解釈実践としての医療(解釈の隠喩としての医療)
08■解釈実践としての医療(解釈の隠喩として の医療)
解釈としての医療実践、つまり解釈の隠喩――全体を全体で表象すること――として医療行為を解釈する以上に、医療実践のなかに解釈的行為が不可欠な要素と して見られる(Good 1994:174-179:邦訳307-316)ために、解釈は医療の換喩――全体を部分で表象すること――に他ならないと言う事もできるのでは?
【原文】(ベンヤミン「翻訳者の課題」野村修訳、1994:69)
ある芸術作品なり、ある芸術形式なりに相対して、それを認識しようとする場合、受け手への考慮が役立つことはけっしてない。特定の公衆やその代表者にかか わることは、どんなかかわりかたをするにせよ、道を踏みはずすことになるばかりではない。「理想的な受け手」という概念にしてからが、いっさいの芸術理論 上の論議においては、有害である。なぜなら、その論議が前提としなくてはならないものはただ、およそ人間の存在ならびに人間の本質だけなのだから。した がって、芸術自体もまた、人間の身体的および精神とする――けれども、芸術はいかなる個々の作品においても、人間から注目されることを前提としてはいな い。じじつ、いかなる詩も読者に、いかなる美術作品も見物人に、いかなる交響曲も聴衆に向けられたものではない。
【ベンヤミンを受けた隠喩的パロディ(池田)】
ある医学的仕事(=医療)なり、ある医学の知的形態に相対して、それを認識しようとする場合、受け手である患者への考慮が役立つことはけっしてない。(医 療を必要とされてきた)特定の大衆やその代表者にかかわることは、どんなかかわりかたをするにせよ、道を踏みはずすことになるばかりではない。「理想的な 患者」という概念にしてからが、いっさいの医学理論上の論議においては、有害である。なぜなら、その論議が前提としなくてはならないものはただ、およそ人 間の存在ならびに人間の本質だけなのだから。したがって、医学自体もまた、人間の身体的および精神とする――けれども、医学はいかなる個々の臨床実践にお いても、人間から注目されることを前提としてはいない。じじつ、いかなる精神医学も狂人に、いかなる解剖学的画像も見物人に、いかなる超音波診断も妊婦に 向けられたものではない。
つまり、人間の本質とは、抽象的カテゴリーのことではない。人間とは、生きている諸相のなかにある存在そのものである。
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