か ならず読んでください

世界の始まりにおける法と市民

Nomos and cosmopolitan in the time of creation

池田光穂

フィロンの「創世記」の解説の冒頭は、現代の読者か らみるととても奇妙なことに、まず〈法と世界市民の原理〉について書かれてある。

世界創造時における規約は普遍的であるから、その規 約=法(ノモス)に従うメンバー=人間は、世界市民であるというのだ。人間の存在のはじまり(創造)は、法に従うことから出発し、そのもとにある人間は、 みな同じという、今日の人権思想と共有・交錯する点もある。また、言い方を返ると、この初期キリスト教の哲学者フィロンの人間観や世界観を表象しているよ うにも思える。

「モーセ以外の立法者たちの場合、ある者たちは、自 分たち同胞の間で正しいと考えられたことを、何ら飾りたてることなくそのまま法として制定した。またある者たちは、そうした同胞の考えにたいそうなつけ加 えをなし、すっかり粉飾を施して民衆を欺いた。つまり、神話的虚構で真実を覆い隠したのである。だが、前者は、思慮をめぐらすことをせず労を省いているの であって、知を愛する者にふさわしくなく、また後者は、虚言を弄し騙りに満ちており、こうした点から見て、モーセは、これらいずれをも凌駕しているのであ る。

モーセは、「法(ノモイ)」を、非の打ちどころのな いこの上なく尊厳に満ちた叙述で始めた。モーセは、いきなり、なすべきことなり、なすべからざることなりを直接述べることから法を始めたのではなかった。 またモーセは、人々が法に従って生きるためには、その理知の働きをあらかじめ整えておかなければならないと考えたので、物語を自ら担造したり、あるいは、 他人の手になる既成の物語に同調することもしなかったのである。

モーセによるこの法の初めは、先に述べたようにまこ とに驚嘆すべきものであり、「世界の創造(コスモポイイア)」の叙述を含んでいる。というのは、そもそも「世界」は「法(ノモス)」に、また「法」は「世 界」に相互に相互に調和し、「法に従う人間」はとりもなおさず「世界市民(コスモポリーテース)」なのであって、人間は、世界全体を統御している「自然の 意志」に自らの行為を添わせていることになるからである。

さて、何人といえども、この「世界の創造」の叙述に 含まれた構想の美しきを、韻文においてであれ、散文においてであれ、申し分なく賛美することは到底不可能であろう。それというのも、この構想は、死すべき ものである人間がおよそその器官をもって応ずるにはあまりに偉大かつ崇高であり、話したり聞いたりする能力を超えているからである。しかし、だからといっ て手をこまぬいたままでいてはならないのであって、神に嘉されるためには、能力を超えて敢えて語ろうとしなければならない。もとより、本来は何も語りえな いのだが、しかし、多くを望めないに)せよ、ごくわずかではあっても、知への愛と渇きに鼓舞された人間の知性ならば到達しうるかもしれないことを、語ろう としなければならないのである。じっさい、ごく小さな印章であっても、途方もない大きさを持ったものの像をそこに刻印することができる。「法」に記された 「世界の創造」の美しさはそれに取り組もうとする人々の魂をその輝きで舷惑するほど卓絶したものではある。だが、印章の場合と同様、その美しさも、文字は それに比すれば取るに足らないものではあるにせよ、文字を連ねることによって多分うかがい知ることはできるはずである。

しかし、その場合には、まず、まさしく黙したままや り過ごしえない事柄を、あらかじめ明らかにしておかなければならない。

なぜなら、本末を転倒し、「世界の創造者(コスモポ イオス)」よりむしろ世界の方を賛美する輩がいて、彼らは、「世界は不生かつ永遠である」と主張し、不敬にも「それに対し神は極度の無為に陥っている」と 虚言を弄したからである。だが本来は、創造者にして父なる神の諸々の力をこそ畏敬すべきなのであって、世界をその分を越えて称揚すべきではない。

こういう輩に対し、モーセは、哲学のまさに極みに達 しており、また、神の託宣(クレースモス,啓示)を通して自然に関する数多くの、しかも最も肝要な事柄を十分学んでもいたので、まさしく次のようなことを わきまえていた。

