態学(エコロギーまたはビオノミー)を「生活する有機物の外界に対する関係、その住処、その生活上の習慣およ び仲間、害敵、寄生虫、その他に関する学問」(『生命の不可思議』上:90:訳改)と位置づけました。
この近代科学としてのエコロジーは、科学主義が席巻していた一九世紀初頭には、すでに衰退しかけていた博物学(Natural History)に再び命を吹き込みました。この甦った新・博物学は、つねに科学としてのエコロジーから理論的事実を栄養として供給され、今日のディー プ・エコロジーに代表される全体論的あるいは正確に言えばオカルト的なエコロジーとして今日まで命脈を保っています。というよりも、強迫的な環境主義とし てのエコロジーの支柱をなすほどに成長しました。
他方、自然科学としてのエコロジー——ここでは日本語の生態学と呼びますが——は、フィールド・データを理論化および数量化することに専念 し、論証を理論や事実によって覆すことができる、いわゆる反証可能性を得て、科学としての地位を得ることになります。植物生態学では、実験生理学の野外化 をとげ生理生態学が成長し、動物生態学では、進化を基調にした行動生態学からエソロジーと個体群生態学への二大分極化をとげます。また個体群生態学は植物 生態学にもスピンオフし、相互に理論的に発展を遂げます。
このような自然科学としての王道を歩むようになった背景には、一九六〇年代に環境科学を担う一翼としての生態学に期待するところもありまし た。北米の環境環境問題や連邦宇宙局(NASA)の宇宙開発は、環境を科学的演繹的に把握する必要に拍車をかけました。六五年にはIBP(国際生物学事業 計画1965-1972)が始まり、地球上の生態系における生物生産を測定、今日の生態系把握のためのスタンダードになりました。IBPは七二年に終わり ましたが、七二年にはストックホルム国連人間環境会議が開催され、IBPを引き継いで「人間と生物圏 Man and the Bioshere」計画が提唱しユネスコがそれを推進しました。
そして六〇年代は先進国では公害をはじめとする環境汚染が深刻化した時代でした。環境保護のイデオロギーとしてのエコロジーは、地球サイズで ものごとを考える、こんにちでは当たり前の思想に発展しました。これについてはさほど説明が必要ないと思います。
みんなが環境意識にめざめて、地球全体を行く末を考えることは決して悪い考えではありません。しかし、そのような考え方、つまり思考法は、エ コロジーの歴史的発展や二〇世紀末の政治的な思想と無縁ではないと自覚していなければ、それは単なる宗教でしかありません。このような時代、すなわち日常 生活の中でも地球環境問題を考えなければならないという強迫の時代をエコ・ファシズムの時代と名付けられるかも知れません。そして、そのファシズムをかた ちづくっているのは、単一の生態学理論ではなく、近代に登場した環境をめぐるさまざまな思想や理論の雑多な集合であります。
このエコ・ファシズムの時代にはヒトラーのような独裁者はいません。また人びとのエコロジーの受容も、属している社会集団や文化的状況——す なわち広い意味での「環境」——を反映して極めて多様です。おまけに情報通信の発達で、同じ価値観をもつ人がいつも一緒に住んでいる必要もなくなりまし た。したがって、環境をめぐってさまざまな争いが起こっていますが、その戦場は平板なものではなく、きわめて多様な次元で起こっています。そして、誰もが 簡単に、その日からエコ・ファシストになれることができるのです。
私は、東南アジアで森林伐採をつづけるある日本の企業に対して、熱帯雨林アクションネットワークというNGOを通して抗議声明を行いました。 これらはインターネットとよばれる双方向の一種の電子メールを介してキーボードタイプすることで、容易に会社にファクスをおくりつけることができます。ま た、ゴミを資源ゴミと生ゴミにわけることができない学生をみると、ムカッときますが、これもまた私がエコ・ファシストの片割れである証拠かもしれません。
2.アモルファスな定義
このような状況のもとで今日のエコ・ツーリズムはどのような地位に位置づけるられるでしょうか。ここでまず、エコ・ツーリズムという用語の定義に ついて考えてみましょう。
