イルカと日本人(1996)
Dolphine and Japanese
解説:池田光穂
日本民俗学の偉大な創始者である柳田国男は、またイルカ・ウォッチングの創始者でもある。というのは彼は九州での調査のおりに鹿児島の錦 江湾で、あるいは国際連盟信託統治委員としてヨーロッパへの赴任や帰還の途上のインド洋で、船と平行して泳ぐイルカを眺めて感慨に耽っているからである。 彼の述懐によると、イルカはあたかも「船を護送」しているようであり、また「一つの目的に狂奔するような、自由なる遊戯を観た」という。さらに「見えざる 霊に由つて、人界に、遣わされたるもののごとく、我々で思うことが出来るのだ」と述べている(柳田国男『海豚文明』1924年——『定本柳田国男集』第3巻、Pp.327-328. 1962年で、引用ページは p.327です。初出が1924年)。
むろんこれだけを根拠にして柳田をウオッチングの創始者とするには過大評価のそしりは免れない。もうすこし説明が必要である。柳田はこの ような群をなして泳ぐイルカが、日本人のみらず世界のさまざまな民族をして、我々の世界の外側から遣わされた使者としてみたり、イルカが群をなしてあたか も寺社に参詣しているのだと理解する習俗がうまれたと理解していた。彼はこの習俗のことがずっと気になっていたらしい。佐渡にも海豚参詣の話が伝わってお り盆踊りの唄のなかに目敏く、イルカを殺した罰が報われるという一節「達者の伝次が焼けた、いるか殺したその罰で」をみつけ、「今でも海豚を見又は話を聞 くたびに、一度でも連想を馳せなかったことが無い」と言っている(『佐渡一巡記』1932年)。1951年に出版された『海上の道』においても、「知りた いと思ふ事二三」ということのなかに海豚参詣について次のように書いている。
この大きな動物の奇異なる群行動が、海に生を営む人々に注意せられ、又深い印象を与えたことは自然だが、その感激なり理解なりの、口碑や 技芸の中に伝わったものに偶然とは思われない東西の一致がある。……毎年時を定めて回遊して来るのを、海に臨んだ著名なる霊地に、参拝するものとする解説 は、かなりひろく分布している。これも寄物のいくつかの信仰のように、海と彼方との心の行通いが、もとは常識であった名残りではないかどうか。できるなら ば地図の上にその分布を痕づけ、かつその言伝えの種々相を分類してみたい。(仮名遣いは現代風に書き換えた)——『定本柳田国男集』第1巻、1962年で、引用ページは p.211。初出は1951年)
柳田はその意味ではかなりイルカの生態と人々がイルカをどのようにみているのかということにたいへん興味を抱いていたことがわかる。残念 ながら習俗の分布を地図上に確かめイルカ信仰の文明史ともいうべきプロジェクトは計画だけに終わった。
しかし、それがどうしてウオッチングとむすびつくのか。それは、柳田がイルカに興味をいだくだけでなく、イルカに感情移入していたふしが あるからである。それはイルカについて最初に言及した『海豚文明』という短いエッセーに戻らねばならない。すこし悲しいトーンであるが、日本におけるたぶ ん最初のイルカ保護のメッセージである。その冒頭は「灘萬」というデパート(?)の食料品売場に売られていたイルカの肉片を彼が発見することから始まる。
○ 灘萬の食品売場に、煎餅にしては少々透明な、薯の切乾しよりもずっと美しい、たとえば枇杷色のセルロイドの破片をみた[いな]ような 物をならべて、何かと思ったら紙の小札に、イルカとある。
○ どう考えて見ても是が我々の旧友の、あのむくむくとした、真黒な眼の小さい、飄逸にしてかつ極度に善良なる、海豚と呼ばるる海の遊民 がこの新しい世紀から受けねばならぬ待遇とは思われぬ。
○ 少なくともこれはポセイドンに対する冒涜である。……
……渡世とは言いながら叩き殺す浦人たちはつらい。海豚は追われると大きな声をして鳴くそうだ。今や彼らは鳴いても何もならぬ新発明の世 の中に出会ったのである。
([ ]内は筆者が補い、また仮名遣いや漢字は現代風に書き換えた。)
彼は船上で人なつこく泳ぐイルカを眺めるのが好きであり、どうもそれを可愛らしいと思っていた。それだけでなく、イルカと人間の交わりに興 味をもち、それを民俗学的な観点からまとめようとしていた。しかし、イルカの群れの遊泳をみてそれを参詣とする心の余裕を人は忘れようとしていた。食料品 売場に売られているイルカの肉片をみて、時代の変遷を哀れんでいる。つまり柳田はイルカが好きだったのだ。
2.イルカの民俗学
