池田光穂
1.臨床コミュニケーション入門
ヒューマンコミュニケーションとはなにか、コ
ミュニケーションの定義、対人コミュニケーションとしての臨床コミュニケーションについて紹介、解説し、この授業の目論見について説明します。各人の自己
紹介などをおこないアイスブレイキングを通して、この授業のキックオフとします。
2.臨床コミュニケーション入門(承前)
授業登録期限直前のために、前回の授業の紹介を
なるべく重複しないようにパラフレイズして解説し、早速、授業運営の解説に引き続き、臨床コミュニケーションに関するグループ討論と発表をおこないます。
3.サン=テグジュペリ「星の王子様」から考える
サン=テグジュペリ「星の王子様」を教材にし
て、作品を鑑賞すると同時に、その作品の中にある、コミュニケーションとディスコミュニケーションの諸相について考えます。
4.予防接種とヘルスコミュニケーション
予防接種の疫学的根拠にもとづく公益性と、接種
事故の危険性という被接種当事者のリスク認識、という2つの事象にまつわる齟齬について、それぞれの立場性を明確にしながら議論します。両者の側の主張が
相反的にならないヘルスコミュニケーションの可能性について考えます。
5.他人とコミュニケーションしていない状況につい
て考える
臨床コミュニケーションの仕事に従事すること
は、ともすればコミュニケーションスキルを闇雲に挙げることであると、しばしば私たちは誤解します。他人とコミュニケーションする権利を義務と取り違える
と、それは苦痛に満ちたものになるはずです。他人とコミュニケーションしていない状況/コミュニケーションを遮断する技という観点から、逆説的にコミュニ
ケーションの可能性と限界について考えます。
6.挨拶について考える
皆さんは、教室にたどりつくまでに、さまざまな
人と挨拶してきたと思います。あるいはこの日は教室に直行してきた人は全く挨拶をしてこなかったかもしれません。なぜある人には挨拶をし、別の人には挨拶
をしないのでしょう。また挨拶をした場合でも、その相手によってさまざまな挨拶の《深度》があるかもしれません。挨拶は形式的にすぎないのか、また対人コ
ミュニケーションについて不可欠で不可避なものなのか?今日おこなってきた挨拶のエピソードから、挨拶の本質的議論にまで幅広い議論を行いましょう。
7.ICTは対人コミュニケーションの代替物になれ
るか?
社会のさまざまな箇所で、ICT(情報通信技
術)を使ったコミュニケーション・メソッドの刷新がおこなわれています。ICTの議論をすると必ず出てくるのは、ヒューマンコミュニケーションとの比較で
す。ICTは正確だが《人間性がない》というものです。正確なものと《人間性》は共存可能なのでしょうか?ICTを《人間性》と対立するものではなく、む
しろ補完するものだという意見もあります。ヘルスコミュニケーションにおけるICTの可能性とその限界について考えます。
8.人工知能との対話
人工知能(AI)と呼ばれているものは、コミュ
ニケーション研究においていつも論争的な立場に「いる」——これは存在論的意味付け。そして、実際にコミュニケーションしてみて利用者が「知性」と感じる
ことができればAIとみなしてよいというのがチューリング・テストの意味付けである——認識論的な定義付け。だが、実際には言語ゲームというシャドー・ボ
クシングができればOKというものもある——これは語用論的な意味付け。AIの研究開発史の興味深いエピソードから「人工知能との対話」について考えてみ
たい。
9.自分とのつきあい方
対人コミュニケーションのマニュアルには、他人
とのつきあい方や、社会とのつきあい方、あるいは学生や大学院生向けには教授(指導教授)とのつきあい方というものまであります。しかし、よく考えてみる
と、私たちがつきあっている最初で最大の《他者》とは自分自身なのではないかという気がします。対人コミュニケーションの本質を逆照射するために、自分と
のつきあい方について、真面目に考える時が来たようです。
10.痛みをつたえる
対人コミュニケーションの教書にはしばしば《共
感》という言葉が呪文のように出てきます。でも《共感》というものが、理性的な相互理解なのかそれとも情動のような共体験なのか、どのようにしたら《共
感》が可能なのか、納得できるような説明に出会うことは皆無に近いのではないでしょうか。他人の痛みは《感じることができない》が、他人が痛がっているこ
とは《理解できる》のはなぜなのでしょうか?痛がっている人が自分が使いなれない語彙を使っている時、《共感》するためにはまず何が必要なのか、よく考え
てみましょう。
11.孤独について考える
人々が十全にコミュニケーションしあい平和裏に
共存すること。それが実現されない時に、孤立、孤独、そして隔離という状況が生じます。孤独が強制された状態である時、人はそれを《疎外》されたと表現し
ます。他方、プライバシーや沈思黙考という言葉にあるように、孤独の状態に良き価値がおかれることがあります。《孤独を感じる/感じれない》ということを
鍵概念にして、人間以外の事物(例:AI)が《孤独を感じる》のかという思考実験をおこないます。
12.表現行為を通したコミュニケーション
「絵を書く」「詩文を交換する」「ダンス表現を
する」等々。これらは、芸術表現を通してコミュニケーションするということです。情報通信におけるコミュニケーションの理想とは、ノイズ(雑音)のない
ピュアな情報をより大量により迅速に伝えることですが、対人コミュニケーションには、ディスコミュニケーションを含めて《曖昧なものの豊饒さ》というもの
があります——鳥獣戯画という作品を思い起こしてください。遊びをせんとや生まれけむという存在である人間である以上、コミュニケーションという遊びを体
感してみましょう。
13.良きサマリア人のたとえについて
ルカによる福音書(10:25-37)にある
「良きサマリア人のたとえ」はこれまで夥しい宗教的な実践のあり方に関する議論において使われてきたエピソードです。しかし近年では臨床倫理や臨床コミュ
ニケーションの実践倫理の議論の素材としてよくその俎上にあがります。《自己が善行を実践する》ことと《他者が善行を受ける》ことの相互連関の意味につい
て考えてみます。
14.教育を強制されることの意味
イバン・イリイチ(1926-2002)は、民
主主義的な近代社会にとって不可欠なものであると見られている識字・公教育・医療・市場・産業・労働の「経済セックス化」について批判的再考を促した人で
す。しかし彼は闇雲な破壊主義者というよりも、私たちが当たり前のものとして受け入れている社会制度にはさまざまな欠陥があることを指摘し人間の生き方に
ついて《それ以外の方法》があるのではないか、と希望を決して棄てなかった人でもあります。教育を《強制》されている空間としての、今、ここ(=教室)で
考える意義は、イリイチの希望から私たちに給備されています。
15.まとめの授業
ヒューマンコミュニケーションとはなにか、コ
ミュニケーションの定義、対人コミュニケーションとしての臨床コミュニケーションについて、最後にふり返り、この授業が皆さんにとって何であったのか?
どのような意義があったのか?/なかったのか?についてディスカッションを通して検証します。