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レヴィ=ブリュルを読むルイス・イェ ルムスレウについて

Hjelmslev reads Levy-Bruhl

解説:池田光穂

ルイス・イェルムスレウ(Louis Hjelmslev, 1899-1965)は1928年に『一般文法の原理』を公刊する。Principes de grammaire générale. Copenhague: Bianco Lunos Bogtrykkeri. (1928).

その中に、リュシアン・レヴィ=ブリュル(Lucien Lévy-Bruhl, 1857-1939)に関する言及が何箇所かある。一般文法原理の体系化をめざしていたイェルムスレウの眼に、レヴィ=ブリュルの著作がどのように映った のかについて考察するのが、このページの目的である。

一般文法の原理』のなかで、「レヴィ=ブリュ ルの理論」と称された節が登場するのは、第IV章文法体系・III抽象体系の中の62.ヴィ=ブリュルの理論(小林訳では、Pp.209-217)であ る。

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■ 先論理性をめぐって

「よくいわれたように、文法学は実践的な応用的な (規範的)論理学だと称するのは危険である。とりわけかのLevy-Bruhl の重要な探究が示すように、すべて文法のなかには「先論理的 (prélogique)」要素がある(Les fonctions mentales, p. 151 以下,425, 454 以下)。そしてこの要素はけっして表面的なのものではない。かえってそれはすべて文法組織 の本質そのものに内属しているのである。ただにそれから逃れる言語が一つもないばかりでなく、その文法がそっくり先論理の印刻をもつような 言語もかなり多いのである。つまりLevy-Bruhl によれば,すべての言語は多かれ少なかれし「原始的」心性を反映してい るのである。/このようなわけで規範論理学は文法科学のなかに入っても何の役にも立たないのである。「論理はそれ自体としては言語とはなんらの関係もな い、思考と関係あるのみである」(SÜTTERLIN, Werden und Wesen der Sprache, p. 126. )。このことは重要である。時として言語活動とは何かということを精密にいうことは困難であった。それは何でないか、また何でありえないかを知ることのほ うが得策である」(小林訳 p.14)。

「この理論(象徴理論——引用者)はとりわけ、 HEYSE いらい、音声身振り(gestes vocaux)(独. Lautbilder) の名をもって示されてきた現象のうちに、竪屈な支柱を見出すことと思う。この現象は、いろいろの言語領域の専門家たちによって指摘されているが、全貌を明 らかにしたのはW.WUNDTとLevy-Bruhlとである(Les fonctions mentales, p. 183 以下.)。これはとりわけエブルネ・ダホメ語群(ギニアの)中のエウェ語に知られており、 D. WESTERMANNによって詳述された。それはまたロンガ語(モザンビークのバントゥー語)にも在在し、1896年いらいH. JUNODによって指摘された. PECHUEL-LOESCHE の教示によれば,それはコンゴ語群のなかにも見出される.以上の3例はLevy-Bruhlの引用したものであるが,なおこれにチヌーク語の例を加えるこ とができる,それはかくべつ教示に富むので,とくに言及してみたい」(小林訳 pp.148-149)。

■人間精神の個別性・固有性を説くレヴィ=ブリュル、 言い方をかえると普遍性・一般性を拒絶する

「一般文法の可能性にたいする最も重大な反対は Levy-Bruhl によってなされた[註]。Levy-Bruhl は,人間精神というものはつねにまたどこでも相等しいという要請を断乎として斥ける(それはたしかに正当である)。われわれのそれのような心性とは別に、 かれの「原始的(primitif)」とよぶもう一つの心性がある;この原始的心性は「先論理的であり、神秘的であり、われわれのとは向きを異にし」、 「融即の法則行(loi de participation) に支配されており、そのようなものとして論理的な矛盾律(loi decontradiction) とは無関係のもの」である。さてこの心性は言語と関係づけることができる。心性の別に応じて、「原始人」の言語と「文明人」の言語との別がある。「原始」 語はわれわれの言語とちがい、とりわけ具体的であり、数え方が細かくない(Les fonctions mentales dansles société inférieures, p. 151-203 およびp. 204-257. さいきんのものとしてEwald FETTWEISS, Das Rechnen der Naturvölker を参照のこと)。原始的心性の特質を要約したのちに,Levy-Bruhl は結論していう:「そこからして、わたしが明らかにしようと/骨折った帰結が生ずる。われわれがわれわれの社会のうちに認めるそれのような「人間精神」の 心理的および論理的分析にもとずいて,原始人の制度なり風俗なり信仰なりを説明できるように思うならば,とんでもないことである。満足のいく解釈をうるに は,原始人における別形式の活動の依存する先論理的な神秘的な心性を出発点にとるよりほかはない (Les fonctions mentales dans les société inférieures , p.425)」(小林訳、pp.209-210)