イルカの多くは外洋で回遊する。そのため柳田がインド洋の沖合いでみたように、あたかも船を護送するかのように泳ぐのである。外洋を航行 する船にのればしばしばそのような光景にであうはずである。動力船の舳先では推進力によって回りの海水は押し出されているのでイルカはあたかも波乗りのよ うにわずかな力で船と同じ速力で伴走(泳?)することができるのだ。 またイルカは群れて泳ぐ性質があり、高度なコミュニケーション能力をもっていることもよく知られている。このようなイルカの性質はふるくから知られてお り、そのさまを伊豆地方ではイルカの参詣とよんでいる。なぜなら一年の限られた時期に回遊し列をなして近海を泳ぐさまを巡礼のようだと表現したのである。 地方によっては、宮まいり、観音まり、墓参り、白山まいり、磯部さんまいりと呼んでいたらしい。呼び方にはさらにユニークなものもあり群の列がきれいに縦 一列に並ぶことから、イルカの千本づれや千匹ガチと呼んだこともある(亀井慶一「いるか」『日本民俗事典』1972年、p.56、弘文堂)。
もちろん昔の人はウオッチングをして感心していただけではない。しっかりと追い込み漁をおこなっていたところもある。イルカは非常にデリ ケートな性質をもっていて、脅すと集団で混乱状態に陥ったり、船縁を叩くわずかな音で簡単に追い込むことができるからである。さらに奇妙な性質としてイル カじしんが浜に乗り上げ座礁するというストランディング(stranding)ということも古くから知られており、浜辺の人たちに偶然の収穫をもたらすこ とがあるのだ。『古事記』には大漁の意味する「鼻の毀れたる入鹿魚」があがった浦が血で染まりそれが現在の敦賀の名前のもとになったという話がある。
しかし一般的に日本の漁民がすべてイルカを発見したら漁をおこなって食べていたということはできない。イルカの群泳をみてそのままやり過 ごしたり祟りを畏れていた漁民がいる一方で、千載一遇のチャンスとばかり他の魚の漁を中断してイルカの追い込み漁に専念する人たちもいた。この点は重要で ある。というのはイルカやクジラを食用することが野蛮であると日本の伝統的なやり方を非難する人の中に、すべての日本人がイルカやクジラをみたら涎を流す ような短絡的な見方をするものがいるが、これは誤りなのだ。それだけではない。イルカに対する考え方は、次に述べるようにもっと複雑なものがあった。
イルカを捕る人も捕らない人も共通していたことがある。それは、さまざまなかたちでイルカに対する信仰があったことである。伊豆地方で は、イルカの供養塔を建ててその漁でその霊を供養した。全国的にみて、魚類が供養にされることは少ないが、イルカやクジラを捕っていたところではそれを供 養する習慣があった。供養にはイルカやクジラとりが出漁の前に祈願するものから、共同体のなかで本格的に法要をおこなうものまであった。
イルカは神さまや仏さまの使いであることもある。熱海地方ではイルカ網で地引き漁をしていたら木造のお地蔵さまがかかり、それを本尊にし たお寺が建てられた。漁師たちは、毎年イルカの大漁を祈って初物をそれにお供えするという。
柳田国男が佐渡の北小浦で採取した話につぎのようなものがある。イルカの別名を当地ではカエシモンというが、これはイルカが魚の群を追っ て獲物を食べるときには、下から魚群の真ん中に突っ込んで浮き上がり散り散りにして捕るということから来ているらしい。北小浦の人たちは海でイルカと出 会ったときにはカエシモンとかイルカとは呼ばず、オエベスあるいはオベスサンと呼んで節分の豆を撒くらしい。カエシモンのほかにはメッコというのもあるら しいが、そのようなことを船上で口にするとイルカが暴れて網を破ったり船を壊すというのだ。
オベスサンとはエビス(恵比寿あるいは夷)さまのことだという。エビスさまは、古くから生業をまもり利益や収穫をもたらす神さまとして知 られているが、海では別の意味もある。それは異人が幸をもたらすという信仰である。この異人がクジラやイルカを表すことは佐渡の例でも明らかであるが、水 死体や漂着物などもエビスとよばることは全国的にみられるという。イルカが異界からの訪問者であり、自らの肉をもって幸をもたらすことはよくわかるが、節 分の豆を撒くというのはまるでイルカを鬼とみたてるようでなんだか理屈に合わないようであるが、この問題は専門の民俗学者におまかせしよう。
3.イルカを捕る
先にイルカ・ウォッチャーとしての柳田国男の話をしたが、これはイルカの保護となんらかのかたちで結びつく現代のウオッチャーのはしりで あった。しかし、日本で伝統的にイルカの生態や行動に通じていたのはしていたのはほかならぬイルカ漁をおこなう漁師であった。こちらは獲物をとるために必 要として生じたウオッチャーであり、もちろん世界でも最も古い歴史をもつ。イルカは栄養学を持ち出すまでもなく高品質のたんぱく質源である。また群れて沖 合いに現れるものであるので、それを捕獲することは機会的ではあるが、成功すれば一度に大漁を共同体にもたらすことになる。そのため、イルカの生態に関す る知恵、漁法への習熟、捕獲後の分配についてがイルカ漁をおこなうところではよく発達してきた。
