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語ることとコミュニケーション

Narrative/Utterance and Communication

池田光穂

エマニュエル・レヴィ ナスEmmanuel Lévinas, 1906-1995)の思想(ウィキペディアか らのコピペ);あるいは《レヴィナスの他者論》

「フッサールの現象学とハイデガーの『存在と時間』 から出発した。『実存から実存者へ』を経て、ハイデガーの暴力的な存在論を排し、非暴力的な存在論の構築を目指して『全体性と無限』を著す。しかし、デリダの「暴力と形而上学(『エクリチュールと差異』)によって批判され、再び「倫理-存在 論」を構築することを目指す。その結果書き上げられたのが、『存 在するとは別の仕方であるいは存在することの彼方へ』(『存 在の彼方へ』)である。レヴィナスは暴力的でも非暴力的でもない、全く別の「倫理-存在論」、むしろ「倫理-存在論」ではない「倫理-存在論」を 構築した。 レヴィナスは、第一哲学を倫理学としている。 レヴィナスにおいて、倫理学は、私と他者の関係、「他者論」として構築される。そして、その前提となるのは、ある(il y a)、顔(visage ヴィザージュ)という「存在者」の現前で ある。そこには、存在(être)と所有(avoir; il y a の a は avoir の変化形である)を結ぶ独自な志向がある。 「存在者」は、動的な仕方で「私」に対して現前し、名を持ち、実詞化するこのような存在者は、名をもたない抽象的な「存在」(être)とは区別される。 また、名をもった「存在者」は、「他者」(l'autre)として倫理学の課題とさ れる。他者は、それ自体で自存する。また、レヴィナスにとって、暴力 とは、否定の一種である。そして、所有は、対象の自存性を否定するた め、暴力的である。したがって、了解は、一種の所有であるため、暴力 的なものであり、否定の一種である私が倫理的に他者に対して振る舞うかぎり、私は他者への了解を課題とする。そのかぎ りで、私は他者に対して常に暴力的な関係を結ばざるを得ない。他者とは、絶対的に私とは同化されえないもの(存在者)、所有されえないものとしてある。し たがって、私が他者を他者として了解するとき、そこには必ず私の了解しえないものが存している。つまり、他者が他者であることをやめることは、ただその 死・他者が存在者であることをやめることによってのみ可能である。 すなわち、他者の否定とは、殺人としてのみ可能となる。「他者は、私が殺したいと意 欲しうる唯一の存在者なのである」。そして、私は他者を殺しうる。し かし、それは他者の顔と対面しないときにおいてのみ可能となる殺人 への誘惑、他者の否定への誘惑は同時に顔の誘惑でもある。存在の拓けのなかで出会われる「顔」を人は殺すことができない。そしてそのような 対面は言葉・言説において可能となる」ウィキペディア).

【引用】

「〈語ること〉、それは隣人に接近し、隣人に向けて 「意味することの口を開く」ことである。このような〈語ること〉は、説話として〈語られたこと〉のうちに刻印される「意味の給付」に尽きるものではない。 本来的な意味での〈語ること〉は、どんな対象化よりも先に他人に対して口を開ける意味することであって、諸記号の交付ではない。あたかも発語することが思 考を言葉に翻訳することでしかないかのように、「記号の交付」はそれに先立つ記号の表象に帰着してしまう。とすると、発語することは、実体的堅固さを有す るものとして、対自かつ即自的(chez soi)にあらかじめ存在していたことになろう。この限りにおいて、他者とのあいだに張られた連関も、対自的かつ即自的なものとして定立された主体を起点 とする志向性であることになる。しかもこの主体たるや、一切の苦痛を免れて戯れに身を委ねる主体、戯れの領野として開示された存在を忠考によって測る主体 なのである。たしかに、〈語ること〉はコミュニケーションである。ただし、〈語ること〉が一切のコミュニケーションの条件、曝露である眼りでそうなのだ」 (レヴィナス 1999:124-125)。

「コミュニケーションは、心理学的諸要素の結合とし ての真理や真理の現出といった現象に帰着するものではない。〈自我〉の内なる思考、〈自我〉の内なる思考をいま一人の〈自我〉に移植しようとする意志ない し志向、〈自我〉の内なる思考を指示する記号に媒介されたメッセージ、いま一人の〈自我〉による記号の知覚ないし判読、以上がコミュニケーションを織りな す心理学的諸要素とみなされている。しかし、これらの要素の寄せ集めは、他人に対して自我があらかじめ曝露されることのうちに、〈他人〉に対して無関心 ー ならざることのうちにすでに位置づけられており、曝露はただ単に「メッセージを送ろうとする志向」ではないのだ。記号ないし徴しを送ることで合図しようと する意図、更には記号ないし徴しの意味することさえ、〈他者〉へのこのような曝露を前提としているのだが、かかる曝露の倫理的意味はいまや明白である。近 さとコミュニケーションの筋立ては認識の一様態ではない。情報の流通はコミュニケーションの開口を前提としており、それゆえ、コミュニケーションの開口を 情報の流通に還元することはできない。コミュニケーションのこのような開口は〈語ること〉において成就される。それは、〈語られたこと〉に刻印された内容 に、〈他人〉によって遂行される解釈と解説に委ねられた内容に由来するものではない。自己を剥き出しにするというリスクのうちに、真摯さのうちに、内面性 の決壊と一切の避難所の放棄のうちに、外傷への曝露のうちに、可傷性のうちに、コミュニケーションの開口は存しているのだ」 (レヴィナス 1999:1125)。

「剥き出しの皮膚を曝露したときでさえ、まだ何かが 隠されたままであるかもしれない。ところが〈語ること〉は、剥き出しの皮膚をも貫いて、この隠された何ものかを剥き出しにする。〈語ること〉、それは剥き 出しにされた皮膚の呼吸そのものであり、この呼吸はどんな志向にも先だっているのだ。〈語ること〉における主体は、即自として自己ないしわが家に住み、わ が家のうちに自己を隠蔽したりはしない。傷つけられ追放された主体は、この傷、この追放をも隠れ家とみなして、そこに自己を隠蔽するのではない。つまり、 主体に刻印された傷、主体の追放を、自分で自分を傷つけ、自分で自分を追放する能作とみなすことはできないのだ。主体の萎縮、それは主体が裏返されること である。主体における「他人に向けて」(envers l'autre)、それは主体がこのように裏返されること(mise à enverse)にほかならない。表なき裏である。〈語ること〉の主体は記号ないし徴しを与えるのではない。そうではなく、〈語ること〉の、主体はみずか ら徴しと化し、他人への忠誠のうちに消え去るのだ」(レヴィナス 1999:126-127)。

■レヴィナスに関連する思想家たち

『全体性と無限』岩波文庫解説によると、その著作に おいて影響のうけた哲学者たちは以下のとおり:フッサールのテクスト、ハイデガー『存在と時間』、マルチン・ブーバー、ガブリエル・マルセル、フランツ・ ローゼンツヴァイク、アンリ・ベルクソン

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