註釈:「われわれがここで拠り所にするのは主として Les fonctions mentales dans les société inférieures であって、かれは言語的事実を本書のなかでいちばん重んじているのである。なお同じ著者のLa mentalité primitive およびL'âme primitive をも参照のこと。参考:おなじ思想の論述がCh. BLONDEL, La mentalité primitive のなかにもある」(小林、p.209脚注)。

「Levy-Bruhlはここで、言語をそのような 制度のうちに数えねばならぬとは明言していないが、かれの考えがそうであることは他処で知られる:「われわれの言語(これなくしてはわれわれはなに一つ表 象することも,推理することもない)は、かれらのものと一致しない範疇をふくむ。さいごにそしてなかんずし集団的表象を、そしてある程度までは、言語を も、その反映とする囲繞(しゅうじょう)社会的実在は、かれらにおけるとわれわれにおけるとでは余りにもちがっている」(Les fonctions mentales, p.70)。その帰結はこうである:原始語の文法と文明語の文法とがありうる;これに反して,一般文法なるものはありえない。この一般文法にたいする反対 についで,特定共時論的文法の未発達状態にふれた,もう一つの反対がある:「未開型の社会の言語は,まだよく知られていない……その方面の最高権威と目さ れる人々の判断によれば,人類言語の諸族の比較文法なるものは実行不能の企てだという」(Les fonctions mentales, p.152)(小林訳、p.210)

「われわれは前提の論議には入るまい・社会学や心理 学はわれわれのなわばりではない・しかしLÉVY-BRUHL の学説が言語学者がわから受けたほとんど一般的な賛同にもかかわらず,言語にかんするかれの結論は少しく誇張されたもののように思われる.以下の注意は, もっぱらLÉVY-BRUHLの理論のこの方面に向けられたものである」(脚注参照)

脚注:「周知のように,固有の民族学方面では, Levy-Bruhl の理論は相当重大な反対にぶつかった,とりわけBOAS の暗示にとむ労作The mind of primitive manと, R. ALLIER の引証豊富な近業 Le non-civisé et nous とのなかで、これら2人のすぐれた著者は,文明人の心性といわゆる未開人の心性とを全く異質的なものとみる提言を誇張に失するとみる。かれらとても,争う べくもなさそうなある程度の量の差異は否定しないが,Levy-Bruhl が帰一不能の差異と見なすものを,本質的に同ーのものとしてしまう。2 人ともLevy-Bruhl がその提言のために言語事実を利用するやり口に異を称える。ちなみにわれわれはすでにBOAS が可能なかぎりの多種多種の言語のあいだにも深い似寄りのあることを認めていること,そしてそこからすべての文法を指導する一般的原理の存在を推論してい ること(参照,The mind of primitive man, p. 205)を見た。——また心理学的観点からも, DELACROIX がLevy-Bruhl の理論の一部を批判した。とはいえDELACROIX は一般文法なるものをとほとんど不可能な企てと、少くとも射程のきわめて狭いものと、考えている:「一般文法なるものはある……しかしその一般文法なるも のは即座に行き詰まる」。Le langage, p. 229, ちなみに固有の言語学的観点からは,これらの批判はすべてしばしばわれわれのそれと一致する. われわれはみちみちそれに立ち帰る折もあらうかと思う」(小林訳、脚注、pp.210-211)。