日本近海のイルカには、マイルカ(学名 Delphinus delphis)、入道/ぼうずいるか(学名オキゴンドウ/ゴウンドウイルカも含まれるかも/熊本大学児玉公道教授)、カマイルカ (Lagenorhynchus obliquidens)の三種類がよく捕獲されるという。マイルカはイルカのなかでも体は小さいほうであが、大きなイルカは前寄りに小さなものは後ろ寄 りに泳ぎ、群でなすときの頭数は巨大という。入道いるかは体はマイルカよりも大きく、潮吹き穴が左右にあり、群れるときは最大二〇頭までという。そしてカ マイルカは性格が強靭で捕まえることが最も難しいという。イルカは音に敏感で先導するイルカに追随する性格を利用して追い込む。また、イルカに対してモリ やカギなどを使ってしとめると当然のことながら狂暴性を発揮するけれども、ゆるやかに抱くとおとなしくなる。どこのものかはわからないが、そのためにイル カを「ジョロウのバケ」つまり娼婦の生まれ変わりとする伝承があり、その究極の捕獲方法が浅瀬に追い込んだイルカを小脇に抱きかかえて陸にあげるとされて いた(農商務省水産局『日本水産補採誌』一九一〇年)。
考えられうるイルカの捕獲法は(一)銛をもって突く方法と、(二)追い込んで捕らえる方法の二つに大別される。後者の、追い込んで捕らえ る方法にはさらに(二・一)浅瀬で抱きかかえる方法と、(二・二)イルカ網とよばれる網で捕獲する方法に分類できる。また、イルカ網によるものにはさらに (二・二・一)地曳網をもちいる方法と、(二・二・二・)立切網とよばれる網で沿岸に仕切をつくりそこにイルカを追い込むものである。
現在の日本では抱きかかえ法をみることができないが、洗練された組織的な労働力を迅速に動員できるときには効率よくイルカを捕獲できるの で、かつて日本にも存在した可能性を否定できない。ソロモン諸島のマライタ島の人たちは、丸木をくり貫いた五メートルにみたない総勢五〇隻のカヌーで二〇 キロの沖合いまで船出してイルカを沿岸にまで追い込み、この抱きかかえ法で漁をおこなう。そのような多数のカヌーをお互いにほとんど見えなくなるまで分散 させ、イルカの群を発見したときには旗を上げてイルカに気づかれないように徐々に追い込んでゆく。そして、沿岸のラグーン(潟)に追い込んで陸で待機して いた村のひとたちが海に入りイルカをゆっくりと抱きかかえてカヌーに載せて捕獲するという。マライタの人たちはその際にゆっくりとイルカを抱きかかえ、片 手で口をつかみ別の手で体を軽くたたくのだが、それをイルカを安心させることだと説明する(竹川大介「イルカが来る村」『イルカとナマコと海人たち』秋道 智彌編、一九九五年)。
イルカの捕獲方法は、捕まえる場所や追い込む海岸地形さらにはイルカの種類などと密接に関連して発達してきた。銛突きによるものは日本で は少なく千葉の安房で発達したが、これは捕鯨がこの方法によるものであったためであり、捕獲頭数そのものも少なかった。追い込んで網でとらえるもののうち イルカ用の地曳網は編み目が大きく、また普通の魚を捕まえるものとは異なり、網に袋状のものはついていなかった。他方、立切網でそこに追い込むという漁法 も能登の珠洲でおこなわれたものでは、船とともに垣網を移動させてじょじょにイルカを誘導してゆく方法がとられた(日本学士院『明治前日本漁業技術史』一 九八二年)。ちなみに、この珠洲には縄文時代にさかのぼれる真脇遺跡があり、イルカの骨と石の鏃がたくさん出土している。考古学者の平口哲夫さんは、この 骨の多くはマイルカとカマイルカからなるが、量的にはカマイルカのほうが多いことを報告されている。このことから、平口さんはマイルカは抱きかかえ漁でも 捕獲できるが、気性の荒いカマイルカは浅瀬に追い込んで石の槍でしとめたのではないかと説明する(平口哲夫「日欧における捕鯨の起源」一九九五年)。伊豆 半島では網による追い込みをおこなうが、マイルカとカマイルカでは網の目の大きさや素材が異なるという。
五島列島は捕鯨やイルカ漁が昔から有名な地域であるがここでも網を用いて追い込みをおこなう。ここでユニークなのは捕獲法ではなくイルカ の発見から捕獲までの人びとの動きである。中通島の有川や魚目では、イルカを発見するための小屋を設営したり船を出して捜索をおこなうことはしない。漁師 は鯛つりや船上で漁網を曳いているときに、イルカを発見すれば、それまでの漁を中断する。イルカの発見者はとっさに着ていた服などを棹にさして付近の船に 知らせる。それを発見した別の船でもイルカの探索に切り替え、これを発見した際に二番、三番とイルカを追い込むというのである(『日本水産補採誌』)。
ここで旗や目印をあげてしだいにイルカを追い込むさまは、マライタ島での操業とよく似ている。これもイルカが音に敏感であり、用意周到に 捕獲の体制に移行できるような人びとの工夫のたまものだと言える。五島列島の場合、獲物を発見した際に漁を中断し、漁師たちは一致団結して捕獲を試み、発 見者の順に捕獲されたイルカは分配されるので、漁師は競ってイルカを発見しようとする。しかしながら同時に、イルカの肉は村落の各戸にゆきわたるよう分配 されたという。その意味ではイルカの肉は人びとにとって貴重なタンパク源であったとともに、イルカ漁を通して人びとは共同体の結びつきを確認することにも なるのである。イルカが異界から現れて幸をもたらすという信仰やイルカの群泳をイルカ参詣と表現するきめの細かい観察は、沿岸の人びとが第一級のイルカ・ ウオッチャーであったことを証明したといえよう。
