はじめに よんでください

我々は甲冑で身を固めている、というマルチン・ブーバーのテーゼ

On Martin Buber's Dialogic Thinking

池田光穂

外部からやってくる「徴証(しるし)」を寄せつけまいとするように、我々は甲冑で身を固めている、というマルチン・ ブーバーのテーゼ

「われわれはみな、甲胃を身にまとい、われわれに生ずるしるしを近づけぬようにしている。しるしはたえず生じている。生きていることは、語りか けられていることであり、われわれはただこのしるしに立ち向かい、これに耳を傾けることだけが必要である。しかしこの冒険はわれわれにとって非常に危険な ものである。音のない雷は、われわれに破滅の威嚇をなすごとく見え、それゆえ、われわれは世代ごとに防禦の備えを完全なものにしようとする。われわれの知 識は、つぎのような確信を与える〈落着きなさい、すべては必然的に起るべくして起る。何もあなたに向けられているのではない、あなたがねらわれているので はない。まさにこのようなのが世界である。あなたは自分で望むままに世界を体験することができる。しかしあなたが心の中でいつも思っていることは、すべて あなたから生ずるのである。あなたは何も要求されず、だれもあなたに語りかけず、すべては静かである〉と。

われわれはみな、甲胃で身をかためており、習慣的になったものはもはやすぐには感じ ないようになっている。ただ時々、習慣を破り、魂を敏感にかき立てる瞬間がある。そのような瞬間が生じたとき、われわれははっとして自問する。〈何か特別 のことが起ったのか、それはわたしが毎日出合っているようなたぐいのものではないのか〉と。そしてこの自問にたいし、つぎのようにわれわれは自答する。 〈いや、何も特別なものというわけではない。それは毎日あるものと同じである。ただわれわれが毎日そこにいないだけである〉と。

語りかけのしるしは特別なものではない。事物の秩序からはみ出しているようなもので はない。それはいつも生ずるものであり、いずれにしても元来生じているのであって、語りかけによって何かが新たにつけ加わるわけではない。エーテルの波は つねに送られているが、しかし、われわれはたいてい、受信機をはずしているのである。

わたしに生起するものは、わたしへの語りかけである。わたしに生起するものである世 界の現象は、わたしへの語りかけである。この語りかけをわたしはひたすら去勢し、芽を摘むことによってのみ、わたしを目ざしているのではない世界現象の一 部として理解することができる。すべてのものを関連づけながら組織化することだけを求める去勢化のこの体系は、途方もない人類の怪物的行為である。言語も またこの体系のために奉仕するように定められている」(ブーバー 1979:189-190)。

——マルティン・ブーバー『我と汝:対話』植田重雄訳、岩波文庫、東京:岩波書店,

Jeder von uns steckt in einem Panzer, dessen Aufgabe ist, die Zeichen abzuwehren. Zeichen geschehen uns unablässig, leben heißt angeredet werden, wir brauchten nur uns zu stellen, nur zu vernehmen. Aber das Wagnis ist uns zu gefährlich, die lautlosen Donner scheinen uns mit Vernichtung zu bedrohen, und wir vervollkommnen von Geschlecht zu Geschlecht den Schutzapparat. All unsere Wissenschaft versichert uns: »Sei ruhig, das geschieht eben alles vie es geschehen muß, aber an dich ist nichts gerichtet, du bist nicht gemeint, das ist eben >die Welt<, du kannst sie erleben wie du willst, aber was immer du in dir damit anfängst geht von dir allein aus, man fordert dir nichts ab, man redet dich nicht an, alles ist still.«

Jeder von uns steckt in einem Panzer, den wir bald vor Gewöhnung nicht mehr spüren. Nur Augenblicke gibt es, die ihn durchdringen und die Seele zur Empfänglichkeit aufrühren. Und wenn sich dergleichen uns angetan hat und wir dann aufmerken und uns fragen: »Was hat sich denn da Besondres ereignet? Wars nicht von der Art, wie es mir alle Tage begegnet?«, so dürfen wir uns erwidern: »Freilich, nichts Besondres, so ist es alle Tage, nur wir sind alle Tage nicht da.«

Die Zeichen der Anrede sind nicht etwas Außerordentliches, etwas was aus der Ordnung der Dinge tritt, sie sind eben das, was sich je und je begibt, eben das, was sich ohnehin begibt, durch die Anrede kommt nichts hinzu. Die Ätherwellen brausen immer aber wir haben zumeist unsern Empfänger abgestellt. 

Was mir widerfährt ist Anrede an mich. Als das, was mir widerfährt, ist das Weltgeschehen Anrede an mich. Nur indem ich es sterilisiere, es von Anrede entkeime, kann ich das, was mir widerfährt, als einen Teil des mich nicht meinenden Weltgeschehens fassen. Das zusammenhängende, sterilisierte System, in das sich all dies nur einzufügen braucht, ist das TItanenwerk der Menschheit. Auch die Sprache ist ihm dienstbar gemacht worden. (Buber, 1962, SS.183-184)

Buber, Martin.1962. Schriften zur Philosophie, [Werke, 1], München : Kösel. - Heidelberg : Schneider

マルチン(マルティンとも表記:Martin Buber, 1878-1965)・ブーバー

問い:
1.ブーバーが主張する「われわれ」とはいったいどのような存在なのか?
2.ブーバーは、この「われわれ」が置かれた状態を〈よし〉としているのか? それとも、なにか「われわれに」みずからの〈変化〉を促そうとしているの か?
3.ブーバーの主張について、これを読んだ君は首肯(しゅこう:肯定すること)できるか? そうである場合は、さらに彼の主張を補強する意見を付け加えて ほしい。また何らかの異論があればそれに対する反論や疑問を考えてみよう。

このハンドアウト:140410bialogic_Buber.pdf

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