「まずLÉVY-BRUHL の業績は,言語学徒にとってきわめて貴重なものであった,また今もそうであることをいっておこう。それはそれのもたらし/た事実そのものよりも、その事実 にたいする考え方によるものである。すべての言語的事実を、インドヨーロッパ語の、いわんやラテン語の,文法体系にしたがって判断するといった原理にたい するLÉVY-BRUHL の抗議は,まさに肯綮(こうけい)さにあたっており,はなはだ実り豊かなものである。かれはそれによって,言語学界に拡まっていた,おそらく今もなお拡 まっている,根本的な,そして危険な誤謬を指し示した。そのことはさきに指摘した。LÉVY-BRUHL はかくして言語学徒をして反省せしめないではおかない一義的に重要な事実を,指摘したのである」(小林訳、pp.210-211)。

■言語のなかにみる人間の精神と、言語研究の方法

「言語のなかに反映されるような「人間精神」は,それゆえすべての緯度のもとにおいて同じではない。言語もまた然りであることは周知のとおりである。それ ゆえ「人間精神」のすべての種類をそれらのうちのただ一つをもって,また言語のすべての種類をそのただ一つをもって,説明できると思うのは誤りである。/ しかし到る処においてし人間精神寸が同じではなし言語が同じではないことが真であるとしても,そのことは到る処において同一である要素がありうることを妨 げるものではない。そうとすれば,それらの要素は比較研究によってのみ,できるだけ完全な帰納法によってのみ,経験的方法に//よってのみ,引き出しうる ことはいうまでもない。頭からある特殊の型の心性または言語の土地のうえに腰をすえて,それを出発点とするのはよくない。かえって,なさねばならぬこと は,観察されたすべての現象から離れた一つの土地のうえに,つまりそれのみが事実の総体にたいして客観的判断をくだすことを許すような,いわばアルキメデ スの点に,腰をすえることである。かくしてひとは多様の心性のなかにも,多様の言語のなかにも,共通なものとそうでないものとを,たやすく見分けるであろ う。これはまさに,われわれが抽象状態を立てるときになすことである。(よく無視されてきた。ことであるが)「われわれがわれわれの社会のうちに認めるそ れのような」「人間精神」のなかに,出発点をとるべきではないことは,いうまでもない. これはLÉVY-BRUHL のいうところであり,それには全幅の理由がある。しかし,だからといって,はじめから汎時論的秩序の企てをいっさい断念してかかる必要もなかろう。「原 始」語はそれ自体によって,「文明」語はそれ自体によって,判断すべきである。言語活動もまたそれ自体によって、すなわちそれの含む事実の総体によって, 「原始人」の言語と「文明人」の言語との双方によって,判断すべきである。世界中の言語は,それらの体系を総括公式にまでみちびきえないほどには,多様で はないようである。もし他様な条件下において,一つの言語的可能性はここで,他のそれはそこで,実現されるとするならば,観察されたすべての可能性が言語 活動の可能性にほかならぬことを認めざるをえない。それゆえわれわれの見るところでは,異はただ多少とも偶然的である条件にあって,人類言語の本性そのも のにはない。言語状態なるものは,言語活動の一般的可能性と,ある特異的条件との乗積にほかならない;そしてそのつど,一般的可能性によるものと,特異的 条件によるものとを,引き出すことこそ,言語学の目的なのである」(小林訳、Pp.211-212)。

■原始的心性をめぐる問題

「Levy-Bruhl は,原始的心性とわれわれのそれとの差異が毫/も絶対的なものでないことを認めている。人間の心性はすべてある程度の「原始性」をおびている。「融即の法 則によって支配される表象および表象の連繋は,なかなか消え去ってはいない。それらは多少とも独立に……論理的法則にしたがうものと共存している」 (Les fonctions mentales dans les société inférieures , 455).これはけっきょく差異は先論理的心性と論理的心性との間にではなしむしろ先論理によって支配される心性と,先論理と論理との共存するもう一つの それとの間にある、というにひとしい。これだけで相当である、なぜならこれは両者を照合することを可能にするからである」(小林訳、Pp.212- 213)