4.イルカの人助け
なぜかイルカには人助けをしたという神話・民話・逸話が世界中にある。
ギリシャ・ローマ神話ではイルカは海の神さまポセイドンの使いで、海で溺れていたアリオンを助けた。プルターク『英雄伝』では、コリアノ スという男が捕獲されまさに殺されようとしているイルカを漁師から買い取り、これを逃がし、後に海で溺れそうになるのをイルカが恩返しするという話があ る。どの話もイルカと人間が強い絆で結ばれているという話である。
日本でその種の話を探してみたが、なかなかそのような話がない。ただし、クジラでならある。宮城県唐桑町の『御崎明神冥助の記』(一八〇 〇)という記録では、クジラが人を助けたという話が伝わっている。四方を海で囲まれておりイルカと遭遇する機会があり、その行動をきちんと観察していたに もかかわらず、日本では人助けをするものとはみなかったのか。この違いはギリシャ・ローマと伝統的な日本の動物観の違いにねざすものなのだろうか。
さて神話や伝承ではイルカが人間と感情の交流をもったり、イルカじしんが恩義を感じる知性があるとの前提にたって擬人化されている。しか し、そのような行動をもっと科学的にみたものはいなかったのだろうか。つまり、イルカの人助けを動物行動学(エソロジー)の観点から解釈する試みがなかっ たのだろうか。古代ギリシャの偉大な哲学者であり博物学者であるアリストテレスはその著書『動物誌』(紀元前四世紀ごろ)のなかでイルカの知性について述 べている。
「海の動物の中で話題の最も多いのはイルカであって、それらはイルカのおとなしくて馴れやすい性質を示しているが、タラスやカリアやその 他の地方での少年に対する愛情や欲情の実例さえあげている。またカリア地方で一頭のイルカが捕らえられて負傷したとき、イルカの大群が一度にどっと港へお しよせてきて、漁師が捕らえられたイルカを放してやるまで去りやらず、放してやると、みんな一しょに出ていったという。また小さいイルカたちには必ず大き なイルカが一頭つきそって守っている。すでに大きなイルカが泳いでいて、死んだイルカが深みへ沈みそうになると、その下へ泳いで行って、背中にのせて持ち 上げているのが見られた。まるで死んだイルカに同情し、他の肉食動物に食われないようにしてやっているようである。‥‥」
この解釈を展開してイルカによる人助けを説明することができないだろうか。つまりイルカは同種どうしの結びつきがたいへんつよい。またお 互いに群のなかでかばい合う性質もまた強い。アリストテレスは、イルカが人間の少年に感情を抱くほどの習性があると指摘しているが、ただしこの主張は採用 せずに、むしろイルカは人間をあたかも死んだ同種のイルカと誤認しているのではないかと理解するのである。そうすると、溺れそうになった人間や遊泳してい る人間を持ち上げようとするイルカの行動にも合点がいきはしまいか。
生物学出身の民族学者であり精神分裂病の発症に関するユニークな研究でも著名なグレゴリー・ベイトソンは、晩年にはイルカのコミュニケー ション研究の大家ジョン・リリーと共同してイルカの知性について研究したが、彼もイルカの人助けはイルカの側のある種の誤解によるものだと考えていたらし い(メアリー・ベイトソン『娘の眼から』一九九三年)。
「イルカは人間とのつきあいに積極的で、溺れているひとを助け、攻撃されても自分からは攻撃しないことがよく知られているが、そのことをグ レゴリーはこんなふうに解釈していた。多くの哺乳動物は自分と同じ種に属する子供を攻撃しないのだが(人間もなかりの程度までそうだ)、こうした子供への 攻撃を禁じるシグナルが、イルカの場合、人間にも適応されるのだろうと。言いかえれば、人間はイルカにとって子供のような存在に映り、子供に接するような 態度で人間に接するということだ。」(三〇〇頁)
これはベイトソンもまたイルカの人助けが、イルカの側の行動学的な誤認、つまり人間をイルカの子供として見ることに起因するものであると 指摘しているのだ。こうしてみるとイルカが溺れそうになっている人を人助けしたという話は荒唐無稽の話ではなくまんざら嘘ではなさそうである。ただ、もっ ともそれはイルカが人間と感情的な交流をもつ能力があるからなのではなく、イルカの側の大いなる誤解によるものだということになる。これから述べる九州天 草のイルカ・ウォッチングに従事する遊漁船の船長さんは、海上においてイルカを観察する際に、お客さんがはしゃぐといるかも「嬉しくなってジャンプする」 ことを教えてくださった。しかし、これもひょっとしたらイルカにとっては何かべつの意味あいのメッセージを我々に投げかけているのかも知れない。