第一点は、エコ・ツーリズム(生態観光)あるいはエコロジカル・ツーリズム(生態学的観光)について、それを紹介する人たちの「定義」が多様な ことです。ほんらい定義は簡単で分かりやすいものなければ困るのですが、聞き慣れないこの言葉にエコ・ツーリズムを紹介する人たちは思い思いの意味を付ける のです。
エコ・ツーリズムは、エコロジーとツーリズムの合成語ですから、観光と自然の2つのうちどちらを強調するかで色分けすることができます。
まず、観光の側からの立場です。例えば朝日新聞社の現代用語集である『知恵蔵』(九三年度版)では「エコ・ツーリズム」に対して「自然環境と の共存を図り、先住民の文化から学びながら、新しい旅の文化を生み出そうとの動きをいう」と紹介しています。しかし、これでは観光の人類学的研究の領域で 謂うところのエスニック・ツーリズム(民族観光)と区別がつかなくなります。民族観光とは、しばしば異国情緒=エキゾチズムを醸し出す少数民族の人びとの 「珍しい」慣習に触れることを目的とした観光です。見る人と見られる人びとの慣習の違いが観光の魅力となります。しかし、歴史的に見て観光する側がつねに 政治的・経済的優位にたっていることが多かったので、民族的偏見や相手の民族に対する固定的で本質主義的な見方、例えば「今も変わらない伝統を保ち続ける 人びと」という人間観を助長することとなる場合も多いのです。これは『知恵蔵』の執筆者が、先住民を自然な存在として位置づける啓蒙主義時代の「高貴なる 野蛮人」の見解をいまだに引きずっているからです。また、知恵蔵の定義では、「新しい旅の文化」と言っていますが、これも具体的な説明がなければ、いった い何のことなのか分かりません。何か新しくて重要なことである、と言いたいのでしょうか。観光産業の立場を代弁する人は、このような戯言をよく吐きます。 観光を推進したいという動機のほうが先にきて、理由が後にくるからです。
他方、自然の側からの定義をみましょう。財団法人日本自然保護協会では、次のようにエコ・ツーリズムを定義します。
「旅行者が、生態系や地域文化に悪影響を及ぼすことなく、自然地域を理解し、鑑賞し、楽しむことができるよう、環境に配慮した施設および環境教 育が提供され、地域の自然と文化の保護・地域経済に貢献することを目的とした旅行形態」(日本自然保護協会『NACS−J エコ・ツーリズム・ガイドライ ン』同協会、1994年)これもまた玉虫色の定義ですが、環境保全とその管理教育の思想が全面にでています。
観光の側に立つにせよ、自然の側に立つにせよ、これらの定義には、観光と自然が共存するという暗黙の前提があります。これこそがエコツーリズ ムひいてはエコロジーに付された大衆のイメージであり、現代人はそれを希求しているといえます。「地球にやさしく、自然と親しむ観光」。これこそがエコ ツーリズム=生態観光の旗印に他なりません。
他方このようなおめでたい意味づけに対して批判する人たちもおります。広大な熱帯雨林を抱えるブラジルの民俗学者とかつて話をした時に、彼は エコツーリスト(生態観光客)について次のようなことを語ってくれました。
「生態環境をただ楽しむだけの観光客で、小型の飛行機で移動し観光サイトを巡る欧米の少数者の旅行グループだ。その際に少数の民族集団と接触す るのでその現地社会に与える影響は大きい」と。彼にとってエコツーリストは現地文化を破壊(?)する「厄介な客」だったようです。
この対話はエコ・ツーリズムが先進国の人びとに十分に知ることになる以前に行われたもので、自然に飛び込む探検的な観光(adventure tourism)のことを意味していたのかもしれません。エコ・ツーリズムが先進国でも強調されるようになるのは、過去五年間、すなわち九〇年代に入ってか らなのです。ここでは、多くのエコ・ツーリズムの提唱者が言うような主張を必要かつ最小限に込めたアメリカの旅行業協会(ASTA)が言う定義を採用するこ とにしましょう。それはこうです。
“エコ・ツーリズムは、環境との調和を重視した旅行、即ち野生の自然そのものや環境を破壊せずに自然や文化を楽しむことである”と(出典:『国際 観光情報』No.274,1992:5])。
3.地球全体主義にたいする軟弱な信奉
