人類にとって〈いわゆる芸術作品〉とは?
By David Diaz Martinez? from the FaceBook, "Banksy" fun site
4.人類にとって〈いわゆる芸術作品〉とは?(このページ)
すべての芸術は存在を作り出すこと、現実的でも非現実でも、作品を通して現存を生じせしめる問題に関わるのである(アリストテレス)
The
sky above the port was the color of television, tuned to a
dead channel. - William Gibson, Neuromancer, 1984/
マヤの戦争捕虜の衣装は芸術と呼べるのか?/Munch on demand in the COVID-19 era (parody
παρωδία art in the Meta)
「港の空の色は、空きチャンネルの合わせたTVの色だった」(黒丸尚 訳)。脳に接続された端子を光ファイバー経由で直接インターネットに接続する生体ハッカーの生き様を描いた世界初のサイバーパンク小説『ニューロマン サー』の冒頭の文章である。空の色がVDT(Visual Display Terminals)のホワイトノイズで表現されているところが、僕たちの新しい視覚認知の様式の到来を予言している。原文はインターネットに「転がって いる」のでググってほしい。
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西南フランスの旧石器時代の遺跡ラスコー洞窟の1万7千年ほど前に描かれたとされる壁画や、2万4千年前のものとされるオーストリアのヴィレン ドルフのヴィーナス像(写真1.)のように、現代人の美的感覚からみても、考古学的価値に劣らず「審美的価値」があるとみなされる「芸術作品(art work)」がある。これらは正確に言うと今日的な意味で芸術作品として制作されたという証拠がないために、呪物や神に対する捧げものといったものかもし れないと言われている。今日の芸術作品やまたその大量に作成された複製や模造が、家庭のリビングに飾られて人々の心を潤すように、芸術作品というものはさ まざまな意味と機能をもちつづけている。その意味で古代のそれらの宗教的な目的をもった遺物も、それを見たり、保持したりした人々にさまざまな複合的な意 味をもたらしたことは言うまでもない。すなわち、人類の歴史の中に芸術作品が登場した時から、その作品がもつ個人的・共同体的・人類普遍的な機能は最初か ら複合的な意味(=多義性)をもっていたのだろう。
第2節で述べたように、美しいものは感性的なもので、言語による完璧な説明は期待できないものの、我々が美しいものを良いものや、心地良さと分 類しているものは、同じカテゴリーに属し、それらは趣味という判断能力に根ざしているというカントの指摘について触れた。しかしカント以前から、神学者や 宗教家たちによって、芸術は香しき文化の創造の賜物であることはさまざまなところで指摘されてきた。多くの場合は、それらは形相(かたち)を通して、我々 の感情や心に直接訴えかける超越的なもの——つまり神がそのような美的なものを与えた——というふうに理解されてきた。僕たちが薄暗い御堂の中でくすんだ 仏像と対面した時に、心が洗われる経験をもつのは、美と宗教的敬虔さが共存していた頃の名残だとも言える。
華麗な芸術作品は、個人が所有したり、楽しんだりするものではなかったので、多くの場合、寺院や教会などに、聖像や聖画の形で、つまり崇拝対象 として収納されていた。そのような時代では、聖像が美しいというよりも、敬うものであるという意識のほうが優越していたことは想像するに余りある。つまり 敬う気持ちが、やがて「高貴なるものは美しいに違いない」という判断を生むのである。宗教的に聖なるものには作者性が希薄である。聖なるものは作者性を超 越すると言うのは多くの宗教家の主張である。実際は、寺院や教会にある芸術作品は、大作が多いことから、個人の作者(画家や彫刻家)が製作して注文に応じ ていたのではなく、絵画や彫刻工房において、親方と弟子たちによる製作過程を通してでき上がっていた。そのため、それらの宗教的芸術作品は、親方の名前 (ミケランジェロやラファエロを想起せよ)の作品で今日呼ばれてはいるが、実際のところ分業体制で製作され、また個人の作者性よりも、工房の作者性におい て名声や格付けがなされていた。
僕たちは工業製品を利用するときに、よもやそれを崇拝する態度をもつことはなく、その機能や実用的価値を大切にする。しかし、同時に、自動車や 家電製品はスタイルの良さにより購入を決めたり、あるいはメーカーのブランドにより選んだりすることがある。現代の我々が、自動車や家電製品を購入する際 に、自分の好みを表現するのに、言葉で上手に説明できないが、好きか嫌いかの比較判断が容易にできるように、カントのいう趣味(Geschmack, 英訳ではtasteと訳されている)の判断能力が、それらの傾向性を形づくっているのである。このような好みは、時代により流行り廃りがあり、社会集団で まとまった傾向があり自分の属している集団の「好み」と他の文化的集団のそれが違うこともよく知られている。つまり、そのような好みの集団的特性は、我々 が属している文化の産物なのである。好みが造りだしている選別の過程が、我々の言うところの文化というものを形づくっているとも言える。
さて、文化人類学者は異文化の研究をするが、これまでの研究者がフィールドワークの地に赴く先は、伝統的な社会と呼ばれるところであった。もち ろん、今日の伝統的な世界も、伝統的な慣習や文化を保ちながらも、国家制度に組み込まれたり、工業文化の影響を受けたりしている。また、ニュースやイン ターネットを介して、西洋の近代世界の生活の様子についても知られている。彼らの生活に関するそれらの情報がこちらの我々の社会に届くのと同じくらい、我 々の生活の様子(=情報)も彼らに伝わっている。情報と資本の世界循環つまりグローバリゼーションの時代を彼らと我々は一緒に生きていると言える。