九州にある天草諸島は行政上は熊本県に属している。だが天草五橋が架かるまでは人や文化の交流ではむしろ地理的に近い長崎と深い関係が あった。たしかに地元の人のお国なまりは、長崎弁らしく聞こえるし、結婚を通しての親戚づきあいは長崎や島原のほうが盛んであったという。その意味で一九 六六年の五橋の完成以降は、熊本を中心とする物流や人的交流がきわめて盛んになった。熊本市からドライブするとそれは島に出かけるというよりも、半島部を 旅行しているようなものである。
熊本市から約二時間で天草での最大の島である下島の表玄関ともいえる本渡市に着く。さらにそこから半時間ほど車で走ると下島の北端の人口 およそ一万二千の五和町につく。そこからは雲仙普賢岳をいただく島原半島が目と鼻の先に見渡せる。ここは有明海と東シナ海に通じる天草灘をつなぐ狭い海峡 部分である早崎瀬戸とよばれる。この早崎瀬戸を挟んで野生のハンドウイルカ(Tursiops truncatus)が二、三百頭が生息している(天草海洋研究所[=現在は存在しません]の調べによる)。ハンドウイルカまたはバンドウイルカには沿岸 を中心に生息するものと、沖合いを広い範囲にわたって移動するものがあり、早崎瀬戸のイルカは沿岸系のものである。
もともとイルカは天草の沿岸には多数生息していたものらしい。老練の漁師さんたちの話だとかつてはそこかしこにいたという。しかしなが ら、天草の各地で定置網がおこなわれるようになってから、イルカは厄介あつかいされるようになってきたらしい。また昔ならイルカは大漁のあかしだと、のん きなことを言ってられたが、漁業が効率を中心に動くようになるとイルカは漁師のライバルとして嫌われるようになってきた。外洋を回遊するイルカでは、迷い こんでくるだけで定着することはない。沿岸系のイルカであれば、捕獲されればそれまでで、周囲のから新しい生息地をもとめて別の群がやってこないかぎり、 そこはイルカのいない海になってしまう。
ところがこの早崎瀬戸は文字どおり潮の流れがはやく定置網には適さない地形であり、かつ通詞島と二江という天草でも有数の水揚げを誇る漁 師には、素潜りを中心として生計をたてるものが多かったこともイルカにとって幸いした。この素潜りの伝統は古く、縄文時代から古墳期にかけてのものが出土 する沖ノ原には、古墳時代の製塩土器とともにアワビなどを剥がすときに使われたと思われる打製尖頭状石器が大量に出土している。また江戸時代の十八世紀の 中頃には御照覧と称した素潜りのデモンストレーションを代官所の役人の前で披露したという記録も残っている。この潜水の伝統は明治期にはサルベージ会社が 設立され、全国の沈没船の引き揚げに従事したことにも活かされた。ともかくも早崎瀬戸では漁師とイルカが長年にわたって共存してきたのである。
このイルカの生息地にやってきたのが現在、天草海洋研究所を主宰されている長岡秀則さんである。彼の逸話について触れると紙面が足りなく なるので、要点を絞って述べなければならない。彼が一九九二年?に、町おこしのためにイルカ・ウォッチングを提唱したのがそもそものはじまりである。長岡 さんが最初に遊漁船をはじめとする地元の人たちにウォッチングの話をもちかけた時にはだれもがその提案に耳を傾けなかった。というのは、実に我々にとって は羨ましい話なのだが、船に乗って五分も経たないうちにイルカが群泳する海域に着くことができ、地元の人たちにとってはイルカは珍しいものでも何でもな かったからである。そのようなものが町おこしの原動力になり、観光客を呼ぶとは当時誰も信じなかったのである。
ところが九三年頃から本格化したイルカ・ウォッチングは福岡をはじめとする北部九州の都市の人たちを中心に人気をよび、観光客はうなぎの ぼりに増えて九四年には年間二万人を突破し、九五年には三万人以上になると推定されている(五和町役場商工水産課調べ)。
では天草のイルカ・ウォッチングとはどのようなものだろうか。その内容というのはきわめてシンプルである。五和町周辺にはウオッチング業 者が十数団体ある。それぞれの業者には契約してある遊漁船つまり船長さんが所有する船があり、業者の斡旋によって所定の料金を払いライフジャケットを装着 してイルカが群れて泳ぐ場所でイルカを見学するというものである。イルカが早崎瀬戸を東から西へとゆっくり回遊している場所に着くのには一〇分もかからな い。いくつかの群が海面を泳いだり、時にはジャンプする姿がみられる。乗船客は口々にイルカが海面に出てきた場所を指さして歓声をあげる。子連れのイルカ も見える。遊漁船はイルカの群から距離をおいて観察するという業界の自主ルールがあるが、イルカそのものが船に近づいてくることもある。見学時間はおよそ 一時間で、業界の自主ルールがもうけられており基本的にはイルカを遠巻きにして眺めるという形式をとることが定められている。