地球全体主義という物騒な(?)用語は、加藤尚武さんが書かれた『環境倫理学のすすめ』という著書で展開された互いに関連した環境倫理学の三 つの主張の一つです。この考え方によると、(1)人間以外の生物種、生態系、あるいは景観などにも「生存」の権利があり、さらに(2)我々が未来の世代に 生存可能性を保証させる責任(=世代間倫理)がある。また地球の生態環境は閉鎖系であり、その利用可能な資源とエネルギーの総量は有限であるという事実を 受け入れたならば、(3)次世代に対して生存可能性を保証することを優先させ(=地球全体主義を受け入れ)なければならないことになります。
環境倫理学というこむずかしいことを謂わなくても、この三原則は大なり小なり「環境保護論者」の主張の中にもうかがわれます。現在の多様な環 境保護論者あるいはエコロジストたちの主張を、このようにまとめると身も蓋もありませんが、少なくともエコ・ツーリズムを正当化する思想的裏づけになってい ることも確かです。
現代においてエコ・ツーリズムを企画し参加するのに、もはや「自然に親しむ」だけでは世間が許してくれないのです。エコツーリストが「厄介な 客」にならないために持ち出された理屈がエコロジカル・コンシャスネス(環境保全への自覚)であり、地球全体主義であったのです。さらに、その帰結とし て、この観光形態が普及するにつれて、この種の自覚をもった者がエコ・ツーリズムという方法を、今度は自発的に選択することも有り得るのです。
4.強いられる演技・振舞うことの快楽
私の中央アメリカでの経験です。エコ・ツーリズムを推進させる、あるいはさせたいと希望している自然保護団体・所轄政府官庁・旅行代理店などを 回ってみて面白いことに気がつきました。エコ・ツーリズムとは自然環境に興味をもった旅行者を受け入れる器であるが、同時にそれは「自然保護教育」を旅行者 に提供する場でもある、という指摘でした。
実際に「環境保全への自覚」を兼ね備えた旅行ツアーのガイドたちは次のようなことに気を配ります。「目的地を汚さず出たゴミは各自もって返る こと」「動植物に触れたり持ち帰ることが禁止されていること」などを旅行者たちに指示することはもちろんのこと、なぜそのようなことを行なわなければなら ないのか、を具体例を通して旅行者に自覚させること、と。 エコツーリストたちは、自然環境のなかでの適切な振舞いを強いられます。これは勝手気ままが許されてきた従来の観光客にはない新種の堅苦しさです。もっ とも苦痛を感じるほど大げさなものではありません。むしろ簡単に実行できて、満足度の高いことです。重要なことは、その種の振舞い=マナーを守ることで、 ガイドが教えてくれた自然保護を曲がりなりにも実践することなのです。また実践を通して、それなりに意義深いものに感じられるから不思議です。
私はこのようなことをかつて「エコ・ツーリズムごっこ」と命名したことがあります。エコツーリストとして振舞うことのなかにある種の遊戯性が潜 んでいるのではないかと思うのです。イルカウオッチングも、そのような遊戯性があるのではないでしょうか。あるいは、今日エコ・ツーリズム——おもに低開発 国のエコ・ツーリズムですが——を楽しむためには、自分みずからをエコ・ツーリズムごっこの渦中に投じなければ、やってられない、とも言えます。なぜなら、眼 の前に繰り広げられる豊かな自然、珍奇な動植物との出会いのためには、不安な軽飛行機のフライト、極端な暑さや寒さ、突然のスコール、うっとうしい虫刺さ れに耐えなければならないからです。
単なる道楽でそんなところに出かけるなんて、珍しい動植物研究家か自然保護オタクに思われても仕方がありません。実際、エコ・ツーリズムには病 みつきになるようなところがあります。また、それにつけて様々な知識を身にまとうようになります。一度、自然に触れてその感触をつかむと、帰ってきてから みるテレビの野生番組の理解も著しく向上します。知識が向上すると、また野生生物を直でみたくなるのです。このような視聴者の厳しい眼もあるのでしょう か、イギリスの自然番組の著名なプロデューサーであるアテンボロー制作のBBCの番組とNHKの『生き物地球紀行』では、使っている映像は似たようなもの であるにもかかわらず、その内容のレベルや動物の表現方法には、雲泥の差があります。
5.保護しつつ社会に貢献するという便法
今まではエコ・ツーリズムを「利用する側」の事情について述べました。では、それを開発する側の事情から見たらどうなるでしょう。開発する側に とって、エコ・ツーリズムとは、現地の自然環境を破壊することなく資源として利用しつつ儲ける(必ずしも金銭面だけではありませんが)こと、になるかと思い ます。
