はじめによんでください 

臨床宗教師

Risho-Shukyo-Shi, Buddist Style Chaplain in Japan

解説:池田光穂

2012(平成)年4月より東北大学実践宗教学寄附 講座(2012-2014年)が、臨床宗教師の名前をつかって資格認定を前提とする講座をおこなってきたのが嚆矢と思われる。その経緯を当該の研究室は次 のように説明する。

「東北大学実践宗教学寄附講座では2012年度より 「臨床宗教師」研修を行なってきましたが、他団体が同じ名称を用いた資格認定を開始したことに関して、当講座との関係などお問い合わせを何件かいただきま した。そこで、この際「臨床宗教師」の名称についての当講座の立場を明らかにしておきたいと思います。/まず、「臨床宗教師」とは、英語の「チャプレン chaplain」の訳語として故岡部健医師が考案した名称ですが、公共的施設などで働く宗教者をさす一般名詞であると考えています。したがって、「臨床 宗教師」という名称は、東北大学実践宗教学寄附講座が排他的に独占したり、他団体が使用するのを禁じたりすべきものではないと考えています。/その上で、 今後も類似の名称を持つ資格等が増えていくと思われますが、私達の目指している「臨床宗教師」の大きな特色は、超宗教・超宗派の協力と学びあいを通して養 成される宗教者であるということをあらためて確認しておきます。/次に、資格についての考え方ですが、私達は「臨床宗教師」の研修を実施し、修了証を発行 していますが、これは高いレベルのケア能力の獲得を示すものであるというより、「臨床宗教師」として必要な基礎的な知識とスキルを身につけ、以後の終わる ことのない自己研鑽の歩みへのスタートラインに立ったことの証明であると考えています」(改行段落改めは/で示した)。出典:http: //www.sal.tohoku.ac.jp/p-religion/diarypro/diary.cgi?field=8

上記のように、臨床宗教師とは、実質的に仏教を中心 とする日本の社会にチャプレンとその制度を普及させようとする動きのなかで生まれた用語のようだ。仏教ではチャプレンに相当する宗教的役割を「ビハーラ 僧」と呼ぶ。東北大にこのような講座が設置される理由は不詳である が、2011年3月1日の東日本大震災以降における「グリーフケア」への社会的要請が高まってきたことと関連している。

講座の内容は、三か月単位で、講義と、医療・介護施 設での実習から構成される。東北大学の場合には、特定の宗教色に偏ることはなく、僧侶や牧師などが受講してきた。その業務は、布教・伝道にあるのではな く、苦悩を抱えた当事者と向き合い、傾聴することが基本であるという。

この用語の考案者は、岡部健(おかべ・たけし、医 師、1950-2012:栃木県小山市生、東北大学医学部卒、抗酸菌研究所、宮城県がんセンターを歴任後、名取市にて在宅診療の診療所を開業した)による と言われている。その定義は、同上のホームページよると「「臨床宗教師」とは、公共空間で心のケアを行なうことができる宗教者を意味するも のとして、英語の「チャプレンchaplain」の訳語として故岡部健(たけし)医師が考案した名称」と書かれている。出典:(短縮URLとしています)

なお、この東北大学と連携して、龍谷大学大学院は、 2014年4月から「臨床宗教師」を養成する講座を開設した。この時点で、東北大学は57名の臨床宗教師の認定をしたと報道されている(CB News, 2014年2月28日)。同大学院は、2015年度以降は、「外部の宗教者」にも門戸を開いて引き続き講座を開講すると言われている。

曹洞宗の鶴見大学もまた独自に「曹洞宗大本山総持寺 の修行僧」向けの講座を開始したと言われる。

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このような活動を、ヒューマン・コミュニケーション 研究あるいは文化人類学という観点から考察してみると、どのように見えるだろうか? いささか奇矯なアイディアだが、米軍におけるチャプレン(従軍牧師) の活動をその比較参照してみよう(文献参照)。臨床宗教師と従軍牧師の共通点は、我々が定義した臨床コミュニケーションの定義に叶う活動の人材であること である。すなわち、臨床コミュニケーションとは「ある具体的な解決を目的としておこなわれ る対人コミュニケーションのこと」である。上掲の「公共空間」とは、人間と人間が出会う場所で、なんらかの公開性(=社会に開かれた)が担保されている場 というのは、兵卒が日常生活を送る場においても当然なりたつ。従軍牧師も、前線ではない戦場や軍事作戦の後背地において、なんらかの兵卒への心をケアをお こない(あらゆる戦闘行為を厳格かつ完全に否定する宗教家を除けば)の人間性を確保することに従事しているとみなすことができる。臨床宗教師が活躍する (と期待されている)医療や介護の現場、あるいは自殺予防の現場もまた、人間性を奪う/奪われた/心の剥奪状態が、容易に起こりえる場所である。そこで、 臨床宗教師は、人間性を回復する「ある具体的な解決を目的としておこなわれる対人コミュニケーション」の現場に身をおいているからである。

臨床コミュニケーションにおける現場の齟齬とは、専 門家における時間のなさ(=希少性)と臨床当事者における時間性の特異性(=固有的連続性)である。時間性について気づいたのは、臨床コミュニケーション (clinical communication)におけるParker and Enrico Coiera(2000)の指摘においてである。さて後 者(=臨床当事者がかかえる特異的な時間性)においては、さまざまな苦悩を臨床当事者が述べる とき、そこには時間経験の圧縮、逆転、想起、同時存在などの現象が、その語りの中にみられる。それゆえに、臨床当事者は、病いや苦悩経験を語る際には、そ の時間秩序は専門家にとって無秩序に見られようが、語られる病いや苦悩経験の語りの中心的テーマにおいては、第三者にも理解可能な「秩序構造」をもつよう に思われる――それが仮に専門家による論点先取(begging the question)であってもそのような「秩序化」は分析や考察の最初の段階に不可欠な仮説として採用されるべきである。しか し、この段落の冒頭で述べたように、専門家は、担当すべき多くの臨床当事者を抱えているために、後者の生活世界の内実についてなかなか知る機会やその精神 的余裕を得ることが困難である。そのために、心のケアのための要員として、臨床宗教師が要請される必要性が生じる。したがって、臨床宗教師は、専門家がな かなかもちえない臨床当事者との比較的穏やかで落ち着いた関係のなかで、専門家を支援するために、あるいは臨床当事者じしんの心の安らぎのために、そのよ うな臨床コミュニケーションの技術が駆使されることが要請されているのである。

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謝辞

このページは大阪大学全学教育推進機構等事務部の菅 龍彦・嘱託職員からの情報や話題の提供に刺激されて造られたものです。菅さんには、これ以外においても、私の現在の職場の学内業務に関する専門知識情報、 学内外でのマスメディア報道などを、適宜提供していただき大変感謝しております。ここに記して感謝しております。なお、ここに書かれた情報や文責は、あく までも池田光穂によるものであり、私が所属している大学や職場でも、また国内外からいただいている研究補助金の交付団体の見解ではありません。

文献


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