イルカ・ウォッチングの乗船客はおおむね満足して下船をするようである。私の勤めている大学では文化人類学の実習授業として自由研究とし てこのテーマにとりくんでいる学生がおり、彼らがウオッチング客にアンケートやインタビューをとっている。それによるとほとんどのお客が満足をしている が、それは乗船前に人びとが想像していたよりも近くでたくさんのイルカがみれたことによるらしい。また船長さんに聞いたところ、お客のなかにはイルカを餌 付けしていると思っている人がおり、船長さんが早崎瀬戸に昔からいる野生のハンドウイルカであることを説明すると、多くの人が驚くということだ。
日本には一九九〇年代になってからクジラやイルカのウオッチングする団体や業者が相ついで現れた比較的新しい社会現象であることは確かで ある。日本でどれくらいの人たちがクジラやイルカを対象にしたウォッチングに参加しているのか正確な統計はない。ホエールウオッチングを専門に研究してい るエリック・ホイトさんによると、世界では九四年には四〇〇万人から五四〇万人が参加し、関連事業もふくむ総合収益では約三億ドルと報告している。日本で は同じくホイトさんの推計では九三年に二万五千人、一千三〇〇万ドルとのことである(佐藤晴子訳編『ホエールウォッチング読本』一九九五年)。しかし九五 年で三万人を越えると予想されている天草が突出して成長していると割り引いて仮定しても、ウオッチングがブームであることは間違いがない。
6.エコ・ツーリズムとしてのイルカ・ウォッチング
私は、日本におけるエコ・ツーリズム、とくにイルカ・ウォッチングに関して調査研究に着手してまだ日が浅い。しかし、研究に着手してか ら、なぜ日本でイルカ・ウォッチングをはじめ、イルカやクジラに関連した書籍やイルカやクジラのグッズなどが流行ったのか、ということについてコメント求 められたりするし、また自分じしんでもよく自問する。答えが簡単に出ればわざわざ調査する必要はないのであるが、教師というサービス精神も加勢して問いか けにいつももっともらしい答えを述べて、心のなかで舌を出しているというのが正直なところである。教師という職業の悲しい?性かも知れないが、ここで読者 とともに、私が今抱いている「ホエール(鯨)とイルカ・ウォッチングに関する七不思議」について考えてみよう。 次の七(プラス一)項目がそれである。
ホエールとイルカ・ウオッチングの七不思議
(1)どうして日本ではクジラよりもイルカ・ウォッチングが流行るのか?
(2)どうして西洋開発国でホエールウォッチングに人気があるのか?
(3)どうしてかつて捕鯨に従事していた人が、ホエール・ウォッチングをはじめたのか?
(4)クジラおたくは、どうしていろいろなクジラをみたくなって世界を駆けめぐるのか?
(5)どうして、反捕鯨の人たちが、お節介なことにクジラをみて喜ぶという習慣を世界中に広めようとするのか?
(6)クジラウォッチャーは、意外と辛抱強くなく、クジラがいなくなると、そこにはどとまらずに家へ帰ってしまうのだろうか?(ニュージー ランドでの観察報告)
(7)どうして、クジラウオッチャーは、自然保護と研究と趣味を上手にリンクして、それを楽しみに変えてしまうのだろうか?
そして、(番外)どうしてIWC加盟国にホエールウォッチングが普及しているいっぽうで、非加盟国には人気が少ない、あるいは知られること が少ないのはなぜか?、本当は反対のような気がするのになぜだろう?
これまでの章で述べてきたエコ・ツーリズムに関して論じてきたことのおさらい、あるいは応用問題として、この八つについて考えることはたい へん意味がある。それはこれらの問いがエコ・ツーリズムを考える際の社会性というものを我々に考えさせてくれるからだ。
まず、日本におけるイルカ・ウオッチングの流行について考えてみよう。地球環境に対する危機意識がはたして我々をしてイルカに興味をいだ かせることに直接むすびつくだろうか。エコロジー問題とイルカをむすびつけて考えることはさほど難しくない。しかし、あまりにも具体性にかけるのである。 その欠けた環をつなげるものは、意外なことにお土産で売られているイルカ・グッズにある。クジラとイルカの絵はがき、Tシャツ、あるいは小さな置物など グッズを比較してみると一目同然だが、クジラに対してイルカは擬人化されたり漫画的にデフォルメされたり我々の友人として描かれやすい。これは日本に限ら れたことではないが、イルカは我々の等身大の友人、それもどうも年下の友人として考えられているようだ。天草の遊漁船に乗るウオッチャーにもこの「イルカ さん・イルカちゃん」という愛称はすぐに受け入れられた。さらに近年のイジメによる生徒の自殺など、子供にまつわる現実の話題に明るいものが少ない。イル カへの人気は、そのような現実の問題の外側の世界で自由に戯れることのできる空想上の友人としての期待の反映ではないだろうか。したがって日本ではイルカ はクジラよりも親しみやすく、また現実の社会でおきている問題や煩わしさから解放させてくれる存在なのである。
