From Hermann
Cohen to Franz Rosenzweig
ヘルマン・コーヘン(Hermann Cohen, 1842-1918)の伝記的事実
「アンハルト=ベルンブルク侯国のコースヴィヒ(ドイツ語版)で、熱心なユダヤ教徒の家庭に生まれた。父はコーエンが3歳半になったときか
らユダヤ教の教育を始めた。コーエンはラビになるべく、1859年にブレスラウのユダヤ神学校に入学するが、興味は神学から哲学へ移り、ブレスラウ大学、
ベルリン大学で学び、ハレ大学にてアリストテレスに取り組み、学位を取得。そして数学と自然科学の研究に専念する。そのなかで、イマヌエル・カント研究に
取り組み、1871年に『純粋理性批判』の注釈書である『カントの経験の理論』(Kants Theorie der Erfahrung)
を書く。これがフリードリヒ・アルベルト・ランゲに評価され、1873年にマールブルク大学の講師になる。さらに1876年には、ランゲの講座を引継ぎ、
哲学正教授になる。その後も、1877年には『実践理性批判』の注釈書である『カントの倫理学の基礎付け』(Kants Begründung der
Ethik) を、1889年には『判断力批判』の注釈書である『カントの美学の基礎付け』(Kants Begründung der
Ästhetik)
を出版し、1880年にマールブルクへやってきていたパウル・ナトルプとともに、新カント派マールブルク学派の形成に貢献した。この期間の弟子に、エルン
スト・カッシーラーがいる。さらに、カントの思想に基づきながら、1902年の『純粋認識の論理学』、1904年の『純粋意志の倫理学』、1912年に
『純粋感情の美学』を立て続けに出版し、独自の哲学を展開していく。/そして、アカデミズムにおける反ユダヤ主義勢力のために、1912年に大学を辞職
し、ベルリンへ移る。1913年よりユダヤ教学アカデミー (Hochschule für die Wissenschaft des
Judentums)
で教え始めるが、これ以後のコーエンの関心はもっぱら宗教に向かっていた。1915年に『哲学体系における宗教の概念』や、1915年には遺著『ユダヤ教
の源泉からの理性の宗教』を出版する。この期間の弟子に、フランツ・ローゼンツヴァイクがいる。/1918年、ベルリンで死去」出典:https:
//goo.gl/c5ylyf
ローゼン・ツヴァイク(Franz Rosenzweig, 1886-1929)の伝記的事実
「カッセルで、ドイツ文化に同化したユダヤ人家族に生まれた。ギムナジウムで学んだ後、ゲッティンゲン大学、ミュンヘン大学にて医学を学ん だが、医学への関心は失せ、フライブルク大学にて、フリードリヒ・マイネッケのもとでと歴史学を、ハインリヒ・リッケルトのもとで哲学を学んだ。1912 年にマイネッケの指導のもと、ヘーゲルにおける政治哲学と歴史理論に関する博士論文を提出した。これは1920年の著書『ヘーゲルと国家』(Hegel und der Staat)第一部に対応するものである。/博士論文を書き終えた頃を境にして、ローゼンツヴァイクはドイツ観念論に顕著である近代西洋の合理主義哲学に 疑問を抱くようになり、宗教に関心を移した。しかし、当初研究したのはユダヤ教ではなく、キリスト教であったのだが、これは自身が一時的ではあるがキリス ト教に改宗しようとしていたことによる。しかし思いとどまり、1913年にはユダヤ人として生きることを決意した。そのままベルリンにとどまり、1914 年にユダヤ教学アカデミーでヘルマン・コーエンの講義を聞いた。この時期のユダヤ思想研究は、第一次世界大戦のために中断し、自ら志願して軍隊へ入り、初 め看護師として動員され、次に下士官としてバルカン戦線へ動員される。1818年塹壕のなかで霊感体験を得て、それを綴ったものが後にまとめられたもの が、1921年の主著『救済の星』(Der Stern der Erlösung)である。/戦争終了後、マイネッケはローゼンツヴァイクを大学教員にしようと働きかけたが、ローゼンツヴァイクはこれを拒否した。タル ムード研究に集中しながら、1920年にはユダヤ人教育のための機関自由ユダヤ学舎を設立した。この機関には、マルティン・ブーバー、ゲルショム・ショー レム、エーリヒ・フロム、レオ・レーヴェンタール、レオ・シュトラウス、カール・ラインホルトら錚々たる人物が講師として参加した。こうした研究の最中に 筋萎縮性側索硬化症を患い、1922年には書くことも、話すこともままならない状態にまでなったが、妻の口述筆記などで執筆活動を続けた。さらに、ブー バーと共同でミクラー(キリスト教徒の言う「旧約聖書」)の新しいドイツ語訳に着手する。しかし、その壮大な計画の成就をローゼンツヴァイクは見ることな く、1929年にフランクフルト・アム・マインで亡くなった。今際のとき、ローゼンツヴァイクは妻にしか分からないサインで、「もう終わりが来る、眠りの 中で本当に主があらわれてくださった。終わりが…」と伝え、息を引き取った」出典:https://goo.gl/RBIxm3
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