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理性の綱渡り

A Philosopher is Walking on Tightrope of Reason

池田光穂

理性の綱渡り→ ロバート・フォグリン『理性はどうしたって綱渡りです』野矢茂樹ほか訳、春秋社、2005年についてのノート→以下は章立て

0.序論

1.どうして論理法則に従わなければならないのか

2.ディレンマとパラドクス

3.純粋理性とその幻想

4.懐疑論

5.挑戦に対して穏健に答える

6.好みの問題

7.結語



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0.序論

【私流の偏向】

「道徳(倫理、規則等)が存在しないのなら、なにをしてもかまわない」——※原著は「神の存在」だが、これを選言(「または」の用法)で書き換えると、「道徳が存在するか、または、なにをしてもかまわない世界がある」

このような選言は、人々に二者択一を迫る論法を(知らず知らずのうちに)形成する。

その論理

1)二者択一の問いの構成は妥当だと思ってしまうこと
2)どちらかひとつを選択することが、意義のあることだと思ってしまうこと
3)このような選言命題にむかわないのは、人間の態度決定として曖昧で相応しくないと考えてしまうこと。

・実存主義者には、しばしばこのような選言命題を好 む人がいる——フォグリンはサルトルを引用する。

先の選言命題に戻ると、

「道徳が存在するか、または、なにをしてもかまわない世界がある」のうち前者、

すなわち

「道徳が存在する」と考える人間は、人生において道徳的に生きることに重要な価値を置く。
他方、「なにをしてもかまわない」という立場は、しばしば、道徳的ニヒリズムと呼ばれる。

※ウィトゲンシュタインの「深刻な動揺」(『探究』111節)

「われわれの言語形式を誤解することによって生ずる諸問題は、深遠さという性格をもっている。そこには深刻な動揺があって、それはわれわれの言語の諸形式 と同じようにわれわれのうちに深く根をおろし、その意味はわれわれの言語の重要さと同じように大きい。——なぜわれわれは文法上のしゃれを深遠と感ずるの か、とみずからに問え。(しかも、これこそが哲学的な深遠さなのである。)」(大修館版、p.100)

・無矛盾律(Law of noncontradiction)
・The two propositions "A is B" and "A is not B" are mutually exclusive.
・‾(p&‾p) :pでありかつ‾p(非p)であるということはない。

・弁証的幻想(カント):

・カントの方法:「…理性の能力の本質的な限界を見てとり、受け入れること、そしてその限界のありかを見積もり、私たちの知的努力をその能力の範囲内にあ る問題に限定すること」(ロバート・フォグリン『理性はどうしたって綱渡りです』野矢茂樹ほか訳、p.19、春秋社、2005年)(フォグリン 2005:19)

懐疑論(skepticism)と独断論(dogmatism)

「ドグマチズムのまどろみ」——カントがかって依拠したライプニッツ=ヴォルフ派を批判する用語

1.どうして論理法則に従わなければならないのか


・ウィトゲンシュタインの真理表(フォグリン 2005:43)
---------------------
 p | 真 偽
‾p | 偽 真
---------------------
・pでないものが偽であれば、pは真である。
・pが真であれば、pでないものは偽である。

---------(連言を含む真理表)----- ------(フォグリン 2005:45)
p    | 真 真 偽 偽
q    | 真 偽 真 偽
p&q | 真 偽 偽 偽
------------------------------------------
・無矛盾律:
・‾(p&‾p) :pでありかつ‾p(非p)であるということはない。

---------(無矛盾律に関する真理表)-- ---------(フォグリン 2005:46)
A | p       | 真 偽
B | ‾p       | 偽 真
C | p&‾p    | 偽 偽
D | ‾(p&‾p)    | 真 真
------------------------------------------


・無矛盾律に軍配をあげる哲学者は、今日ではすくなくなった「現状」——(フォグリン 2005:53)

【ウィリアム・ジェイムズの葛藤】

・社会的に隔絶した1人の人間が責め苦を負わせるだけで、残りの何百万の人がずっと幸福であるとしても、私たちは、その選択に対して忌まわしいことだと躊 躇する傾向がある。ジェイムズは、あらゆる議論を超えて、それ自体としてわきあがる独自の感情だという(→ジェイムズ「信ずる意志」pp.242- 243)

