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肉体という魂の牢獄

Man is a prisoner who has no right to open the door and run away

池田光穂

「私が思うには、罪の文化は、どのようなもので あっても、ピューリタニズムの成長に好都合な土壌を提供するであろう。なぜなら罪の文化は自己懲罰への無意識的要求を生み出すが、この要求をピューリタニ ズムが満たすからである。しかし、ギリシアでは、このプロセスを動き出させたのは、明らかに、シャーマニズム的信仰の衝撃であった。これらの信仰は、ギリ シア人の心によって、道徳的な意味に解釈し直された。そして、このことが為し了えらえた時、肉体的経験の世界は必然的に暗闇と苦行の揚所として現われたの であり、肉は「異邦の上着」となったのである。古いピタゴラス学旅の教理問答はこう言っている。「快楽は、すべての揚合に、悪である。なぜなら、われわれ は罰せられるためにここに来た[生まれた]のであり、われわれは罰せられるべきだからである。」プラトンがオルフェウス教徒に帰している形式の教義では、 肉体は魂の牢獄であり、その獄屋の中に、魂は、自分の罪をそそぐまでは、神によって閉じ込められつづけるのである。プラトンの言及しているもっと別の形式 では、ピューリタニズムはさらに一段と激烈な表現を得ている。すなわち、肉体は墓と考えられており、その墓の中に、プシューケーは、死者として横たわりつ つ、真実の生への復活を待望している【※これはカトリシズムの肉体観そのものである——引用者】。その真実の生とは、肉体のない生のことなのだ。この説は ずっと遡ってヘラクレイトスにまで辿られうるように、思われる。彼は、反対なるものの永遠の循環「上下の道」を例示するために、多分この逆説を利用したも のと思われる」(ドッズ 1972:187-188)——エリック・ロバートソン・ドッズ(1893-1979)『ギリシャ人と非理性』岩田靖夫訳、みすず書房、1972年 (E.R. Dodds, 1951. The Greeks and the irrational. Berkeley: University of California Press.)。

プラトン『パイドン』(Plato's PHAEDO)より

「つまり、学びを愛する人たちの知るところによれば、哲学が彼らの魂を手もとに引き取るとき、魂は肉体のなかに文字通りすっかり縛りつけられ、接合されてしまっていて、あたかも牢獄を通し て見るかのように、実在するものをほかならぬ肉体を通して考察するように強いられるのであって、魂が自分だけで自分自身を通じて考察するよ うなことはなく、そのために魂は、はだしい無知のなかを転げまわっているのだが、哲学は、この牢獄の恐るべき仕掛けを見抜くのである。すなわち、この牢獄は欲望を通じて成り立っており、縛られている者自身が、縛られていることへの、最大の 協力者であるようになっているのである——。82E(朴一功訳:2007:240-241)

(Plato's PHAEDO)より

"I admit the appearance of inconsistency in what I am saying; but there may not be any real inconsistency after all. There is a doctrine whispered in secret that man is a prisoner who has no right to open the door and run away; this is a great mystery which I do not quite understand. Yet I too believe that the gods are our guardians, and that we are a possession of theirs. Do you not agree?"

「私が言っていることに矛盾があるように見えるのは認めるが、実際には矛盾などないのかもし れない。人間はドアを開けて逃げる権利のない囚人であるという教義が密かにささやかれている。しかし私も、神々は私たちの守護者であり、私たちは神々の所 有物であると信じている。そう思わないか?」

"[T]hese must be the souls, not of the good, but of the evil, which are compelled to wander about such places in payment of the penalty of their former evil way of life; and they continue to wander until through the craving after the corporeal which never leaves them, they are imprisoned finally in another body. And they may be supposed to find their prisons in the same natures which they have had in their former lives."

「これらの魂は、善の魂ではなく、悪の魂であり、かつての悪しき生き方の罰として、そのよう な場所をさまようことを余儀なくされる。そしてその牢獄は、前世で持っていたのと同じ性質の中にあると考えられる。」

オリュンピオドロス『プラトン「パイドロス」注解』84. 22ff.(Commentary on Plato's Phaedo: W. Norvin, ed. (1913) Olympiodori Philosophi in Platonis Phaedonem Commentaria. Leipzig: Teubner; L.G. Westerink, ed. (1976) The Greek Commentators on Plato's Phaedo, vol. I: Olympiodorus. Amsterdam: North-Holland Publishing Company.):「クセノクラテスノ言ウヨウニ……肉体トイウ牢獄ハティーターン的ナモノデアリ、マタ、ディオニューソスニオイテ頂点二達スル」 (ドッズ 1972:219n)

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