動物との付きあい方 Ver.
2.0:主体/客体としての動物考
こ
の挿し絵はErnst Haeckel, Kunstformen der Natur(1899) からです。違う画像とページを表示。
2013年4月27日(土)13:30〜15:30
「語ろう!どうぶつ」研究会(桃木暁子先生主
宰)で発表予定です!(予定場所は「焼肉屋 いちなん」京都市一乗寺)
シノプシス[要旨]:
これまでの私の、実験動物の扱いに関する参与観察、 生物多様性をめぐる害獣駆除論争の傍聴、自然科学の学徒から文化人類学の教師へ変化の中で体験したり見聞してきたりした数々の動物殺しの経験を通して、人 間の動物との付きあい方について思弁を交えて考察します。
端的に言うと「お前は鬼畜だ!」という極めて厳然と した〈客体としての動物〉」の地位が、現在、人間が守るべきものとしての「動物」そのものの存在論的価値の浮上に伴い、「俺達は鬼畜かも知れない」という 〈主体としての動物〉へと移行すると同時に、人間と動物の間の境界が「かすんできた/薄ぼけてきた(blurred)」世界を、我々——勿論、人間と動物 のことです!——は生きていることを主張したいと思います。
また境界が薄ぼけてきたと同時に、客体の極みである 〈食品としての動物〉は、現代社会の社会の中ではますます(食品加工された)客体としてますます可視的に、そして(自らの死を引き受ける)主体としてはま すます不可視な存在になりつつあります。例えば、私たちの生存に不可欠な屠畜が日常性から遠ざかりつつありますが、そのことを知り現実原則との整合性を試 みる「功利主義者」とそれに同調する攻撃的なベジタリアンたちは、工場畜産は廃絶すべきだと声を上げはじめます。動物実験反対も同じ論理から導かれます。
現代社会におけるロボットの受容過程を調べてみると 分かることですが(それらの文化的な差異はさておき)このような境界の曖昧さや移行に関する言説は、動物=鬼畜=機械=ロボットと人間の関係の中にも見ら れます。
総じて、これからの人間が動物との付きあい方を考え るということは、これからの人間観を考えるということに他ならないのではないでしょうか。取り上げる事例は、卑近で親しみ易いものですので、皆さんとの討 論という共同作業を通して一緒に洗練された議論に鍛え上げていきたいと存じます。
[私の意図]
民族誌事実の細部を真面目に検討するのも重要だが、 それをもとにした理論的大風呂敷で議論を楽しむのも、ええんちゃうかという趣旨から、この演題を考えました。論理的には整合性のあるピータ・シンガーの動 物食忌避の論理と、倫理原則に基づく実践としては論理的に破綻しているが経験的には多いに首肯できるがハロルド・ハーツォグの議論の間を、研究者としてで はなく、日常的生活者として「調停」したいという私の思いからです。
[発表スライド]
Dohbutu_Daisuki2013.pdf(1.3MB)
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099