WILLIAM JAMES , THE WILL TO BELIEVE,
http://www.gutenberg.org/files/26659/26659-h/26659-h.htm

・しかし、この議論は、トートロジーだ。〈あらゆる議論を超えて〉というのがトリッキー。

・例えば、テロリストに拷問して、爆弾の隠し場所をつきとめることが正当化できるのか?——このジレンマは、義務論的なもの(=拷問はおこなうべきでな い)と帰結主義(=爆弾を探しだすことで多くの命が救える)の葛藤をあらわす。——(フォグリン 2005:82-83)

2.ディレンマとパラドクス

・第二章の「ルードヴィッヒ」というゲームに託して議論する、フォグリンのスタイルにはついていけない。この修辞はあまりスマートじゃないと思う。

Human reason, in one sphere of its cognition, is called upon to consider questions, which it cannot decline, as they are presented by its own nature, but which it cannot answer, as they transcend every faculty of the mind. - PREFACE TO THE FIRST EDITION, 1781, Immanuel Kant's "THE CRITIQUE OF PURE REASON"

3.純粋理性とその幻想

・啓蒙理性よりも「用心深い合理主義」が、フォグリンの立場(フォグリン 2005:96)

【カントの中心的テーマ】(フォグリン 2005:97)

・私たちが理解する世界は、知性が課してくる諸概念とカテゴリーにより形成され、それらは組織化されている

・私たちの経験に構造を与える概念装置道具立てを、経験に答えられない問題に適用すると、どうしても知的災厄に陥ってしまう。

【ラディカルな相対主義の問題】

【カント】(フォグリン 2005:109)

——概念なき知覚は盲目

——知覚なき概念は空虚

【カントの弁証的幻想】

「カントの最も重要なアイデアのひとつは、知性の幻想はしばしば競合する両立不可能な二つの幻想からなる、というものでした。ある幻想のもとでは、私たち は絶対的で無条件な存在を必然的なものとして認めようとしますが、その一方で別の幻想のもとでは、まったく正反対の極に振れて、すべては相対的で条件付き のものだと考えたくなります。そもそも何かが存在しうるためにはその存在を支える最終的な根拠がなければならない、と考える一方で、これが最終的な根拠だ と見てとったとたんに、つまり、それを対象化して吟味しはじめるやいなや、こんどはその根拠をさらに求めねばならないと感じ出すのです。カントはこの往復 運動を弁証的幻想と呼びます」(フォグリン 2005:114)。

”The light dove cleaving in free flight the thin air, whose resistance it feels, might imagine that her movements would be far more free and rapid in airless space. Just in the same way did Plato, abandoning the world of sense because of the narrow limits it sets to the understanding, venture upon the wings of ideas beyond it, into the void space of pure intellect. He did not reflect that he made no real progress by all his efforts; for he met with no resistance which might serve him for a support, as it were, whereon to rest, and on which he might apply his powers, in order to let the intellect acquire momentum for its progress".-  Immanuel Kant's "THE CRITIQUE OF PURE REASON"

4.懐疑論

1)デカルト主義(フォグリン 2005:134):デカルトは懐疑主義者でなく、むしろ反懐疑主義
2)ヒューム(フォグリン 2005:147)
3)ピュロン(フォグリン 2005:150)


5.挑戦に対して穏健に答える

・ヒュームの懐疑論は、哲学的省察に必要とするもので、日常生活に懐疑論をもちこむ必要性はないと論じる。

『人間本性論』

「理性はこうした暗雲を払うことができないが、なんとも幸運なことに、私たちの本性自らがその役を果たしてくれる。本性は、私のこりかたまった知性をほぐ してくれたり、あるいは、哲学的キメラのすべてを忘れさせるような気晴らしや、私の五感にいきいきとした印象を与えることによって、私をこの哲学の憂欝と 錯乱から救ってくれるのである。食事をしたり、バック・ギャモンをしたり、会話をしたり、友人と愉快なひとときを過ごす。そうして数時間を楽しく過ごした 後、再びその思索に立ちかえろうとすると、それらは冷やかなものに思われ、またわざとらしく馬鹿げても見え、私はもうこれ以上この思索に踏み込もうという 気持ちを失っている」

