臨床コミュニケーションにおける「対話」と「身体ワーク」の重要性について
プログラム:臨床コミュニケーションにおける「対 話」と「身体ワーク」の重要性について
1.各担当教員から、これまでの臨床コミュニケー
ションの授業の概要と、御自身が担当された授業と、その中でも印象に残った授業経験にまつわるエピソードを披露してもらう(できればTAの人も参加経験に
ついて語ってもらう)――アイスブレイキングとイントロ
2.以下に紹介するジョージ・E・ムーアは、倫理学における「自然主義」を批判したことで有名だ。以下の一節は、我々が「健康であることは自然の理
(想)」としばしば信じていることを、ごくふつうの平易な言葉で考え、それを批判(=疑問に付す)している。ムーアの主張を理解し、それについて[いまは
もう死んでいない、英語話者である]ムーアさんと共に考えるために、以下の実習をおこなう。
3.課題文を黙読する。
4.課題文を各人で音読する。
5.課題文のうち、ここが重要だなと思うところを、下線やマーカーを引いてみる――ハイライトする。
6.ハイライトした文章(=チューニングされた脚本)もって、再び課題文を、今度は輪読形式で音読する。
7.さらに再び課題文を、輪読形式で、各人がポーズ(振り付け)をつけて、みんなの前で「演説」する。
8.ムーアの主張や理解について、最初の黙読から、さまざまな音読形式を通して、読んでみた感想。またムーアの主張に対して、どんなことを感じたのか、そ
れぞれ感想を、自由に述べ合う――他人の意見にコメントしてもよいし、また自分だけの感想でもよい、必ずしも「対話」に拘らなくてもよい――これが本当の
「ソクラティーク・ダイアローグ」。
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自然主義的論法について(ジョージ・エドワード・ムーア;George Edward Moore, 1873-1958)
「唯一の善が時間のうちに存在する諸々の事物のある一性質に存すると主張する倫理学理論は「自然主義的」である。これらの理論がそのように主張するのは、
「善い」それ自体がそのような性質に照らして定義されうると考えるからである。そこで、このような理論の考察に取りかかる。
最初にまず、もっとも有名な倫理原則の一つは「自然 に従う生活」を勧めるものである。それはストア学派倫理学の原理であったが、この倫理学は形而上学的 と呼ばれる資格があるからここでは取り扱わない。しかし、同じ言い回しがルソーのうちに再び見出される。しかも、われわれのなすべきことは自然のままに生 きることであると今日でさえしばしば主張される。そこで、この主張をその一般的な形式において検証する。第一に、おそらく後に取り扱う形而上学的理論を拠 り所とする場合以外は、自然的なものがすべて善いと言うことはできない。これは明らかである。自然的なものがすべて一様に善いのであれば、そのときには一 般に理解されているような倫理学は確実に消滅する。なぜなら、倫理学的観点からすれば、あるものが悪であり、他のものが善であるということほど確かなこと はないからである。実際、倫理学の目的は主としてそれによって一方を回避し他方を確保することができる一般規則を与えることにある。ところで、自然のまま に生きるべしというこの忠告において、「自然的」とは何を意味しているのであろうか。その語は自然的であるすべてのものに当てはめることができないことは 明らかである。
この言い方は、自然的善というようなものがあるとい う漠然とした観念を示しているように思われる。つまり、自然は、存在するものを確定し決定するのと同 じように、善なるものを確定し決定すると言うことができる、という信念を示している。たとえば、「健康」は自然的定義が可能であり、健康が何であるかを自 然が確定していると考えられることがある。また、健康は明らかに善いと言われる。したがって、この場合、自然がその問題を決定しているから、われわれは自 然のもとに赴いて健康が何であるかを尋ねさえすればよい。そうすれば、善が何であるかを知ることになり、倫理学を科学に基づかせることになる。しかし、こ の健康の自然的定義とは何であろうか。私が考えうるのは、健康が自然的用語によって有機体の正常な状態であると定義されるべきである、ということだけであ る。というのも、疑いもなく、病気もまた一つの自然的産物だからである。健康とは、進化によって保存されるものであり、生存競争においてそれを保有する有 機体を保存する傾向のあるものである、と言っても同じである。