文化人類学者が伝統的社会の「芸術」を捉える際には、かつては「未開芸術(primitive art)」というテーマを調べていると言われた(ルービン 1995)。つまり、彼らの芸能や舞踊や、そこで使われるユニークでカラフルな仮面や伝統的衣装(あるいは民族衣装)、あるいは共通するデザインが、未開 芸術の代表だとされた。それらは様式化されており、文明社会における装飾芸術との関連性や共通性も指摘されて、伝統意匠(traditional design)とも呼ばれる。未開芸術は、それぞれの文化を共有する社会集団(=民族)の芸術なので、民族芸術(ethnic art)と呼ばれる。とりわけ未開という言葉が、素朴であると同時に「遅れている」というニュアンスから避けられるようなってから以降は、好んで民族的= エスニックと言われることが多い。民族芸術であるエスニック・アートという用語は日本語としても定着しており、今日の我々がエスニック調という文様やスタ イルあるいは素材のテイストなどをさす場合のオリジナルの「作品(art work)」のことを指す言葉である。民族芸術に魅了された人類学者たちは、熱心に彼らの社会に生活を共にしながら調査——フィールドワーク——をして、 多数のスケッチを残したり、また、収集したりして、自分たちの社会に持ち帰った。
文化人類学者は、伝統社会に長期滞在して、彼らの文化に関する膨大な記録をその現場に立ち会いながら収集するが、民族芸術の意匠(デザイン) は、その社会の宇宙観や社会観、あるいは時に彼らが口伝えで伝える神話の内容を表現するものであることもまた発見する。クロード・レヴィ=ストロースとい う文化人類学者が残した『悲しき熱帯』の中にあるブラジルの高地に住むカデュヴェオ族(Caduveo)の女性の顔の文様は有名である(写真2.図 2.)。ここでは男女の分業が明確で、文様を描くのは女性で、男性は彫刻のみをおこなう。さて、この顔の文様はこの民族の独特の様式をもつが、歴史記録に よると、18世紀中ごろのイエズス会の宣教師たちが当時もまた彼らが熱心に何時間も顔に文様を描いて、それに熱中する記述がある。その宣教師(修道士)は そんな時間を切り上げて食べ物を採集したり作物をつくったりするために精をだしたほうがよいとアドバイスした時に、抗議の言葉をあげたという。カデュヴェ オの人は言う:「馬鹿なことを言うんじゃない、もし我々が顔に彩色していなかったら、まるでジャングルの中の動物と変わらないではないか!」1935年当 時400近くのデザインをカデュヴェオの女性に描かせて収集したレヴィ=ストロースによると、カデュヴェオのデザインは150年たらずの間ほとんど変化せ ずに受け継がれていたという。カデュヴェオの装飾とデザインは、男と女により民族芸術の担当がわかれているように社会のあり方をすべて二元的な対立で分類 する思考法に支えられているというのである(レヴィ=ストロース 2001:329-339)。
大阪府吹田市にある国立民族学博物館(民博)を訪れてみると、文化人類学たちが収集した実にさまざま民族芸術の「作品」が展示されている。しか し、実際の展示では、稀な例外を除いて、それらの多くは製作者の個人名はなく、その民族名と時代が記載されているのみである。もちろん、僕たちがそれらを 芸術「作品」としてみるのではなく、文化の「展示物」(=文化の表象)として扱っていることを知っているために、大きな違和感がない。つまり、民族学博物 館に展示されているものは、博物館の学芸員もそして観客である僕たちも、それらが芸術品であるとは認識していない。にもかかわらず、エスニック・アート愛 好者は、足しげく博物館に通っている。時にはスケッチをしたり、スマホで写真を撮ったりしている。そのような愛好者の中にはプロ・アマチュアを問わず芸術 家がいて、全体を模写したり、自分の作品のなかに取り入れたり、また、そこからインスパイアーされた作品を熱心に創りだしている。オーストラリア先住民 アートなど民族集団の伝承や決まりで禁じられた一部の「作品」を除いて、民博は一般の美術館とは異なり一般的にスマホ撮影は可能なのである。日本の美術館 で絵画作品をスマホで撮ろうとすると、監視員から制止されること請け合いだ。はたして、民族学博物館の作品は、芸術なのか、それとも文化の展示物なのだろ うか?
この認識の違いを考えることは、決して瑣末なことではない。なぜなら、芸術の定義をめぐって20世紀初頭に、〈博物館に展示されているもの〉と 〈美術館に展示されているもの〉が、思わぬ機会において出会い、それらの2つのジャンルの間で、予想もできないような形(=表象)のやり取りがなされてい たからである。この背景の事情をよくのみこむと、文化人類学者が、いったいどのようにして芸術の問題に踏み込み、その研究(=芸術人類学)を可能にするの がよくわかるようになるだろう。
I have no faith in contemporary art and its auction sales, because contemporary artists do not respect traditional folk art.- a friend of mine said.
Bathroom graffiti has evolved as a fine art in case of
over-intensity (左:ヨーロッパのトイレの落書き;右:the so-called "drip" painting of
Jackson Pollock)
(左)作者:無名の犬「無題」/Duchampの作品/
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人類の仕業なのか、犬の仕業なのかわからない、だが、いずれにしても「オス」の責任であることは確かだ!!