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実証主義批判と形而上学

On Critique against Positivism and the Metaphysics

池田光穂

★バートランド・ラッセルの失望

「各々の世代はそれぞれその新しい「世代 的公理」を探し求めつつ科学的直観と発見の波を更新していく。そしてそうすることによってその世代自身 の 感情的性格を哲学的な言葉を使って明示する。アインシュタイン、ボーア、ド・プロイ、ハイゼンベルクといった世代的革命家達は、実在への根底的で無意識的 かつ感情的な対応を反映している大胆で新しい考え方を提示した哲学者達から霊感を得たのであった。アインシュタインは、マッハ、スピーノザ、ショーペンハ ウアーを読んだ。ボーアはキルケゴールに心を向けた。またド・ブロイはベルクソンに耳を傾けたが、このベルクソンの著作はポール・エーレンフェストの熱情 をも同様に喚び起こしたのであった。彼らは例外なくアカデミック な哲学者、実証主義者を嘲笑する傾向をもっていた。マックス・ボルンが、一九四八年に、アインシュタインに宛てて、「あなたが私を、私の実 証主義的思想の故に非難なさるのは不愉快です。その実証主義批判こそ真に私が求めるまさしく究極的なものなのです。私はどうしても実証主義者を容赦するこ とはできません」、と書いた時、彼は科学における世代的革命家遠のまさしく共通の感情であったものを表現したのであった。かの科学の草命家達はアカデミッ クな哲学者達の巧みな言葉使いに反撥した。彼らにとって、哲学というものは、もしそれが傾聴に値するものならば、感情的に満足しうると同時に科学的にみて 発見誘導的(ヒューリスティック)である何がしか指標的な実在のイメージを提示しなければならなかった。かくてマックス・ボルンは学生の時にエドムンド・ フッサール教授の講義に興味はおぼえなかったが、一方彼の青年時代「広く読まれ」、彼に「独我論的」 神托を付与した無政府主義的な反抗の古典、マックス・シュティル ナーの『唯一者とその所有』に心をかき たてられたのであった。分析的言語哲学は、たとえそれがバートランド・ラッセルのような巨匠によって詳しく語られた場合でさえ、科学理論の探究者達の関心 を呼び起こすことはできなかった。ラッセルは第二次大戦中プリンストンに滞在していた折、毎週アインシュタインの家に出かけ、そこで彼や、グルト・ゲーデ ル、ヴォルフガング・パウリらと議論した。しかしラッセルはこれらの会合に「失望」した。というのは、「彼ら三人は皆ユダヤ人であり亡命者であって、その意図においてコスモポリタ ンであったが、彼らは皆、形而上学に対するドイツ人的偏執を持ち合せていて、われわれの精一杯の努力にもかかわらず、議論の出発点となる共通の前提に到達 することは決してできないということを悟った」からであった。その科学者達が、自家製の哲学においてなおも探し求めていたのは、世界像 world-images や世界観念 world-ideas ——まさに大学における学問では排除された要素——を結実させることなのであった」(フォイヤー 1977:353-354)。

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