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アチェにおける親殺しと霊の復讐

Parricidio en Ache y venganza de espiritualidad ancestral

池田光穂

エピクテートスは言う「子供にキスするときにはこう 呟くがよい「お前は明日死 ぬかもしれない」と。市井のひとは驚愕する「なんと不吉なことを!(言うのですか?!)」。それに対する、エピクテートスの応答:「穀物の収穫の時を話をするときに、君は不 吉な話だと思うのかね?

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キュブウユラギは、チャチュワイミギの息子である。 チャチュワイミギは、キュブウユラギの老齢の父親である。

チャチュワイミギは初老[ワイミ=老女]にさしか かっているが、若い男性ジャペギに対する性的魅力にとらわれており、彼らが狩猟のために一緒に移動することを望んでいる。チャチュワイミギは、性欲旺盛 で、パイヴァギは愛(=メノ、性的能力を隠喩)の悦びを彼女に与えられないことに苛立っていた。

アチェ(=グアヤキ)における高齢者は、狩猟キャン プなどの移動において、足手まといになれば、容易に殺されたり遺棄されたりする可能性がある。チャチュワイミギは、そのような危険性を感じていたが、ジャ ペギと共にいることへの性的欲求のほうがそれを凌駕したのだ。

チャチュワイミギは、集団の移動についてゆくことが 困難になりつつあることを知っており、かつて彼女が経験したように、そのようなことに対してどのような運命がふりかかるのかについても自覚していた (p.119)。チャチュワイミギは、自分にその番が回ってくることについても自覚していたのだ。

身体の消耗を、イカン・マノ・ルウユ(「骨はほとん ど死に体は精根つきている」)と表現する。

他方、一緒に、移動している息子のキュブウユラギ は、そのような彼女を境遇をみて、いずれ、ブルピアレ(殺害者)に依頼して、彼女を後ろから斧で襲い殺害してくれる男に依頼しなければならないことを予見 した(p.120)。ブルピアレの仕事は「汚れ仕事」であり、「ブルピアレの役割を心から喜んで受け入れる男などこれまでひとりもいなかった」 (p.121)ほどであった。

しかし、民族誌家ピエール・クラストルによると、ブルピアレは殺害者であると同時に、「供物 を捧げる司祭」(p.121)であるという。殺害は、誰に対する供物なのか? 生者の事故による死はしばしば、すでに物故した親族や関係者が、イアンヴェ (死霊)となり、自分の世界に連れ戻すという行為であると言われる。そのため、人びとをして殺害行為に至らしめる枠組みそのものが死霊からの召喚であると いう言い方もできる。ただし、死霊からのこの召喚は、アチェの人たちには「復讐」と言われる。

ブルピアレは殺害を依頼されるが、その異常な殺人能 力(=アモク的状態)を得るために、死霊(イアンヴェ)の助けを借りてある種の憑依ないしは虚脱状態になる可能性がある。これには文化的パターンが規定す る情動の変容が欠かせない(池田 2013)

そして、ブルピアレによる殺害成功の後は、親族は、 被害者を埋葬するのである。

しかし、そのような矢先、森からでてきたバイプ (ジャガー)により、チャチュワイミギは殺害されてしまう。「バイプ(ジャガー)はアチェ(人間)からこの仕事を省いてくれるのだ」。「キュブウユラギは 待っていた。ジャガーが母親にけりをつけるのを」(p.121)。

バイプの登場は、そのパニックにもジェンダーにより 2つの対比的な行動を引き起こす。「女たちは恐怖に震え、耳を両手でふさいでいた」「男たちは弓の弦に矢をかけて耳をすまして待っていた」 (p.121)。

バイプ・ピニ・プテ(たくさんの斑点のあるジャ ガー)

「このジャガーは実はアチェである」(p.122) つまり、クラストルは、キュブウユラギの立場(=視点)から判断している。

祖先の一人がバイプに姿を変えた、とキュブウユラギ は判断する。「キュブウユラギは、それは自分の祖父だと思っていた」。つまりキュブウユラギの解釈では、祖父である死んだジャモギが自分の娘を連れ戻しに やってきたと解釈した。じつは、キュブウユラギによると、ジャガーの存在の根拠には2とおりの解釈をしており、この立場を「キュブウユラギの解釈A」としておこう。

