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小繋入会権訴訟

こつなぎ・いりあいけん・そしょう,

El Caso de  Kotsunagui, prefectura Iwate, un conflicto de uso comunal natural entre cominidad local y "dueño" moderno dado por gobierno moderno imperialista japonés

カメレオン

池田光穂

小繋(こつなぎ)とは、岩手県の山村の地名。入会権 (いりあいけん)とは、日本の伝統的な社会で、海浜・海中・山中・地中等の天然資源の周辺共同体の共同的利用権のこと。それらの空間的領域に法的な所有権 を定めず、あるいは定めてもなお、慣習的な規約にもとづき共同的に利用する権利は、漁業権や狩猟権のかたちで現在でも生きている。今日の持続的開発の論理 に照らすと、入会権は(共同体による排他的独占よりも)里山や里海の持続可能を可能にした、天然資源の非資本主義的な利用とも言える。小繋入会権訴訟は、 別名「小繋事件(こつなぎ・じけん)」と呼ばれて、民事訴訟とそれに関連する森林法違反の刑事裁判が(大きく4つの訴訟裁判)1917年から1955年ま で続いた。名称は訴訟よりも「小繋事件」のほうが、法学者・戒能通孝(かいのう・みちたか、1908-1975)の同名の書籍(岩波新書,1964年)で 著名になった。

訴訟は、1917(大正6)年に、第1次民事訴訟 (原告農民敗訴)としてはじまり、戦後の1946年の第2次民事訴訟(職権による調停)まで続いた。また、刑事事件は森林法裁判——農民の木材の切りだし 行為——で、1944年と1955年におこっていて、前者は二審無罪、後者は最高裁有罪で結審している。これらの裁判は、日本における入会権が、国家によ る介入によりどのような条件で消滅するかについて判例をつくったという意味で、重大な訴訟であり、入会権という慣習法をどのように日本の近代実定法が「破 壊」「無力化」するのかについての傷ましい公的な記録になっている:「裁判所は、入会権が民事調停によって消滅すること、財産処分に関する代表者が土地を 売却したときは入会権は消滅し、売却代金を横領した代表者に対する損害賠償請求ができるにとどまることを明示」(日本語版ウィキペディア「小繋事件」)

《入会権:いりあいけん》

入会権覚え書き:「(承前)以上の三種類の入会関係 は旧藩時代から明治5年の官民有区分の際迄存在した。明治5年の官民有区分の結果旧来の藩有地は総て官有地に編入された。而して藩有林が官有地に編入され ると共に旧来其地元民が有していた入会関係は廃止されたから、官民有区分以降に於いては法律上藩有地対する入会関係はなくなったのである。然し入会地農民 の生活に欠くべからざる補充財であったから、仮令藩有林が官有地に編入され、形式上入会権は官有地編入と同時に消滅しても、農民のは依然として旧慣により 官有林に立ち入り共同収益した事であろう」石田文次郎『土地総有権史論』岩波書店、1927年、485ページ。ただし文章の漢字は一部ひらがなにした。」

《外部世界と繋がるこ と》

この事件は、近代の土 地所有制度の確立のなかで、土地の慣習法ともいえる入会権が踏みにじられ、それに対して、国家が私的財産の侵害を理由に介入してきて「入会権」の存在その ものを否定するという構図になっています——国家による入会権の飼いならし過程。他 方で、小繋(こつなぎ)の住民は、訴訟過程のなかでそれを支援する法律家や学生との交錯のなかで、市民としての権利をもった政治的アイデンティティを確立 してゆくというストーリーになっています。その過程のなかで、丸岡秀子(1903-1990)を経由して、土川マツという女性が、ローザンヌの 「世界母親大会」に派遣されます。彼女をローザンヌで送り出した時に、住民の篤志をもとめた募金によって派遣されたり、写真(岩波新書、180ページ)の モンペ姿とか、なかなか考えさせられます。ちょうど、レイモンド・ウィリアムズ が、ケンブリッジに奨学金を得て入学するのだが、父親が住民の人たちがお金をあつめて寄付しようとしたことを断ったというエピソードに絡めて、コミュニ ティというものの精神的紐帯の範囲についてエッセーを書いていますが、その指摘を思い出しました(「コミュニティの意義」『共通文化にむけて』みすず書 房)

戒能通孝『小繋事件』岩波新書、岩波書店、1964年(パスワード付き)

「小繋事件」クロニクル——戒能通孝(1964;207- 209)による

1877年 明治十年(一八七七)五月岩手県二戸郡 小繋村(旧小鳥谷村字小繋、現一戸町字小繋)の村山は、明治政府の山林原野官民所有区別処分に当り、大部分民有地と査定され、立花喜藤太所有名義で民有の 地券を交付された。