エコ・ツーリズムにおいては、巨大なホテルを建てたり道路や空港の建設などの大規模なインフラストラクチャー整備を行なうことは禁じ手です。あ るいは、それは最小限にすべきだと考えられています。これがエコ・ツーリズムの開発面における特異的な側面です。私は、従来の観光開発に長年携わってきた人 たちには、この考え方はほとんど理解不能ではないかと思っています。
しかし、産業開発を通して人間の幸福を!という古典的なスローガンの信奉者にも理解できる便利な論法があります。八七年に「環境と開発に関す る世界委員会」が提唱したのを皮切りに昨年のリオデジャネイロの地球サミットでは基本理念とまでになったサステイナブル・ディベロップメント(持続可能な 開発)という概念がそれです。環境や自然を損なうことなく、次世代以降の将来の人類が生存しつつ発展する原理を模索してゆくという要請が起こっています ——そんな虫のいいことが可能かどうかは知りませんが。
この持続性(sustainability)を理解するためによく使われる寓意が、“金の卵を産む鵞鳥”の話です。この例えでは、豊かな自然 は“鵞鳥”そのものである。なぜなら、金=自然のめぐみを我々にもたらすことができるからです。鵞鳥そのものは普通の鳥です。そこには“人間に与えられた もの”としての自然環境の遍在性を知ることができます。
“金の卵”とは、持続可能な開発を続けることによって得られる富の隠喩です。それは鵞鳥に餌をやり世話をし続けることによって、まさに“持続 的な富”を享受することが可能になるからです。環境容量を超えたエコ・ツーリズム開発とは、まさに雌鶏に黄金の卵を産み続けることを過剰に強要することであ り、鵞鳥を殺して食べることです。金の卵を待つことなく、鶏を殺して食べてしまうことは、従来の「環境破壊=人工環境への改変」型の開発パターンであった というわけです。
この比喩は、欧米で一般人や子供むけの環境保護教育などでしばしば使われるそうです。私自身はコスタリカのエコーツリズムに関する事前調査を している過程のなかで、この種の話を初めて耳にしました。日本の自然観の中で育ち、生態学の基礎教育を日本の大学で受けたことのある私にとって、この種の 比喩は論理的な展開をとったストーリーとして十分理解できるし、有益な話であると信じています。
にもかかわらず、常に違和感もまた禁じ得えません。我々にとって“統制不能”として信じられる自然のイメージ——生態学はその脅威の片鱗を明 らかにするにすぎない——を、鵞鳥というきわめて卑近な存在に例え、黄金の卵という富を収奪する手段として位置づけたことである。
このような一見取るに足らないような“印象”を取り上げてみても、彼ら欧米人が鏡になって我々自身の環境観を窺い知ることができるのではない でしょうか。エコ・ツーリズム現象そのものを研究することは、欧米における生態学概念の形成、エコロジー運動とその自然観、持続可能な開発に対する各国の受 容パターンの多様性などについて、豊富な情報を得ることにつながります。
そして、最後は、持続可能なエコ・ツーリズムの可能性です。現在では、政府開発援助のみならず、世界の様々なNGOなども、具体的なエコツーリ ズム開発のプロジェクトなどにも着手しているところが多くなりました。国際貢献におけるエコ・ツーリズムの役割の重要性が今後どうなるかは、不確定な要素を 孕んでおり確かなことは言えません。しかし、世界の情勢はすでにエコ・ツーリズムを中心とした開発手法を抜きにしては語れないほどになっているのは確かで す。それは、人びとがエコ・ファシズムの時代に生きているからであり、またそのようなイデオロギーにそった経済活動が実際に利益をもたらすからです。その 意味ではエコ・ツーリズムの未来は安泰です。
問題はまさに、持続可能性=サステイナビリティの名のもとで金の卵を生む鵞鳥の首を真綿でじわりじわりと絞め殺しつつあるのではないかと危惧 を、これからよりいっそう真剣に考えていく必要があるという点にあると思います。
(1995年8月20日第一回イルカ研究会議、於:イルカミュージアムホール)
初出:『天草海洋研究所研究報告』1号、pp.1-4、天草海洋研究所
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