フォグリン(2005:171)による講釈

「ヒュームが何を言っているかをはっきり理解することが重要です。この文中で、彼は自分自身が呈示していた懐疑論的議論への応答として、なんらかの議論を 為そうとしているのではありません。それはプラグマティックな観点からの議論でさえありません。ヒュームは懐疑論を反駁しようとは、まったくしていないの です。それはたんに懐疑論について彼が見出した事実の報告にすぎません。つまり、私たちが懐疑論の疑いに打ちのめされるのは哲学的省察に集中しているとき であり、日々の仕事や楽しみに向かっているときにはそうした疑いはほとんど消え去っている、この事実です。『人間知性研究』の第五章で、ヒュームは懐疑論 に対するこのような応答を、いささか奇妙な言い方ですが、疑いに対する「懐疑論的解決」と呼んでいます」(フォグリン 2005:171)

この後は、ウィトゲンシュタインの引用で、ヒュームと同じラインだという、凡庸なまとめ。

フォグリン(2005:177-181)によるパースペクティヴィズム批判

・フォグリンのやり玉は、トーマス・クーン、ファイヤアーベント、そして、ローティ(ただしローティのプラグマチストではなく総体主義がフォグリンは気に 入らないようだ)

・「実験はぶきっちょな代用品などではない」という言葉が、それを象徴(フォグリン 2005:183)。

・「懐疑論的解決」(ヒューム「人間知性研究」の4章、5章)が重要だという(フォグリン 2005:189)

6.好みの問題

・前章をうけて、ヒュームの講釈が続く。

7.結語

ヒュームによる2つの哲学(「人間知性研究」邦訳3ページ)

1)市民的な平明な哲学

2)難解な哲学


 

フォグリン『理性はどうしたって綱渡りです』とゴーゴー・カ レー(東京都文京区本郷にて)

・DavidHume.org:ヒュームのテキストが読める(ローヤル・ソサイエティ提供か)http://www.davidhume.org/

・Sextus Empiricus (1842):Internet Archives

◎理性のスキャンダル(カント)

これは、理性が自分自身と矛盾する。自分自身のアンチモニー(二律背反)に陥ること。

つまり、思考そのものが、知ることができるものの限界を超越し、自分自身のアンチモニー(二律背反)に陥ることをさす。

【練習問題】

【Amazonでコレクターと称して絶版本を法外な 値段で中古売る奴Aと、図書館で本借りて〈全部コピーして〉自炊する奴Bと、どちらが悪いか?】

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【ヒント】

 今回授業で習った、義務論と帰結主義で考えてみよう! また心に余裕のある人は、この問いかけの枠組み(フレイム)自体を問うてみよう!

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→義務論で考えると、

B>Aで、本の全部の複写は著作権で禁じられてい るからBは悪く、中古品はどのような価格で売ってもよいという権利を行使するAは悪 くないということになる。【うざい風紀委員】

→帰結主義で考えると、

Aの行為は〈常識外れの商慣行〉を助長するため、 あるいは一部の大金持ちにしか便益をもたらさないために、限りなく悪意に近い行為 であるが、Bは、絶版であり出版社にも不利益をもたらさないが、Bの勉強には多いに貢献するので、社会全体にとっては限りなく無害に近いことになる。【屁 理屈上手】

→問題全体のフレイムでみると、

ある行為を比較する時には、同一の行為者に対して Aの行為か、Bの行為のどちらが好ましいかという考量をする。行為者Aと Bはことなる存在で、行う行為内容もまったく別々の内容なので、このような問いかけ自体がナンセンスであり、行為者のAとBのどちらかが正しい(悪いか) という選別はできないということになる。【卓袱台返し】

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リンク

・︎論点先取(Begging the question, Petitio Principi)▶︎▶︎︎▶︎▶︎︎▶︎▶︎︎▶︎▶︎︎▶︎▶︎

文献

・ロバート・フォグリン『理性はどうしたって綱渡りです』野矢茂樹ほか訳、春秋社、2005年/Fogelin, Robert J. Walking the tightrope of reason : the precarious life of a rational animal. Oxford University Press , 2003.

その他の情報



Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1997-2099

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