1897年 明治三十年(一八九七)十一月小繁山所 有名義、立花喜藤太より柵山梅八、村山権十郎、山口清吉の三名による共有に移転。

1898年 明治三十一年(一八九八)十一月岩手県 二戸郡一戸町金子太右衛門、小繋山を買い受ける。

1907年 明治四十年(一九〇七)一月茨城県那珂 榛鹿志村亀吉、金子より小鰐山を買い受け、同年二月十二日、移転登記完了。四月十四日、亀吉長男清太郎、初めて部落に入る。

1907年 明治四十年(一九〇七)九月鹿志村、小 蝶山のうち「ほど久保山」約八百町歩を陸軍省中山軍馬補充部に売却

1915年 大正四年(一九一五)六月九日(ただし 旧暦)小繋大火、二戸を残して全焼、旧記、証書みな焼け失せる。これにより鹿志村、農民に小繋山の完全な所有権の承認を迫り、入会の係争ここに始まる。

1917年 大正六年(一九一七)某月小堀喜代七、 部落民に入会権とはいかなるものかを説明する。十月、第一次小繋訴訟。原告立花源八ら十一一名被告鹿志村ほか小繋部落民十一名。

1932年 昭和七年(一九三二)二月二十九日小繋 第一次訴訟盛岡地裁判決(民法判例総覧物権中五九四)、原告敗訴。

1936年 昭和十一年(一九三六)八月三十一日小 繋第一次訴訟宮城控訴院判決、控訴棄却。

1939年 昭和十四年(一九三九)一月二十四日院 判決、上告棄却。

1944年 昭和十九年(一九四四)五月および十一 月部落民山本善次郎、片野源次郎ら二十余名、鹿志村側の妨害を排除し、入会権の実力行使を行なう。

1944年 昭和十九年(一九四四)十二月右事件、 森林窃盗として盛岡区裁判所に訴追さる。

1945年 昭和二十年(一九四五)四月盛岡区裁判 決、有罪と認める。

1945年 昭和二十(一九四五)年九月宮城控訴 院、右事件に対し無罪を言渡す。

1946年 昭和二十一年(一九四六)三月第二次小 繋訴訟。原告立花兼松、山本善次郎ら十一名、被告鹿志村亀吉(二代目)ほか一名。

1951年 昭和二十六年(一九五一)七月三十一日 第二次小繋訴訟盛岡地裁判決、原告敗訴、直ちに仙台高裁に控訴。この頃から山本善次郎、訴訟請負人と化し、八百万円に上る金を訴訟経費名目で借り受ける。

1953年 昭和二十八年(一九五三)五月第二次小 繋訴訟につき仙台高裁の職権調停始まる。十月十一日、との調停は形式上成立したことになるのだが、調停の内容は山本善次郎を除く原告および利害関係人に知 らされていなかった。

1953年 昭和二十八年(一九五三)八月早稲田大 学農村調査団部落に入る。部落と早大学生の連絡つく。

1953年 昭和二十八年(一九五三)十一月六日調 停調書送達、山林百五十町歩と引き換えに、小繋山に対する入会権の消滅を知り、反対派部落民一同仰天する。

1953年 昭和二十八年(一九五三)十二月十四日 第二次小繋訴訟の控訴人小川市蔵ら七名、仙台高裁に調停の無効確認ならびに期目指定の申立をする。

1955年 昭和三十年(一九五五)四月藤本正利君 入村、部落に定住を始める。小繋の母親組織始めてできる。

1955年 昭和三十年(一九五五)六月小繋の母親 四名、第一回全国母親大会に出席、土川マツエ、世界母親大会に出席のため、ローザンヌに行く。

1955年 昭和三十年(一九五五)七月二十八日仙 台高裁、前記期目指定の申立を理由なしとし、第二次小繋訴訟は昭和二十八年十月十一日終了したと判決、決は八月十五日確定した。

1955年 昭和三十年(一九五五)十月立花甚四 郎、山本定蔵、蔵ら小繋山で伐木する。

1955年 昭和三十年(一九五五)十月十七日武装 警官約百五十名、小繋部落を急襲し、小川市蔵、山本ヨシノらを逮捕、小繋刑事事件始まる。

1959年 昭和三十四年(一九五九)十月二十六日 擦問地裁、小繋山に入会権ありとし、森林法違反事件について無罪を言渡す(判決は『判例時報』第二O七号および『下級審刑事判例集』第一巻第一O号に掲 載、この判決の評論に、戒能通孝「小繋事件」『判例時報』第一二四号附録がある)。

1963年 昭和三十八年(一九六三)五月八日仙台 高裁、前記盛岡地裁判決を破棄、森林法違反についても有罪とする(判決は『判例時報』第三三六号に掲載)。事件は目下上告中。

1966年 森林法違反について最高裁で有罪確定。

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文献



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