「言語についても同じことがいえるに相違ない.なぜ ならLevy-Bruhl を信ずるならば,言語はそれの表現すべき心性を宿命的に反映するからである。/とはいえ,われわれはむしろこの問題を他の一面からとらえ,はたしてこのあ との命題がまったく真であるかどうかを尋ねてみたい。アプリオリにみても,言語は話手の心性の特異性を,よしんば本質的なものであろうとも,すべて反映す るとは限らないようである。これに反して,哲学にとっては不可欠でありながら,言語のなかに存在しないがゆえに言語学のなかではいささかの役割をも果たさ ない概念が多数ある。それゆえ何よりもまず,いうところの原始的心性なるものは,言語のなかに反映される機会をもつような特質を具えているかどうかを尋ね るべさであろう。/そもそも, Levy-Bruhl によれば、原始的心性の根本特質とはなんであるか? それはつまり,原始人は論理的法則に従わないということである。かれは同一性をも因果性をも認めない。さて同一性と因果性とは,めったに言語範疇にこたえ ない論理範疇であることは、銘記する要がある。その範疇がこれらの原理によって指導されるような言語がどこにあるか?その意義が同一性のそれ,または因果 性のそれであるような文法範疇を所有するような言語がどこにあるか? 誤りでない限りどこにも存在しない。もしひとが時たまこの種の意義によってなにがしかの形態論的範疇を定義しようとしたとすれば,その定義はきまって先天 的なものであり,そのうえ論議の余地の多いものであった。PLANERT は因果性によって動詞を定義できると豪語したが,証拠のかけらをもあげなかった。かれにたいしてはこう反駁することができょう:因果性の論理範疇は,言語 の材料のなかに,ほとんど到る処で表現されようが,そのものとしての形態論的秩序の範疇を生ぜしめるものが因果性そのものであるとは,とうてい受け取りが たいことである」(小林訳、Pp.213-214)

■イェルムスレウによるレヴィ=ブリュル批判=言語 における一般性・共通性・普遍性の存在

「とにかくLevy-Bruhl の指摘した言語的差異は,われわれには根本的なものとは思われない。いずれにせよ,それらは一般文法の,すなわち存在するすべての言語的可能性をふくむ1 個の抽象体系の,存在しうることを妨げはしないようである。/ついでながら,のちに再説すべき一事実にも言及しておく必要がある:言語が一つの「制度」で あり,Levy-Bruhl のいうように「囲繞(しゅうじょう)社会的実在」の反映であることが真であるとしても,言語が一つの心理的実在の,いっそううがっていえば,精神生理的実 在の反映であることもまた,それにおとらず真である。社会的事実が時と場所と環境にしたがって無限に変るものとしても,人間の本性そのものに属し、与えら れた社会的諸条件下において人々の行動する仕方を決定するところの、一つの人間心理が存在するに相違ない」(小林訳、p.216)。

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「われわれは言語類型論なるものを,van GINNEKEN のするように構想する。それゆえわれわれは昔したように、よく知られた言語の3個ないし4個の類型:居折語、謬着語、孤立語、および集合語を立てる式のも のに類する企てなどを考えるものではない。この区分はたしかにきゅうくつにすぎ、アプリオリにすぎた。われわれはまた「民族心理学」といったものを作り出 そうとも思わない。この語はとかく誤った見解をよびおこしがちである。/われわれはむしろLevy-Bruhlの意味における言語類型論を思いうかべる。 もしかれの識別が正しいとすれば、そのような類型論をかれが作り出したからにほかならない。かれ自身次のように述べて必要な留保を設けた:「それゆえ具な る類型の心性にたいしては,異なる構造の言語が対応すべきである.とはいえ,あまり一般的な原理の信仰に走りすぎることはできない……ある社会集団がしば しば他の集毘の言語を採用することもある」[Les fonctions mentales, p. 151.](小林訳、p.236)

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