というのは、進化論の要点は、なぜある生命形態が正常で他の生命形態が異常であるかを因果的 に説明しようとすることにあるからである。つまり、それは種の起源を説明する。したがって、健康が自然的であると言われるとき、それは正常であることを意 味していると推測しうる。そして、健康を自然的目的として追求するべしと言われるとき、合意されているのは正常なものは善いに違いないということだと推測 しうる。しかし、正常なものは善いに違いないということがそれほど自明であろうか。たとえば、健康が善いということは本当に自明であろうか。ソクラテスや シェークスピアの優秀さは正常であったであろうか。それはむしろ異常で、並外れてはいなかったであろうか。第一に明らかなのは、善いものがすべて正常であ るとは限らず、反対に異常なものがしばしば正常なものよりも善いという事実である。つまり、特有の優秀さは、特有の邪悪さと同様に、明らかに正常ではなく 異常であるに違いない。しかし、それにもかかわらず、正常なものは善いと言ってよい。そして、私自身、健康が善いということに異論を唱えるつもりはない。
私の主張は、これを自明であると受け止めてはなら
ず、未決問題と見なされなければならないということである。それが自明であると断言するならば、自然主
義の誤謬を犯すことになる。最近のある書物で、天才が病んでいて異常であるということが、天才は推奨されるべきではないことを提唱する論拠とされているの
と同じことである。そのような論法は誤っており、しかもはなはだしく誤っている。事実、「健康」と「病気」という語そのものに、われわれは通常一方が善で
あり他方が悪であるという観念を含ませている。しかし、それらのいわゆる科学的定義、すなわち自然的用語で定義が試みられる場合、唯一可能な定義は「正
常」と「異常」による定義となる。ところで、普通にすぐれていると考えられているものが異常であることを証明するのはたやすい。とすれば、それらは病んで
いることになる。しかし、自然主義の誤謬によるのでなければ、普通に善いと考えられているものが悪いということにはならない。これまで示されたことは、天
才は善いという普通の判断と健康は善いという普通の判断の間には対立する場合があるということだけである。その判断が真であるとの正当な理由が、前者より
も後者に多くあるということはまったくないこと、両者ともにまったく未決問題であること、このことが十分に認められてはいない。なるほど、われわれが「健
康である」でもって普通には「善い」を含意しているのは事実である。ただし、その語をそのように使用するとき、医学で意味するのと同じことを意味している
のではない。健康という語が何らかの善いものを表すために用いられるときの「健康が善い」は、それが何らかの正常なものを表すために用いられるときの「健
康がよい」を示すことはない。それは、"bul"
という語がアイルランド人をネタにした冗談を、そしてまたある動物(雄牛)をも表示するから、冗談と雄牛とは同じものでなければならないと言うようなもの
である。それ故、あるものが自然的であるという主張に驚かされて、それが善いということを容認してはならない。善いは定義上、いかなる自然的なものも意味
しない。したがって、自然的なものが善いかどうかは常に未決問題である」(出典は、邦訳Pp.154-157.)。
出典:G.E.ムーア『倫理学原理』泉谷周三郎、寺中平治、星野勉 共訳、東京:三和書房、2010年(G. E. Moore, Principia
Ethica. Buffalo, NY: Prometheus Books, 1988[1903])。
Web resource: http://fair-use.org/g-e-moore/principia-ethica/
原文:上記サイトより
§27 Those theories of Ethics, then, are "naturalistic" which declare
the sole good to consist in some one property of things, which exists
in time; and which do so because they suppose that "good" itself can be
defined by reference to such a property. And we may now proceed to
consider such theories.
