はじめによんでください

社会の中の民族誌

『サモアの思春期』とその作者マーガレット・ミード

解説:池田光穂

先に述べたようにフランツ・ボアズルース・ベネディクトマーガレット・ミードた ちの学説上の立場は、文化主義であった。その中でのミードの研究の関心は、その社会に固有で特色のある文化とは何か、それらの文化の諸要素にはどのような 関係があるのか、またそれらが実際にどのように世代間を超えて継承されてゆくのかということにあった。ミードは、『サモアの思春期』を書き上げた後、 ニューギニアのマヌス、チャンブリ、イアトゥムル、ムンドゥグモール社会、さらにはバリ島において、男女の性役割や幼児の発達や育児について調査を続け た。彼女は人間の心的同一性に煩わされることなく、子供たちの成長発達や母親の躾、男女の社会関係といった、文化環境が子供に対して性格形成をする過程を 観察することに専念できた。彼女の仕事は、かつて文化とパーソナリティ学派と呼ばれた人類学の理論に貢献すると共に、今日のジェンダー研究、フェミニスト 人類学、映像人類学など文化人類学の多岐にわたる諸分野の先駆的研究をなしている。

しかしながら彼女の文化主義にはいくつかの問題点がある。ひとつは、人間の情動の発達は、それぞれの文化によって形成を受けるという仮説を証明するため には、社会の価値観の変動を受けない保守的な文化構造をもった社会で調査をおこなう必要がある。そのために人類学者は、その調査地として変化を受けていな い「未開社会」を探すことを余儀なくされる。しかし、このような研究上の事態は、変化しないものこそが「真性な文化」であるという原因と結論を転倒させる 見解を比較的無反省に研究者に押しつけることになった。実際ミードも、サモアに赴いた際に、アメリカ海軍の停泊するパゴパゴのあるツツイラ島をアメリカの 文化の影響を受けすぎた地域として敬遠し、マヌア諸島に真性のサモア文化を求めて旅することになった。ミードにとって重要なのは、選択の余地のないサモア の人たちの固有の文化であり、社会が変化することではない。ミードはこの本のフィールドであったマヌア諸島に五ヶ月足らずしか滞在できなかったが、これ以 上の滞在がそれほど意味がない理由として、学校教育がはじまり少女たちに話が聞けなくなるという苦情をボアズへの手紙(一九二六年三月七日)の中に書いて いる。プロテスタント教会や学校教育の存在は、彼女の人類学調査にとってはせいぜい、固有の文化の価値をゆるがす雑音でしかなかった。

しかしながら現在の我々は、当時のアメリカ領サモ アにはアメリカ本土の人たちが軍事的派遣や宣教のために頻繁に渡航し、またサモアの現地の人たちと結婚し、ハワイやアメリカ本土へと次第に移民や渡航を開 始していった歴史的経緯について知っている。ミードの指導教官であったボアズとの妥協により、アメリカ領サモアをフィールドとして選択したという事実もま たサモアの歴史的状況に深く関わっていたことなのだ。

残されたことは、サモアの人たちが申し立てる、その特殊なサモアの性生活の描写に関する誤りを修正したいという意見を受け容れ、ミードの『サモアの思春 期』に代わるべき新しい民族誌の登場をサモアの人たちと共に待つということなのではないだろうか。ミードが聞き入れなかったサモアの人たちの異議申し立て に、新しい人たち――それは現在の君たちかもしれない――たちが耳を傾けるべきなのだ。


Copyright Mitzub'ixi Quq Chi'j, 2015