最近ではイルカと触れたり、一緒に泳いだりすることは心身症や自閉症の治療として効果があるのではないかという期待が高まっている。ま た、アメリカを中心としてそのような治療(ヒーリング)を大々的に宣伝している業者があり、また日本からもツアーが組まれたりしている。この場合注意して おかねばならないことは、病気が治ったり癒されたという経験的な事実と、業者が宣伝する「科学的な治療根拠」とは別々に考えることである。つまり「科学的 根拠」のなかにはかなり怪しいものも多々あるということである。そのような中には、イルカが人間以上の能力、場合によっては超能力すらも持つというものが ある。このようなイルカに対する非科学的な過剰な期待は、一九六〇年代に西洋に登場したある種の宗教的狂信に近いものであるということは、動物学や人類学 の研究者のあいだで認められている(フリーマン編『くじらの文化人類学』一九八九年)。
つぎに捕鯨とホエールおよびイルカ・ウォッチングの関係である。先進国に急速に広がった反捕鯨運動の広がりは、通常考えられているような クジラの資源管理という理由のほかに、右にのべたような西洋で生まれたクジラの熱狂的な保護思想の宣伝とその普及によるものであった。反捕鯨キャンペーン をおこなった人たちのなかには、日本の調査捕鯨船にオブザーバーとして乗り込みながら、そのビデオで撮影した捕鯨の様子のうち凄惨なシーンばかりを編集し て関係者やマスメディアに配布したという者もいて、捕鯨論争の後ろにはつねにメディア戦争というべき攻防がみたれたのも事実である(川端裕人『クジラを 捕って、考えた』一九九五年)。ホエール・ウオッチングを推進した人のなかには観光で儲けようとしたほかに、反捕鯨キャンペーンの人たちがクジラの素晴ら しさを知れば、クジラへの愛着がわき、自分たちの運動に共鳴してくれるだろうという思惑があった。そのために、ホエール・ウォッチングはIWC加盟国を含 めて先進国で人気を博するようになってきたのだ。ことばをかえれば、先進諸国における捕鯨と反捕鯨の論争が一般の人びとをしてクジラに対する関心を喚起し て、クジラに関するエコ・ツーリズムを生み出したのである。
いづれにせよ先住民による沿岸の捕鯨を除いてはクジラがとれなくなった。しかしながら沿岸捕鯨にせよ、遠洋捕鯨にせよ捕鯨とは、クジラを 外洋で探しだし、発見後は強固なチームワークによって編成される高度な社会活動であった。捕鯨の技術はきわめて洗練されており、また外洋でクジラを探す技 術にも長けている。そのような技術をもった人たちが、捕鯨銛の替わりに、ホエール・ウォッチャーにカメラの望遠レンズを持たせてある種の「産業転換」する ことは別に不思議なことではない。もちろん日本におけるホーエル・ウォッチングの急成長は、西洋のウォッチング推進者にとっての驚きであった。世界屈指の 捕鯨国であり、また調査捕鯨を通して頑なに捕鯨を続けている日本というステレオタイプを抱いた人たちにとって、それはあまりにも対照的な出来事だったから である。しかし、日本の沿岸捕鯨の民族誌学的な調査が明らかにしたように、かつては象徴的食物として鯨肉が共同体の全戸に配られたこと、毎年定期的に鯨供 養をおこなったことなど、鯨肉を消費することとクジラに対するある種の親近さが相反するものではないことを示している。
最後にホエール・ウォッチャーについて考えてみよう。捕鯨者としての日本人は長年のあいだクジラを捕獲し、それを解体し、たんぱく源とし て文字どおり消費してきた。しかしながら、ホエール・ウォッチャーも別の意味で「消費」者なのである。それはクジラのイメージを消費しているのだ。だか ら、ホエール・ウオッチャーといっても、知らない人が想像するようなガチガチの反捕鯨論者でも自然保護崇拝者でもない。ちょうど天草のイルカ・ウォッ チャーがそうではないように。したがって、基本的な性格が一般の観光客と異なるのではなく、観光において消費するイメージが異なるだけなのだ。ニュージー ランドのカイコウラにおけるホエール・ウォッチング観光では、ごく普通の観光客において予想されることが、そのままウォッチャーにもあてはまる。つまり、 海上の天候不良などによってホエール・ウォッチングが中止になると、そのまま別の観光地にでかけ、戻ってこない者が多いという。ウォッチングを推奨する人 たちは、そのような観光客の歩留まりをするための施設やイベントを定期的におこなう必要性を指摘している。現代のホエール・ウォッチャーは決して特殊な観 光客なのではない。我々もまたその観光客の潜在的な予備軍なのだ。
7.イルカと日本人
この論文では、日本において昔からイルカを観察してきた伝統的なイルカ・ウォッチャーとはイルカ漁をおこなう漁師であり、沿岸のイルカを めぐる信仰をささえてきた人たちであると述べた。イルカが連れてお参りにゆくというさまをイルカ参詣と呼んだり、イルカをエビスとみなし、それを外界から 幸福をもたらす異人とみなしてきたのである。この背景にはイルカをタンパク源として食用にしながらも、それを擬人化し、また時には畏怖の対象にすることを 通して、一種の人びとの一定の資源管理の発想つまり土着的な持続的開発の考え方をみることができた。
