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一頭の価値を多数頭の価値で比較考量することの限界

解説:池田光穂

わたしは、うせたものを尋ね、迷い出たものを引き返 し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くし、肥えたものと強いものとは、これを監督する。わたしは公平をもって彼らを養う――エゼキエル 34:16

ルカ15:4「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っ ている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか」

――そらそうや失せた一頭も羊の所有者の動産の一部 だから牧人は必死になって探すだろう。だが、その一頭を特別視しているわけではない(ただし失踪することで特別な一頭にマークされただけである)。喪失に おいて同等の権利を有することであり、生殺与奪のトレードオフを説明する論理ではない。これは多数のために一頭を犠牲にしてもかまわないという論理ではな い――一粒の麦はその誤用(ないしは御都合主義)を正当化したにすぎない。だが、これを、生殺与奪のトレードオフを「論破」する論理としては使うことがで きない。その論争においては、全部平等という論理の前提を共有していないからだ。

その意味で、特別にマークされたイエス・キリストが 一頭の供犠なのだ、彼こそが聖別された唯一の人間なのだ、という解釈は、彼の特別性、異様性を表現するのに意味が通る。ルカの失せた羊――磔刑のキリスト は喪失感を我々に誘う――とは、キリストの供犠=処刑の予兆に他ならない。

なんで、僕がこんな(一見)下らないアネクドートに こだ わるか? それは昨今の国際共約や宣言などの文章にこの種のニュアンスのある一文が、まさにミメシスのように取り込まれているからなのだ。

文献


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