And, first of all, one of the most famous of ethical maxims is that
which recommends a "life according to nature." That was the principle
of the Stoic Ethics; but, since their Ethics has some claim to be
called metaphysical, I shall not attempt to deal with it here. But the
same phrase reappears in Rousseau; and it is not unfrequently
maintained even now that what we ought to do is live naturally. Now let
us examine this contention in its general form. It is obvious, in the
first place, that we cannot say that everything natural is good, except
perhaps in virtue of some metaphysical theory, such as I shall deal
with later. If everything natural is equally good, then certainly
Ethics, as it is ordinarily understood, disappears; for nothing is more
certain, from an ethical point of view, than that some things are bad
and others good; the object of Ethics is, indeed, in chief part, to
give you general rules whereby you may avoid the one and secure the
other. What, then, does "natural" mean, in this advice to live
naturally, since it obviously cannot apply to everything that is
natural?
The phrase seems to point to a vague notion that there is some such
thing as natural good; to a belief that Nature may be said to fix and
decide what shall be good, just as she fixes and decides what shall
exist. For instance, it may be supposed that "health" is susceptible of
a natural definition, that Nature has fixed what health shall be: and
health, it may be said, is obviously good; hence in this case Nature
has decided the matter; we have only to go to her and ask her what
health is, and we shall know what is good: we shall have based an
ethics upon science. But what is this natural definition of health? I
can only conceive that health should be defined in natural terms as the
normal state of an organism; for undoubtedly disease is also a natural
product. To say that health is what is preserved by evolution, and what
itself tends to preserve, in the struggle for existence, the organism
which possesses it, comes to the same thing: for the point of evolution
is that it pretends to give a causal explanation of why some forms of
life are normal and others are abnormal; it explains the origin of
species. When therefore we are told that health is natural, we may
presume that what is meant is that it is normal; and that when we are
told to pursue health as a natural end, what is implied is that the
normal must be good. But is it so obvious that the natural must be
good? Is it really obvious that health, for instance, is good? Was the
excellence of Socrates or of Shakespeare normal? Was it not rather
abnormal, extraordinary? It is, I think, obvious in the first place,
that not all that is good is normal; that, on the contrary, the
abnormal is often better than the normal: peculiar excellence, as well
as peculiar viciousness, must obviously be not normal but abnormal. Yet
it may be said that nevertheless the normal is good; and I myself am
not prepared to dispute that health is good. What I contend is that
this must not be taken to be obvious; that it must be regarded as an
open question. To declare it to be obvious is to suggest the
naturalistic fallacy: just as in some recent books, a proof that genius
is diseased, abnormal, has been used to suggest that genius ought not
to be encouraged. Such reasoning is fallacious, and dangerously
fallacious. The fact is that in the very words "health" and "disease"
we do commonly include the notion that the one is good and the other
bad. But, when a so-called scientific definition of them is attempted,
a definition in natural terms, the only one possible is that by way of
"normal" and "abnormal." Now, it is easy to prove that some things
commonly thought excellent are abnormal; and it follows that they are
diseased. But it does not follow, except by virtue of the naturalistic
fallacy, that those things, commonly thought good, are therefore bad.
All that has really been shewn is that in some cases there is a
conflict between the common judgment that genius is good, and the
common judgment that health is good. It is not sufficiently recognised
that the latter judgment has not a whit more warrant for its truth than
the former; that both are perfectly open questions. It may be true,
indeed, that by "healthy" we do commonly imply "good"; but that only
shews that when we so use the word, we do not mean the same thing by it
as the thing which is meant in medical science. That health, when the
word is used to denote something good, is good, goes no way at all to
shew that health, when the word is used to denote something normal, is
also good. We might as well say that, because "bull" denotes an Irish
joke and also a certain animal, the joke and the animal must be the
same thing. We must not, therefore, be frightened by the assertion that
a thing is natural into the admission that it is good; good does not,
by definition, mean anything that is natural; and it is therefore
always an open question whether anything that is natural is good.
George Edward "G. E." Moore, 1873-1958
出典:G.E.ムーア『倫理学原理』泉谷周三郎、寺 中平治、星野勉 共訳、東京:三和書房、2010年(G. E. Moore, Principia Ethica. Buffalo, NY: Prometheus Books, 1988[1903])
クレジット:臨床コミュニケーションにおける「対 話」と「身体ワーク」の重要性について、2015年、(c)池田光穂・西川勝・宮本友介
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