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ラテンアメリカ1825年

Latin America in 1825

池田光穂

ウィキペディア(日本語)でラテンアメリカを引くと およそ次のような記述に出会う(2021年3月27日現在):「ラテンアメリカ(西: Latinoamérica, América Latina, 葡: América Latina, 英: Latin America, 仏: Amérique latine)は、アングロアメリカに対する概念で、アメリカ大陸の北半球中緯度から南半球にかけて存在する独立 国及び非独立地域を指す総称である[田中高, 1997『ラテンアメリカ研究への招待』新評論]。 ここでの「ラテン」という接頭語は「イベリア(系)の」という意味であり、これらの 地を支配していた旧宗主国が、ほぼスペインとポルトガルであったことに由来している。 多くの地域がスペイン語、ポルトガル語、フランス語などのラテン系言語を公用語として用いており、社会文化もそれに沿ったものであったことから名付けられ た。 図(上掲の地球儀の緑の領域をさす)にあるようにラテンア メリカは北アメリカ大陸のメキシコをふくみ、南米大陸のガイアナ・スリナムをふくまない。ラテンアメリカは中南米と呼称される場合もあるが、図に合う正確 な表現ではない[1987『ラテン・アメリカを知る事典』平凡社]」(→「ラテンアメ リカという概念」「ウィキペディア日本語のラテンアメリカ」)

スリナムのプランテーション(1707年)


Dirk_Valkenburg_-_Plantage_in_Suriname

●1790年当時のスペインとポルトガルの帝国

メキ シコの1808-1872の64年間(ウィキペディア日本語による)

「1808年、ナポレオン・ボナパル トが兄のジョゼフをスペイン王ホセ1世として即位させた。それに反発するスペイン民衆の蜂起を契機としてスペイン独立戦争が始まると、インディアス植民地 は偽王への忠誠を拒否。1809年から1810年にかけて、キト、ラパス、サンティアゴ、カラカス、ボゴタ、ブエノスアイレスとインディアス各地でクリ オーリョたちの蜂起が始まる中、 1810年9月15日にミゲル・イダルゴ神父らにより、スペイン打倒を叫ぶメキシコ独立革命が始まり、長い戦いの火蓋が切られた。 ペルーのクリオーリョと同様に当国のクリオーリョも先住民大衆の反乱を恐れたため、独立運動には消極的であり、イダルゴも、反乱を継いだメスティーソのホ セ・マリア・モレーロス神父もアグスティン・デ・イトゥルビデ率いる王党派軍に敗れたが、モレーロスの乱が鎮圧されたあとの1820年ごろには南部のシモ ン・ボリーバルとホセ・デ・サン=マルティンらに率いられた解放軍が各地を解放し、インディアスに残る植民地は島嶼部とブラジルを除けば当国とペルー、中 米のみとなっていた。 スペイン本国で自由派が政権を握ると(リエゴ革命)、1821年9月15日に保守派クリオーリョを代表した独立の指導者アグスティン・デ・イトゥルビデが メキシコシティに入城し、反自由主義の立場から独立を宣言した。しかし、イトゥルビデがメキシコ王に推戴したかった反動派の元スペイン王フェルナンド7世 は入国を断ったため、イトゥルビデ自身が皇帝に即位する形で第一次メキシコ帝国が建国され、中央アメリカを併合した。……独立後は混乱が続き、1823年 には帝政が崩壊して連邦共和国のメキシコ合衆国 (19世紀)となり、このときに中米連邦が独立した。独立後は内戦による農業生産力の低下、鉱山の生産力低下、カウディーリョの群雄割拠、流通の混乱など 問題が多発し、政治的には不安定な時代が続き、1835年10月23日から1846年8月22日まで中央集権国家であるメキシコ共和国となっていた。 また、コアウイラ・イ・テハス州にアメリカ合衆国人の入植を認めると、1835年にはアングロサクソン系入植者が反乱を起こし、1836年にメキシコ領テ ハスはテキサス共和国として独立した[5] 。その後、アメリカ合衆国が1845年にテキサスを併合すると、1846年にはテキサスをめぐりアメリカ合衆国と米墨戦争を争ったものの、メキシコシティ を占領されて1848年に敗北すると、テキサスのみならずカリフォルニアなどリオ・ブラーボ川以北の領土(いわゆるメキシコ割譲地)を喪失した。 領土喪失の経緯からアメリカとの対立は深まっていたが、1861年にアメリカの南北戦争勃発とともにフランス第二帝国のナポレオン3世がメキシコ出兵を開 始。1863年にはメキシコシティが失陥、フランスの傀儡政権である第二次メキシコ帝国が建国される状況となった。 インディオ出身のベニート・フアレス大統領は、アメリカの支援を得てフランス軍に対して対抗し、1866年に主権を取り戻すものの、このことは後々までア メリカ合衆国の影響力が高まるきっかけとなった。フアレスは自由主義者としてレフォルマ(改革)を推進するも、1872年に心臓発作で死去した。」

1825 年のラテンアメリカ

独立戦争後1825年の新大陸とりわけラテンアメリ カとよばれる政治的領域の区分についてのべてみよう。

1790年ごろのスペイン帝国とポルトガル帝国の版図
緑の広大な領域がメキシ コである。出典は:Territorial evolution of North America since 1763(Wikipedia) 1825
出典は、South America, 1825, 出典はブログによる投稿者によるものである。 http: //www.alternatehistory.com/discussion/showthread.php?t=222529

それが50年後の1875年には、そのいくつかの領 域が再度、ヨーロッパ列強に再占領さたり、独立国内部で分裂をしていることがわかる。

リンク

文献


Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099

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