刺激の貧困
the poverty of the stimulus, POTS
解説:池田光穂
刺激の貧困(POTS)はチョムスキーの生得的普遍文法のアイディアを支 える「経験的措定」である。下記のリンク先のウィキの冒頭には次のよ うに説明されている:In linguistics, the poverty of the stimulus (POTS) is the assertion that natural language grammar is unlearnable given the relatively limited data available to children learning a language, and therefore that this knowledge is supplemented with some sort of innate linguistic capacity [-> http://bit.ly/1jlyB7k ]. しかしこれだけだったら、何で子供に刺激が貧困であるのか、なんのことがわからない。つまり、子供が、言語を上手に話せない(=統語能力がない)ように見 えるのは、子供が、統語能力を「まだ」学んでいないからなのではない。子供は、先験的な統語能力(=普遍文法)をもっており、外からの刺激が貧困だから、 それが未だ未発達の「ようにみえる」。
これだけであれば、チョムスキーはかなり強引な議論をしているように見えるが、じつは、このアイディアは、スキナーの(連合にもとづく道具的条 件づけ) 著作を批判する過程で生まれてきたものである——あるいはそう信じられている。刺激の貧困は、スキナー心理学の刺激の一般化(stimulus generalization)を批判する概念なのである。刺激の一般化とは次のように説明されている:stimulus generalization is the tendency for the conditioned stimulus to evoke similar responses after the response has been conditioned [-> http://abt.cm/1kmT1Ns ]。このことを先の言語習得に当て嵌めると、スキナリアンは、人間は言語習得にはタブラ・ラサ(白紙)のまま生まれてきて、夥しい刺激の一般化を通して (つまり試行錯誤を通して)ようやく洗練した文法の使い手になるとみるわけである。
これらに対して、第三の道をとるのが、スティーブン・ピンカーやマイケル・ トマセロらの認知言語学系の人たちである。彼らは、人間の言語能力 は、自然選択の結果のもっている本能に近いもので、スキナリアンのように刺激の一般化によってゼロから、言葉を学ぶのでもなく——高度な認知能力のもつチ ンパンジーが分節言語を全く使えないのはその反論の強力な証拠、またチョムスキアンのように、普遍文法プラス刺激のセットなどのような巧妙な想定をしなく て も、統語の先験能力をもつと主張する。この第三の道は、スキナリアンや、チョムスキアンたちの努力の産物を間借りして、進化論という巨大な船にタダ乗りする御都合主義者たちである。
■文献
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099