Hunting Dolphins and Whales in
Japan
先にイルカ・ウォッチャーとしての柳田国男の話をしたが、これはイルカの保護となんらかのかたちで結びつく現代のウオッチャーのはしりで あった。しかし、日本で伝統的にイルカの生態や行動に通じていたのはしていたのはほかならぬイルカ漁をおこなう漁師であった。こちらは獲物をとるために必 要として生じたウオッチャーであり、もちろん世界でも最も古い歴史をもつ。イルカは栄養学を持ち出すまでもなく高品質のたんぱく質源である。また群れて沖 合いに現れるものであるので、それを捕獲することは機会的ではあるが、成功すれば一度に大漁を共同体にもたらすことになる。そのため、イルカの生態に関す る知恵、漁法への習熟、捕獲後の分配についてがイルカ漁をおこなうところではよく発達してきた。
日本の近海のイルカには、マイルカ (学名 Delphinus delphis)、入道/ぼうずいるか(学名オキゴンドウ/ゴウンドウイルカも含まれるかも/熊本大学児玉公道教授)、カマイルカ (Lagenorhynchus obliquidens)の三種類がよく捕獲されるという。マイルカはイルカのなかでも体は小さいほうであが、大きなイルカは前寄りに小さなものは後ろ寄 りに泳ぎ、群でなすときの頭数は巨大という。入道いるかは体はマイルカよりも大きく、潮吹き穴が左右にあり、群れるときは最大二〇頭までという。そしてカ マイルカは性格が強靭で捕まえることが最も難しいという。イルカは音に敏感で先導するイルカに追随する性格を利用して追い込む。また、イルカに対してモリ やカギなどを使ってしとめると当然のことながら狂暴性を発揮するけれども、ゆるやかに抱くとおとなしくなる。どこのものかはわからないが、そのためにイル カを「ジョロウのバケ」つまり娼婦の生まれ変わりとする伝承があり、その究極の捕獲方法が浅瀬に追い込んだイルカを小脇に抱きかかえて陸にあげるとされて いた(農商務省水産局『日本水産補採誌』一九一〇年)。
「紀州太地浦鯨大漁之図」(1861)よ
り
考 えられうるイルカの捕獲法は(一)銛をもって突く方法と、(二)追い込んで捕らえる方法の二つに大別される。後者の、追い込んで捕らえ る方法にはさらに(二・一)浅瀬で抱きかかえる方法と、(二・二)イルカ網とよばれる網で捕獲する方法に分類できる。また、イルカ網によるものにはさらに (二・二・一)地曳網をもちいる方法と、(二・二・二・)立切網とよばれる網で沿岸に仕切をつくりそこにイルカを追い込むものである。
現 在の日本では抱きかかえ法をみることができないが、洗練された組織的な労働力を迅速に動員できるときには効率よくイルカを捕獲できるの で、かつて日本にも存在した可能性を否定できない。ソロモン諸島のマライタ島の人たちは、丸木をくり貫いた五メートルにみたない総勢五〇隻のカヌーで二〇 キロの沖合いまで船出してイルカを沿岸にまで追い込み、この抱きかかえ法で漁をおこなう。そのような多数のカヌーをお互いにほとんど見えなくなるまで分散 させ、イルカの群を発見したときには旗を上げてイルカに気づかれないように徐々に追い込んでゆく。そして、沿岸のラグーン(潟)に追い込んで陸で待機して いた村のひとたちが海に入りイルカをゆっくりと抱きかかえてカヌーに載せて捕獲するという。マライタの人たちはその際にゆっくりとイルカを抱きかかえ、片 手で口をつかみ別の手で体を軽くたたくのだが、それをイルカを安心させることだと説明する(竹川大介「イルカが来る村」『イルカとナマコと海人たち』秋道 智彌編、一九九五年)。
イルカの捕獲方法は、捕まえる場所や追い込む海岸地形さらにはイルカの種類などと密接に関連して発達してきた。銛突きによるものは日本で は少なく千葉の安房で発達したが、これは捕鯨がこの方法によるものであったためであり、捕獲頭数そのものも少なかった。追い込んで網でとらえるもののうち イルカ用の地曳網は編み目が大きく、また普通の魚を捕まえるものとは異なり、網に袋状のものはついていなかった。他方、立切網でそこに追い込むという漁法 も能登の珠洲でおこなわれたものでは、船とともに垣網を移動させてじょじょにイルカを誘導してゆく方法がとられた(日本学士院『明治前日本漁業技術史』一 九八二年)。ちなみに、この珠洲には縄文時代にさかのぼれる真脇遺跡があり、イルカの骨と石の鏃がたくさん出土している。考古学者の平口哲夫さんは、この 骨の多くはマイルカとカマイルカからなるが、量的にはカマイルカのほうが多いことを報告されている。このことから、平口さんはマイルカは抱きかかえ漁でも 捕獲できるが、気性の荒いカマイルカは浅瀬に追い込んで石の槍でしとめたのではないかと説明する(平口哲夫「日欧における捕鯨の起源」一九九五年)。伊豆 半島では網による追い込みをおこなうが、マイルカとカマイルカでは網の目の大きさや素材が異なるという。
五島列島は捕鯨やイルカ漁が昔から有名な地域であるがここでも網を用いて追い込みをおこなう。ここでユニークなのは捕獲法ではなくイルカ の発見から捕獲までの人びとの動きである。中通島の有川や魚目では、イルカを発見するための小屋を設営したり船を出して捜索をおこなうことはしない。漁師 は鯛つりや船上で漁網を曳いているときに、イルカを発見すれば、それまでの漁を中断する。イルカの発見者はとっさに着ていた服などを棹にさして付近の船に 知らせる。それを発見した別の船でもイルカの探索に切り替え、これを発見した際に二番、三番とイルカを追い込むというのである(『日本水産補採誌』)。
ここで旗や目印をあげてしだいにイルカを追い込むさまは、マライタ島での操業とよく似ている。これもイルカが音に敏感であり、用意周到に
捕獲の体制に移行できるような人びとの工夫のたまものだと言える。五島列島の場合、獲物を発見した際に漁を中断し、漁師たちは一致団結して捕獲を試み、発
見者の順に捕獲されたイルカは分配されるので、漁師は競ってイルカを発見しようとする。しかしながら同時に、イルカの肉は村落の各戸にゆきわたるよう分配
されたという。その意味ではイルカの肉は人びとにとって貴重なタンパク源であったとともに、イルカ漁を通して人びとは共同体の結びつきを確認することにも
なるのである。イルカが異界から現れて幸をもたらすという信仰やイルカの群泳をイルカ参詣と表現するきめの細かい観察は、沿岸の人びとが第一級のイルカ・
ウオッチャーであったことを証明したといえよう。
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