すなわち、およそ存在しているものは、「能動的原 因」と「受動的なもの(働きを受けるもの)」とからなることは必定である。そして、「能動的なもの」とは全宇宙を統べる「知性(ヌース)」であって、それ は、最も純粋で混じけがまったくなく、「徳」にも「知」にも優り、さらに「善そのもの」や「美そのもの」よりも優れている。これに対し、「受動的なもの (働きを受けるものことは、それ自体としては生命(魂)を持たず、また自ら動くことはできないのであるが、かの「知性」によって運動・形・生命(魂)を賦 与され、この世界という「最も完璧な作品」へと変容したものなのである。「この世界は不生である」という説をなす先の輩は、敬神にとって最も有益かつ不可 欠のもの、つまり(神の)摂理を度外視していることに気づかず、そう主張したのである。というのも、父なる創造者(デーミウルゴス)が「生まれたもの」に 配慮することは理の当然だからである。つまり、父親は子の、工匠は自分の作品の保護に努めるものであり、子や作品を、それらを害し損なうものからはあらゆ る手段を尽くして切り離し、それらにとって有用・有益なものはあらゆる仕方で与えようと熱望するものなのである。もっとも、こうした絆は、生み出すものと そこから生み出されたものとの間にのみ存在する。先の(世界を不生・永遠とする)説は、相手にするに値せず、無益なものであって、それは、いわばこの世界 という都市を、本来一切を統治管理すべき守護者も審判者も裁判官も配することなく、無政府状態におくものである。

だが、かの偉大なモーセは、「不生のもの」は「可視 的なもの」とまったく異質であると考えーーというのは、「可視的なもの」はすべて生成・変化の渦中にあり、同じ状態にあることはけっしてないからである ——、「不可視で可知的なもの」の方には、いわば兄弟であり同族のものとして「永遠」を帰し、他方、「可感的なもの」には、それにふさわしい名前として 「生成(ゲネシス)」を与えた。ところで、この世界は、「可視的かつ可感的なもの」である以上、当然、「生成したもの」ということにもなるであろう。した がって、モーセが、いとも荘厳に神について語りつつ、併せてこの世界の「生成」(『創世記」)を書き記したのは、また当を得たことなのである」(野町と田 子訳、2007:11-13)。

ON THE ACCOUNT OF THE WORLD'S CREATION GIVEN BY MOSES

I. WHILE among other lawgivers some have nakedly and without embellishment drawn up a code of the things held to be right among their people, and others, dressing up their ideas in much irrelevant and cumbersome matter, have befogged the. masses and hidden the truth under their fictions, Moses, disdaining either course, the one as devoid of the
philosopher's painstaking effort to explore his subject thoroughly,. the other as full of falsehood and im'" posture, introduced his laws with an admirable and most impressive exordium. He refrained, on the one hand, from stating abruptly what should be practised or avoided, and on the other hand, in face of the necessity of preparing the minds of those who were to live under the laws for their reception, he refrained from inventing myths himself or acquiescing in those composed by others. His exordium, as I have said, is one that excites our admiration in the highest degree. It consists of an account of the creation of the world, implying that the world is in harmony with the Law, and the Law with the. world, and that the roan who observes the law is constituted thereby a loyal citizen of the world,a regulating his doings by the purpose and will of Nature, in accordance with which the entire world itself also is administered.

Now it is true that no writer in verse or prose could possibly do justice to the beauty of the ideas embodied in this account of the creation of the kosmos. For they transcend our capacity of speech and of hearing, being too great and august to be adjusted to the tongue or ear of any mortal.  Nevertheless they must not on this account be passed over in silence. Nay., for the sake of the God-beloved author we must be venturesome even beyond our power. We shall fetch nothing from our own store, but, with a great array of points before us, we shall mention only a few, such as we may believe to be within reach of the human mind when possessed  by love and longing for wisdom. The minutest seal takes in under the graver's hand the contours of colossal figures. So perchance shall the beauties of the world's creation recorded in the Laws. transcendent as they are and dazzling as they do by their bright gleams the souls of readers, be indicated by delineations minute and slight. But first we must draw attention to a matter which ought not to be passed over in silence.


リ ンク集

文 献



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