ところで立場と視座(ないしは視点)とは、それぞれ 存在論的/認識論的隠喩を喚起する。つまり以下のような意味論的連鎖をもつ。

■立場——トポロジー——存在論的——実証主義によ る証明

□視点——パースペクティヴ——認識論的——唯名論 による論証

さて「キュブウユラギの解釈A」(続き):この霊魂 の住み処のトポロジーは122ページに言及がある。「(祖父はずいぶん昔)に死んだので面識はなかったが、その祖父が地面の上方にある霊魂の住処——太陽 が沈む方向に広がっている大いなるサバンナ——を一瞬離れたのだろうと」。

先に、ブルピアレに殺害を依頼した、親は埋葬される という手順になっているが、クラストルは、ジャガーに喰われた実母の母の埋葬が試みられることがないと指摘している(pp.122-123)。

イアンヴェは、邪悪な存在である。アチェ、ロン・イ アンヴェ・レコ・ジュウェ・イアン(「イアンヴェはアチェが存在することを望んでいないのだ」p.124)

イアンヴェは嫉妬深い存在であり、関係性の欲望が過 剰なのだ(p.124)。なぜなら、イアンヴェは、「思い出をたくさん持つ」「気をゆるめない」存在だ。イアンヴェ(死霊たちの悪霊)という語彙の接辞 「ヴェ」の用法には、親族という含意があるらしい。例えば、クランヴェは「片親の子(母なし子)」という意味らしい(p.123)。

キュブウユラギにとっては、狩猟キャンプの移動に足 手まといになった実母のチャチュワイミギを殺害しなければならない義務をそれに対する躊躇している状況に、ちょうどタイミングよくジャガーに殺害された。 キュブウユラギの推測だが、チャチュワイミギもその運命を悟っていたように感じられる。

さて、キュブウユラギの弟のクワンティロギは「母の 死をひどく悲しんでいた」といい。自分の苦しみの感情を歌にして歌いたいという。クラストルの解説はこうである。「過剰な苦しみに襲われたとき、彼らは決 闘の暴力に身を委ねて弓の木で殴り合うか、それとも笛の伴奏で哀歌を歌うかするのである」。これに対する私のコメントは、過剰な苦しみの克服には、暴力と 詩歌の朗唱という2つの全くことなったことによるカタルシスが用意されていることは大変興味深い。私は、前者に対しては、フィリピンのイイロンゴットの首 狩慣習の歴史的存在とそれにまつわる情動経験(=愛する人が失われた時の激しい怒りと抑鬱という複雑な情動が首狩により解消されること)、人びとに首狩が 禁止された時にキリスト教への改宗したが、それはキリスト教が殺害を禁止しているからという理由ではなく、この複雑な情動の管理に深くかかわっているとい うレーナート・ロザルドの解釈のことを思い出した。後者(=詩歌の朗唱)については、かつて、奥野克巳氏と共に、ニューギニアのフォーレの人たちを訪問し たときに、同行のガイドをしてくれた男性リーダーのフェンガノフィー(族の)妹が、懐かしい兄に再会した時に、それまでの辛さを歌った哀歌と、フェンガノ フィーからの同行者からの共感と涙をさそった場面に居合わせた経験を思い出した。

《苦悩の美的形式について》:さて、イアンヴェ(死 霊たちの悪霊)という語彙の接辞「ヴェ」の用法には、親族という含意があるらしい。例えば、クランヴェは「片親の子(母なし子)」という意味らしい (p.123)ことについては先に触れた。母の死をひどく悲しんだ、キュブウユラギの弟のクワンティロギは、詩歌を朗唱することになる。つまり、クワン ティロギは、文字通りクランヴェとして、(埋葬されていない)母の白骨の頭蓋部をたたくことを歌のテーマにしている。

【クワンティロギの歌】

「それで思い出す。そこに行ったとき、私は見たの だ。母親の骨を見た。ジャガーが骨を食べ、大きな骨が散らばっていた。それを私は見た。私は頭蓋骨も見た。それで私はカジャチュギ(=大きなねこ)に叫ん だ。『あそこに私の母親の頭蓋骨がある!その頭蓋骨を叩け!』それでカジャワチュギはそれを叩いた」(Pp.124-125)

歌の中では、バイプ(ジャガー)は、カジャレテ(大 きなねこ)と言い換えられている(p.126)。また、カジャワチュギは、カレワチュギとキョウダイ関係にある(p.84)。

《問題集》ここから、アチェ(グアヤキ)の民族誌的 読解の課題に関するさまざまな疑問が生じる。

《考察》

文献



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