Kunio Yanagida as a Dolphin-Watcher
日本民俗学の偉大な創始者である柳田国男は、またイルカ・ウォッチングの創始者でもある。というのは彼は九州での調査のおりに鹿児島の錦江湾 で、あるいは国際連盟信託統治委員としてヨーロッパへの赴任や帰還の途上のインド洋で、船と平行して泳ぐイルカを眺めて感慨に耽っているからである。 彼の述懐によると、イルカはあたかも「船を護送」しているようであり、また「一つの目的に狂奔するような、自由なる遊戯を観た」という。さらに「見えざる 霊に由つて、人界に、遣わされたるもののごとく、我々で思うことが出来るのだ」と述べている(柳田国男『海豚文明』一九二四年)。
むろんこれだけを根拠にして柳田をウオッチングの創始者とするには過大評価のそしりは免れない。もうすこし説明が必要である。柳田はこの ような群をなして泳ぐイルカが、日本人のみらず世界のさまざまな民族をして、我々の世界の外側から遣わされた使者としてみたり、イルカが群をなしてあたか も寺社に参詣しているのだと理解する習俗がうまれたと理解していた。彼はこの習俗のことがずっと気になっていたらしい。佐渡にも海豚参詣の話が伝わってお り盆踊りの唄のなかに目敏く、イルカを殺した罰が報われるという一節「達者の伝次が焼けた、いるか殺したその罰で」をみつけ、「今でも海豚を見又は話を聞 くたびに、一度でも連想を馳せなかったことが無い」と言っている(『佐渡一巡記』一九三二年)。一九五一年に出版された『海上の道』においても、「知りた いと思ふ事二三」ということのなかに海豚参詣について次のように書いている。
この大きな動物の奇異なる群行動が、海に生を営む人々に注意せられ、又深い印象を与えたことは自然だが、その感激なり理解なりの、口碑や 技芸の中に伝わったものに偶然とは思われない東西の一致がある。……毎年時を定めて回遊して来るのを、海に臨んだ著名なる霊地に、参拝するものとする解説 は、かなりひろく分布している。これも寄物のいくつかの信仰のように、海と彼方との心の行通いが、もとは常識であった名残りではないかどうか。できるなら ば地図の上にその分布を痕づけ、かつその言伝えの種々相を分類してみたい。(仮名遣いは現代風に書き換えた)
柳田はその意味ではかなりイルカの生態と人々がイルカをどのようにみているのかということにたいへん興味を抱いていたことがわかる。残念 ながら習俗の分布を地図上に確かめイルカ信仰の文明史ともいうべきプロジェクトは計画だけに終わった。
しかし、それがどうしてウオッチングとむすびつくのか。それは、柳田がイルカに興味をいだくだけでなく、イルカに感情移入していたふしが あるからである。それはイルカについて最初に言及した『海豚文明』という短いエッセーに戻らねばならない。すこし悲しいトーンであるが、日本におけるたぶ ん最初のイルカ保護のメッセージである。その冒頭は「灘萬」というデパート(?)の食料品売場に売られていたイルカの肉片を彼が発見することから始まる。 ([ ]内は筆者が補い、また仮名遣いや漢字は現代風に書き換えた。)
・灘萬の食品売場に、煎餅にしては少々透明な、薯の切乾しよりもずっと美しい、たとえば枇杷色のセルロイドの破片をみた[いな]ような 物をならべて、何かと思ったら紙の小札に、イルカとある。
・どう考えて見ても是が我々の旧友の、あのむくむくとした、真黒な眼の小さい、飄逸にしてかつ極度に善良なる、海豚と呼ばるる海の遊民 がこの新しい世紀から受けねばならぬ待遇とは思われぬ。
・少なくともこれはポセイドンに対する冒涜である。……渡世とは言いながら叩き殺す浦人たちはつらい。海豚は追われると大きな声をして鳴くそうだ。今や彼らは鳴いても何もならぬ新発明の世 の中に出会ったのである。
は船上で人なつこく泳ぐイルカを眺めるのが好きであり、どうもそれを可愛らしいと思っていた。それだけでなく、イルカと人間の交わりに興
味をもち、それを民俗学的な観点からまとめようとしていた。しかし、イルカの群れの遊泳をみてそれを参詣とする心の余裕を人は忘れようとしていた。食料品
売場に売られているイルカの肉片をみて、時代の変遷を哀れんでいる。つまり柳田はイルカが好きだったのだ。
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