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多様性を担保するアイデンティ ティ・ポリティクスに対する松田素二(2009)の批判

On critique of the identity politics in diverse social context by Motoji Matsuda, 2009

池田光穂

「教育の多様性の保障は、たしかに一元的で均質的な従来の公教育システムの問題点を克服するという一面をもっている。しかしそれと同時に、日本 社会におけるマイノリティ管理の機能を果たしていることも指摘できるだろう。公教育からドロップアウトする大量の児童生徒を、統治権力の手のおよばない社 会の不可視の世界へと追いやるのではなく、社会の周縁であっても、統制。監視の可能な空間を創出することは、異質性が雑居する現代社会の効率的統治にとっ ては意味のあることだからだ。/こうしてみると、多様な生の選択は、じつは、社会の分断・断片化を促していること、流動的で柔軟なアイデンティティの生成 は、じつは、人々のあいだの共同性の想像を妨げ連帯の創造を阻害していることがわかる。1990年代には人々を不自由から解き放ち、それぞれの生の実存を 実現するために貢献したものが、現在世界においては、新たな統治にとってより適合的なものへと姿を変えつつあるのである。このような現実の出現に対して は、それを乗り越え克服するために、当然、同じような問いかけが生まれることになる。それは、諸個人諸主体のあいだの分断化・流動化が促進されるなかで、 人はどのようにしてつながっていけるのだろうか、という問いかけである。それは言い換えれば、自己の生の実存を豊饒化しながら、社会的連帯を築きあげるた めの苦悩でもある。これについて、リベラル論者のリチャード・ローティは、共同体の意義を強調しながら連帯創出を訴える立場を批判する。彼は、「私的な自 己創造」と「公共的連帯」という異質な位相を両立させるためには、(従来の共同体像ではなく)偶発性とアイロニーをおびる感覚を共有する市民の共同性に依 拠せざるをえないと主張する(ローティ 2000:119-130)。これに対して、マイケル・サンデルやアラスデア・マッキンタイアなどのコミユニタリアンは、諸主体が主体であるためのアイデ ンティティの核心を共同体に求めたり、他者とのあいだに社会的連帯を生成し、現実にコミットしそれを改変するための実践を保障するために共同体を希求した りすることになる。……もちろんローティや樫村(愛子)の指摘する私的な自己創造や再帰化は、たんに流動化され断片化された主体を無条件に賞賛するもので はない。また流動化や断片化が、新たな統治のなかに包摂されたり、社会的連帯を拒否して原子的自我に自問したりすることを評価しているわけでもない。彼ら は、私的自己や再帰性のなかに、もともと偶発性や創造性が備わっていることを強調することで、断片化された主体に社会的連帯の可能性を読みとろうとしたの である。」(松田 2009:10-11)。

松田は、教育の現場で、多様性を保障することは、画一的システムを克服する点では評価できるが、同時に、日本では権力によるマイノリティ管理の 機能を果たすから、それは(人びとにとって)危険であると指摘する。また、それは、意見や見解の違う個人が「連帯」することを妨げるから、それは悪いもの であり、結局のところ「新たな統治」の1つであると結論づけている。

個人のアイデンティティよりも、最後に引用されているローティや樫村愛子の意図を、松田が称揚する「社会的連帯」のほうに惹き付けることに興味 があるようだ。

彼の論理は、以下に述べるように非常にわかりやすいいくつかの問題含みの前提から構成されている。

1.マイノリティは権力によって管理される契機をつねにはらんでいる。それは「統治」という名でよばれる。

2.権力は、多様な教育を通して、それに参加する多様な背景をもつマイノリティを結局は管理しようとしている。

3.多様性の中にいきる、個々人のアイデンティティを重要視することは、個々人を分断し、「社会的連帯」を妨げることに繋がる。

4.したがって、社会的連帯を担保するためには、社会の中で行為する個々人は、つねに、自己再帰的に、自分が社会のなかでどのような位相にいる ことを確認しつつ、つねに社会的連帯を志向すべきである。あるいは、そうであることが望ましい。

ということになる。これらのテーゼには、それぞれ、そのような前提や、テーゼそのものを(自己再帰的に)問いかける作業が私たちに必要になるだ ろう。

(1)なぜ権力は、マイノリティを管理しようとするのか? 権力は管理を通して、いったいマイノリティからどのようなことを得るのか?

(2)「統治」は絶対悪なのか? 再帰性の原理と不可分な自己統治もまた、問題なのであろうか? それとも、統治とは他者からの自己へのコント ロールという意味なのか?

(3)個々人のアイデンティティを重要視しなくなったり自己否定することで、闇雲に「社会的連帯」を謳うことは、全体主義ではないのか?

(4)「社会的連帯」が社会的強制力をもち個々人のアイデンティティや多様性を抑圧するような、歴史的事象はいくらでもあげることができる。 (1)の権力や(2)統治と、社会的連帯はつねに背反するものなのか? デモクラシーは、民衆が権力をもち、自分たちで自分たちを統治する、ベストではな いが、我々が知るなかでは、異論のない他者と自己への「統治技法(=統治術)」ではないのか?

大切なことは、松田の意見に首肯する/否定だけでなく、彼がどのようなことを「前提」に話しているのか、聴衆はまともに考えることが必要だ。まともに、考えるということは、彼の前提を吟味して、それをきちんと「君の理性的判断」を通して自分自身で考えることなのだ。

リンク

  • 統治術・統治性
  • アイデンティティ
  • 文献

  • 松田素二「序論 日常人類学の世界へ」『日常人類学宣言!:生活世界の深層へ/から』Pp.1-24,世界思想社、2009年
  • その他の情報

    Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099

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