他方、イルカに食料としての魅力を感じるのではなく、船上でイルカの群泳を眺めたり、イルカの民俗伝承にこだわってきた柳田国男に近代的 なイルカ・ウォッチャー発生の姿を我々はみてきた。なぜ近代的といえるのだろうか。それは民間のイルカ伝承を研究対象として客観化するという、ある意味で 突き放した態度のなかで柳田は見ているからである。柳田においてはイルカはもはや畏怖の対象でも食物でもない。イルカは人間と久しく文明をともにしてきた 旧友であり、イルカに関する民間の伝承はその文明を思い出させてくれるロマン(物語)なのである。
そして今日、はたしてイルカ参詣という言葉など誰が知っているのだろうか。現代人は本物のイルカを水族館で見て、イルカに関する情報をテ レビや雑誌や書籍などで知る。またイルカ・ウォッチング・ブームの背景には、全国の水族館でイルカが身近に接することができ、またイルカ・ショーなどをと おして人間の仲間として身近になってきたということも指摘できよう。イルカ・ウォッチャーのみならず、現代人も何らかのかたちでイルカのイメージを消費す るわけだから、イメージとしての商品の売り手は、つねにイルカの科学的な情報を売り物にするとは限らない。いや、むしろ人間がイルカに投影する「現代人の 信仰」につけこんで、さまざまな新種の商売をおこなうことになる。イルカを可愛い子供にみたてたり、文明を築く知性があると信じ込んだりすることである。 我々の身の回りにあるイルカ・グッズや写真集、イルカのよるヒーリング(信仰治療)などはその典型である。
イルカ・ウォッチングはそのような現代社会の文脈のなかで理解される必要がある。イルカ・ウォッチャーもまた、現代人の信仰のなかに生き ているからである。天草でのウォッチングの計画が出たときも地元の人たちが、商売として成り立たないのではないか、と疑ったのも無理からぬことである。い つも、イルカをみてきた人にイルカの治療効果などということを言っても笑われるだけである。企業活動としての天草のイルカ・ウォッチング観光がそのマー ケットとして最初に目をつけたのは福岡の都市生活者であった。それはたんに人口の多さだけでなく都会人がイルカをみて楽しむだろうという「現代人の信仰」 の実態を十分に承知しておこなわれた結果なのである。そして、予想どおりイルカ・ウォッチャーは福岡の都会から、やがて熊本市から、そして天草の中核都市 である本渡市からとより遠方の都会から近郊の町へと観光客を巻き込んでいったのである。
今やイルカを可愛いとは言えないまでも面白い見せ物の対象になったことを否定する人はいない。柳田国男が店頭でイルカの肉をみながら覚え た怒りは、七〇年後の現在においていまようやく鎮められようとしている。そして今、イルカで町おこしの気運が高まってきた天草の五和町では公共、民間を問 わずさまざまなイベントが過去二、三年のあいだ目白押しのように開催された。池崎剛さんは、福岡の大学を卒業して地元にUターンしてきた若者の一人であ る。彼は町おこしにさまざまなかたちで関わるなかで「イルカの歌」を作詞・作曲された。彼じしんもイベントのおりにはギターとハーモニカを交えで唱われ る。この詩は現代人のイルカとのふれあいを考えるうえで重要な作品である。
8.イルカの歌(イルカに逢える島 イメージソング)
母なる海よ 命の海よ 鮮やかに 輝いて ※
私の心を つつみゆく いるまでも かわらずに ※
とどめなく 落ちる涙を かわかせぬ 時は
温かな 潮風に ふかれてみよう
真っ赤な太陽をうけ 天にとどくように
舞踊る イルカたちに あなたは逢うでしょう
(※ くり返し)
群をなし 寄り添ってくる すてきな仲間たちは
赤ん坊みたいに 笑みかける イルカたちよ
いつでも 愛をもって 力強く 泳ぎゆく
その美しき 姿に そっと 触れたくて
(※ くり返し)
青き海、高き空よ 熱き わが願い
人は皆 ふれあいを 求めて 生きてゆく
人と自然のぬくもりが 絶えないかぎり
時をこえて 語りゆく イルカの歌を
(※ くり返し)
(池崎剛 copyright 1994)
柳田国男がイルカと人間の交流に思いをはせ、調査地のイルカ伝承に関心をもちそれを採集したように、未来の人類学者は池崎さんの歌を二〇 世紀末における日本人のイルカイメージとして詳しく分析する時がくるかもしれない。そのかたちは変わろうとも、イルカと日本人が時を超えて末永く交流して ゆくことを願ってやまない。
初出(ただし内容は一致しない箇所があります):イルカ・ウォッチングと現代社会——エコ・ツーリズム研究ノート、『国際統合の進展のなかの 「地域」に関する学際的研究』熊本大学人文社会科学系大学院博士課程設置委員会プロジェクト研究部会編、pp.497-515 、熊本大学文学部・法学部、1996 年3 月
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